生原稿を見たの⁉
次の日の放課後。
明日からゴールデンウィークなので、教室から出ていく生徒たちの姿は、心なしかみんな浮足立っていた。部活動へ向かう者。友人と連休の予定を話しながら帰る者。その声が少しずつ遠ざかっていく。
俺は自分の机の中を確認し、授業で使った教科書を鞄へしまう。
昼休みに紬から聞いた話によると、大竹さんは入部届を合格通知と勘違いしたまま家に置いてきたらしい。大竹さんへどう説明すれば伝わるのか考える。書いて、持ってきて、提出する。これ以上、分けようのない三段階である。
雪白さんは自分の席に残っていた。机の上には、難しそうな本が開かれている。周囲が騒がしくても姿勢を崩さず、一定の速さでページを読み進めていた。
やがて、紬が教室へ入ってきた。手には、昨日の聞き取りをまとめた用紙を持っている。
「できた」
紬は俺の近くの席へ座り、用紙を机の上へ置いた。昨日、九人から聞いた話のうち、母の資料として使えそうな内容だけを整理したものだった。
「ありがとう。後で確認する」
「うん」
少し遅れて、室井君も姿を見せる。教室へ入ると、迷うことなく俺の席まで歩いてきた。
「相田殿。今日はどこで活動する」
「今日はここ。昨日聞いた話を確認して、これから何を調べるか決める」
「相田殿の家には行かないのか」
「今日は行かないよ。母さんも仕事中だし」
「そうか。また相田カノン先生から、話を聞かれるのだと思っていた」
教室の後ろで、ページをめくる音が止まった。雪白さんの指が、紙の端へ触れたまま動かなくなっている。
すぐに顔を上げることはなかった。読んでいた一行を最後まで追い、栞を挟み、本を閉じる。
それから、こちらを向いた。
「室井君、相田カノン先生に会ったの?」
室井君は、雪白さんが話しかけてきたことに驚きながら答える。
「ああ。相田殿の家で会った」
「先生本人から、山府について質問されたの?」
「そうだ」
「どのようなことを聞かれたの?」
「山府での暮らしや、天山流の稽古についてだ。他にも、原稿の絵について、武道家として意見を求められ――」
「生原稿を見たの⁉」
室井君が言い終わる前に、雪白さんは、目を見開いて勢いよく体を乗り出した。わずかに口を開いたところで、俺と紬が自分を見ていることに気付く。
そのまま何事もなかったように口を閉じ、着席した。
「雪白さん」
「何かしら」
「母さんの作品、好きなの?」
雪白さんはすぐには答えなかった。閉じた本の上へ両手を重ねる。
「有名漫画雑誌で四十五巻も続いている作品を、知らない方が難しいでしょう」
「知ってるか、じゃなくて、好きなのか聞いたんだけど」
「今は、室井君のことを聞いているの」
答えになっていなかった。
ただ、室井君が原稿を見たと知った時の様子を見る限り、結構好きなのだろう。
因みに室井君が見たのは生原稿ではなく、ただの下描きだ。
雪白さんは落ち着き払い、机の上へ用紙を出す。
「昨日貰った入部届、持ってきたわ」
「ありがとう。確認するね」
俺は入部届に必要事項が記入されているか確認する。問題ないので、先生に提出しに行こうと言おうとしたところで、教室の扉が勢いよく開く。
「お待たせいたしましたわ!」
大竹さんが元気よく、教室へ入ってきた。昨日と同じように、迷わず俺達の机へ近づいてくる。自分が山府研究部の一員であることを、まったく疑っていない足取りだった。
俺は大竹さんが話し始める前に尋ねる。
「大竹さん。入部届は?」
「自宅の机へ、大切に保管してございますわ!」
昼休みに聞いたとおりだった。
「持ってきて提出してくれないと、入部できないよ」
大竹さんの足が止まる。
「合格通知を返却するのですか?」
「返却じゃない。そもそも合格通知じゃない」
「ですが昨日、あちらが入部届という正式名称だと教えていただきましたわ」
「正式名称を教えたんじゃなくて、勘違いを訂正したんだよ」
大竹さんが目を瞬かせる。
「合格通知ではない?」
「入部届」
「合格をお知らせするための入部届でもなく?」
「入部を申し込むための入部届だよ」
「では採点は?」
「してない」
「合格基準は?」
「ない」
「合格発表は?」
「昨日から一度もしてない」
一つずつ答えるたびに、大竹さんの表情から自信が消えていく。やがて、助けを求めるように雪白さんを見た。
「六花さんは、どう思われます?」
「思うも何も、そのとおりでしょう」
雪白さんの返事は冷淡だった。
「入部届は、部があなたを認めた証明ではないわ。あなたが入部を希望していると示すための書類よ」
大竹さんは雪白さんを見ると、次に俺を見る。さらに紬へ視線を移した。
紬が短く付け加える。
「書いて、持ってきて、提出」
大竹さんに伝えるために俺も考えていた三段階だった。同じことを考えていたらしい。
大竹さんは、その言葉を自分でも繰り返す。
「書いて、持ってきて、提出……」
「そう。それでようやく設立予定者としての手続きが済む」
大竹さんはしばらく黙った。自分がまだ手続きを終えていないことを理解したらしい。
俺は話を終わらせることにした。
「今日は手伝って貰うけど、入部届は今度持ってきて」
「承知いたしましたわ」
大竹さんは真剣な表情で頷く。
「今夜、必要事項を記入し、明日必ず提出いたします」
「明日からゴールデンウィークだけどな」
「では来週、改めて合格いたしますわ!」
「提出するだけだから」
肝心の手続きは伝わったが、合格云々だけは、最後まで消えなかった。
俺は空いている机を動かし、紬たちと囲めるように並べようとする。
その時、雪白さんが口を開いた。
「相田君、私の入部届は、いつ提出するの?」
「今日の活動が終わってから提出しようと思ってたけど」
「なら手間だろうし、華恋が持ってきた時に、まとめて出してくれて構わないわ」
「まあ! お気遣い、ありがとうございます」
大竹さんが優雅にお辞儀をする。
「ということは、私と六花さんは同期ということですのね!」
「入部届はもう俺が預かっているから、大竹さんより先輩だぞ」
「まあ! でしたら、是非先輩と呼ばせて下さい!」
「やめて」
雪白さんの声が冷たくなった。
「とりあえず、今日の活動しよう」
紬がその場を収めた。
雪白さんが近くの椅子へ腰を下ろしたのを確認してから、俺は紬の持ってきた用紙を机の中央へ置いた。昨日の聞き取りを、回答ごとに整理したものだ。
「昨日聞いた話は、家でまとめてある。今日はこれをもとに、次に何をするか決めたい」
室井君が用紙へ目を落とす。
「まだ話を聞くのか」
「それも続ける。ただ、同じ聞き方だけだと限界がありそうなんだ」
紬がまとめた用紙を指す。
「話だけだと、風景が見えない」
「そういうこと。だから次は、普段の放課後を実際に案内して貰おうと思っている」
大竹さんが勢いよく身を乗り出した。
「では、昨日の九名をもう一度お呼びいたしますわ!」
「一度には呼ばないよ」
「でしたら、三名ずつ三組に分けますのね!」
「それだと行列になって帰るだけだろ」
放課後の過ごし方を調べたいのであって、集団下校を見たいわけではない。俺は用紙の空いているところへ、次の活動案を書き加えた。
「一回につき一人。多くても二人だな。学校から普段立ち寄る場所まで一緒に歩かせて貰う」
「御自宅まで伺いますの?」
「そこまでは行かない。本人が見せてもいい範囲だけだ」
自宅の場所や、家族に関わることまで無理に聞くつもりはない。どんな道を通るのか、途中で何をするのか。普段なら気に留めないようなことを、実際に歩きながら教えて貰う。それだけでも、昨日の回答にはなかった景色が見えてくるはずだ。
「案内してくれる人には、先に活動の目的を説明する。写真も、撮っていい場所だけにする」
紬が別の用紙へ書き留めていく。
すると大竹さんが、真っ直ぐ手を挙げる。
「案内役の選出は、わたくしにお任せ下さいまし!」
「選ぶというより、頼むんだけどな」
「では、皆さまへ選ばれた名誉を丁寧にお伝えいたします!」
「名誉も付けなくていい。断っても困らない頼み方をしてくれ」
「もちろんですわ!」
大竹さんは力強く頷いた。
「『山府研究部の放課後案内役へ選ばれました』と――」
「もう断りにくい」
頼み方から相談する必要がありそうだった。
「案内してくれる人への質問は、みんなでやる。写真は俺が撮る。紬には、その場で出た話を記録して欲しい」
「うん」
「わたくしは?」
「大竹さんは昨日みたいに、案内してくれる人が普段どおり話せるようにしてくれると助かる」
「聞き取り責任者ですわね!」
「そういう役職はない」
「では、放課後案内総監督ですわ!」
「名前を付けないと手伝えないの?」
「いいえ。名前があった方が立派に聞こえますの!」
活動内容より、肩書の方が大きくなっている。
「総監督じゃなくても、大竹さんの役割は大事だよ。もし昨日の人を案内役で連れてくるなら、相手の普段の過ごし方を知ってるのは、大竹さんだから」
「承知いたしましたわ。責任を持って、普段どおりのお話を引き出してみせます!」
責任者ではないという説明は、もう届いていないらしい。
室井君も手を挙げる。
「相田殿。自分は何をすれば良い」
「稽古のない日に来てくれればいい。毎回、全員が揃う必要はないから」
「承知した」
「大竹さんも、家の予定がある日はそっちを優先していいよ」
「いいえ。わたくしは部活動を優先いたしますわ!」
「その前に入部届を持ってきて」
大竹さんの勢いが止まった。
立ったまま、目をそらす。
「……来週、必ず合格通知を持参いたしますわ」
「入部届」
「正式名称は存じております!」
知っているなら、そろそろ正しく呼んで欲しい。
雪白さんは、何かを考えながら、黙って会話を聞いていた。
「私も家の用事があるから、全部参加するのは難しいわ。相田君たちに負担を掛けてしまうけれど、それでもいいかしら」
「ああ、元から全員揃うことを前提にしていないから、用事がある時は言ってくれ」
雪白さんは、安心したように頷いた。
俺は用紙へ、話し合いで決まった内容を書き込む。
「ひとまず、これでやってみよう。実際に歩いて足りないものがあれば、その後で直す」
「分かったわ」
「承知した」
「お任せ下さいまし!」
返事だけなら、既に大竹さんが誰よりも部員らしい。
山府研究部の最初の校外調査は、誰かの普段の帰り道を一緒に歩くことに決まった。




