二人は六家
聞き取りが終わりに近づいても、雪白さんは帰ろうとしなかった。教室の後ろに座り、本を開いている。こちらへ近づいてくることも、会話へ加わることもない。
ただ、読書に集中しているようにも見えなかった。ページをめくる音がしたかと思えば、大竹さんたちの会話が盛り上がったところで止まる。誰かが笑えば、わずかに顔を上げる。
俺や紬が記録について話すと、今度は本へ視線を落としたまま、指だけが動かなくなる。その変化は小さかったが、明らかにこちらを意識している。
紬がノートの書き込まれた内容を上から確かめ、小さく頷く。
「使えそうなの、多い」
「そうだな」
最初に用意した質問への回答だけなら、数行で整理できた。今は、その横に矢印や補足がいくつも書き足されている。
「帰ったら整理しよう。まとまったら、母さんにも見せられる」
教室の後ろで、本のページをめくる音が止まった。
俺はそちらを見る。
雪白さんの指が、ページの端に掛かったまま動いていない。顔は本へ向いている。それでも、読んでいないことは分かった。
隣にいた紬も雪白さんを見る。
「止まった」
「見れば分かる」
声を抑えて答える。
その時、雪白さんが顔を上げた。真っ直ぐこちらを見たので、目が合った。
俺が何か言うより先に、雪白さんは何事もなかったように視線を落とす。
「読んでるふり」
紬が小声で言う。
「聞こえるぞ」
「聞こえてもいい」
怒らせたいわけではないと思う。ただ、気付かれていることを隠すつもりもないらしい。
俺はもう一度、雪白さんへ目を向けた。雪白さんは先程めくったばかりのページを見ている。しかし、そこから先へ進む様子はなかった。
相田カノンの次回作に興味があるのか。山府を題材にした作品が気になるのか。それとも、大竹さんたちが話していた内容そのものを聞いていたのか。
今の反応だけでは分からない。
「声、かける?」
紬が尋ねる。
俺は少し考えてから、首を横へ振った。
「やめておこう」
雪白さんが話したいのなら、自分から加わるはずだ。帰らずに残っているのも、雪白さんなりの意思なのだろう。
俺達は、雪白さんをそのままにしておくことにした。
紬が記録を書き終えたところで、俺は質問用紙を机へ置いた。
「これで全員だな。今日はありがとう」
九人の生徒たちが、それぞれ立ち上がる。長く引き留めることになったが、最初に見せていた緊張はもう残っていなかった。
「こんな話でよかったんですか?」
最初に答えてくれた女子生徒が尋ねる。
「ああ。むしろ、途中から出てきた話の方が知りたかった」
「だったら、また何か思い出したら大竹さんに言っておきます」
「わたくしが責任を持ってお伝えいたしますわ!」
なぜか大竹さんが胸を張った。
協力してくれた生徒たちは、使った椅子を元の場所へ戻し始める。大竹さんも手伝おうとしたが、今度は友人から先に声をかけられた。
「華恋は用紙を集めて。椅子は私たちが戻すから」
「承知しましたわ!」
先程机を引っかけたことを覚えているらしい。大竹さんも反論せず、机の上に残された質問用紙を一枚ずつ集め始めた。
やがて、九人は俺と紬へ挨拶をし、教室を出ていく。廊下へ出た後も話し声は続いていた。足音と笑い声が少しずつ遠ざかる。教室の中が、急に静かになった。
残ったのは、俺と紬と大竹さん、それから、教室の後ろで本を開いている雪白さんだった。
大竹さんは集めた用紙の端を揃え、満足そうにこちらへ差し出した。
「全て揃っておりますわ!」
「ありがとう」
用紙を受け取ったところで、大竹さんが何気なく教室を見回す。
その視線が、後ろの席で止まった。
「まあ!」
大竹さんの声が教室へ響く。
雪白さんが本から顔を上げた。
「六花さんもいらしたのですね!」
「ええ」
「最初からいらっしゃいましたの?」
「ええ」
短い返事だった。
大竹さんは気まずそうにすることもなく、雪白さんの席へ近づいていく。
「お声をかけて下さればよろしかったのに!」
「必要を感じなかったから」
「ですが、せっかくですもの。六花さんにも一問だけお答えいただきましょう!」
大竹さんはウキウキで雪白さんの机の前へ立った。
「遠慮する」
雪白さんは迷うことなく断った。
「難しい質問ではございませんわ。普段の放課後についてお聞きするだけですの」
「聞いていたわ」
「でしたら、説明は不要ですわね!」
大竹さんは前向きに解釈した。
「放課後は、普段どのようにお過ごしになりますの?」
「答えるとは言っていない」
「では、休日についてでも――」
「遠慮する」
同じ言葉を、同じ調子で繰り返す。大竹さんは目を瞬かせて雪白さんを見つめた。雪白さんも視線をそらさない。言い争いになるかと思ったが、大竹さんはあっさりと頷いた。
「分かりましたわ。無理にお聞きすることではございませんものね!」
雪白さんは小さく頷くと、開いていた本へ栞を挟んだ。ようやく本を閉じ、机の横に置いていた鞄へしまう。
立ち上がった雪白さんの視線が、俺達の机へ向いた。
紬のノート。
集めた質問用紙。
その二つを順番に見た後、俺と目が合う。
「この活動は部活動として行っているの?」
意外なことを聞かれた。
「いや、今のところ部活じゃない。でも部活動にしたくて、メンバーを集めてる」
「そう」
雪白さんは短く答えると、紬を見る。
「あなたはもしかして、相田紬さん?」
「そうですけど……」
突然名前を呼ばれて、紬は困惑しながら俺の後ろに隠れた。
「驚かせてごめんなさい。昼休みに、相田君から引っ越しのことを聞いたから、もしかしてと思って……」
「どうして私の名前を知っているんですか?」
紬はかなり警戒している。
「昔、『小説ほくと』に掲載されたあなたのデビュー作を読んだことがあるの。他意はないわ」
紬は中学一年生の時、唯一、本名で出したデビュー作がある。文芸雑誌『小説ほくと』の新人賞で大賞を受賞し、史上最年少受賞だと随分騒がれていたので、知っていてもおかしくはなかった。
「それは、ありがとうございます」
紬は、小さい声でお礼を言うのが精一杯だった。
「ところでさっきの話だけれど」
紬の様子を見た雪白さんは、無理に話題を続けずに話を切り替えた。
「部活動として人を集めているのなら、私に入部届を頂戴」
大竹さんが目を見開く。
俺と紬も、雪白さんへ顔を向けた。
「見学してただけじゃなかったの?」
「見学したから、決めたのよ」
雪白さんは当然のように答えた。迷っている様子はない。
ただ、入部届を渡す前に確認しておきたいことがあった。
「この部活に入っても、母さんに会えるわけじゃないよ」
「ええ」
「集めた資料が、母さんの漫画に使われるとも限らない」
「分かっているわ」
「じゃあ何で入ろうと思ったの?」
雪白さんはすぐには答えなかった。
少しだけ考え、俺を見る。
「私も、みんなの日常を知りたいからよ」
静かだが、はっきりと答えた。
大竹さんが小さく息を呑む。
「でも、相田カノン先生の次回作に関係するかもしれないから興味を持った。それは事実よ」
「随分正直だな」
雪白さんの目的が母の作品にあることを、隠すつもりはないらしい。雪白さんは、机の上に残っていた質問用紙へ目を落とす。
「でも、見学して、何をする部なのかは分かったつもりよ」
「普段の山府を調べるだけだぞ」
「そのようね」
「地味だと思わなかった?」
「派手にする必要があるの?」
聞き返されると、返す言葉がなかった。雪白さんが見ていたのは、母の名前だけではない。大竹さんの勘違いも、聞き取り内容も、紬がまとめた記録も含めて、最初から最後まで話を聞いていた。
「入部するなら、できる限り活動にも参加するわ」
雪白さんが続ける。
「相田カノン先生の名前だけを目当てに、部員として名前を置くつもりはない」
俺は紬を見る。
紬は雪白さんを見た後、小さく頷いた。
「分かった。普通に部員として参加するなら、俺は構わない」
「そのつもりよ」
俺は鞄から予備の入部届を取り出し、雪白さんへ差し出した。入部届にある記入事項を確認した雪白さんは、保護者へ許可を貰ってから後日提出すると言い、荷物をまとめて扉へと向かっていった。
「さようなら」
「またお会いいたしましょう!」
大竹さんが明るく返す。
雪白さんは一度だけ頷き、そのまま教室を出ていった。廊下を進む足音が遠ざかる。
大竹さんは、雪白さんが去っていったドアを見ながら、満足そうに頷いている。
「随分満足そうだけど、どうした?」
「六花さんが、わたくしのお話を最後まで聞いて下さいましたわ! それに、部活にまで!」
「二回断られていたけど」
「お返事をいただけただけでも前進ですもの!」
大竹さんにとっては、断られることも会話に含まれるらしい。
俺は閉じた教室の扉を見る。
大竹さんは雪白さんを名前で呼び、雪白さんも大竹さんが話しかけることを特に不思議がっていなかった。二人の間には、今日初めて話した相手とは違う遠慮のなさがあった。
「大竹さんと雪白さんは、昔からの知り合いなの?」
「ええ。幼い頃から何度もお会いしておりますわ」
大竹さんは当然のように答えた。
「六家の式典や、家同士の行事で御一緒することが多いのです」
「六家?」
聞き返すと、大竹さんが目を瞬かせた。
「ご存じありませんでしたの?」
「六家のことは聞いてる。でも、大竹さんと雪白さんがそうだとは知らなかった」
隣で紬も頷く。
「華恋さんも?」
「もちろんですわ!」
大竹さんは胸へ手を当てた。
「大竹家も雪白家も、山府六家の一つですもの!」
入学してから、六家という呼び方は何度も耳にしている。古くから山府に根を張り、この土地で特別な存在として扱われている家々。
ただ、誰がその家の人間なのかまでは、まだほとんど知らなかった。雪白さんだけでなく、大竹さんもその一人だったらしい。
「それで、小さい頃から会ってるのか」
「ええ。式典での御挨拶や、家同士の集まりで御一緒してまいりましたわ」
「仲がいいんだな」
そう言うと、大竹さんは少し考えた。
「六花さんは、わたくしがいつか追いつくべき好敵手ですわ!」
「仲がいいか聞いたんだけど」
「幼い頃から、六花さんは何をなさっても完璧でしたの」
大竹さんは俺の言葉を気にせず続ける。
「御挨拶も、立ち居振る舞いも、周囲への気配りも、決して隙をお見せになりません」
普段の雪白さんを見ていれば、想像はできた。教室でも姿勢を崩さず、誰かに合わせて態度を変えることもない。
「ですから、わたくしも負けてはいられませんの!」
「六花さんと華恋さんは競ってるの?」
紬が尋ねる。大竹さんの動きが止まった。ほんの少しだけ考えてから、再び胸を張る。
「今はまだ、わたくしが一方的に追いかけている段階ですわ!」
「好敵手ではない」
「いずれ好敵手になりますの!」
訂正されても自信は揺らがない。
「じゃあ、今は仲のいい幼なじみ?」
俺が確認すると、大竹さんはさらに考え込んだ。
「幼い頃から存じ上げておりますので、幼なじみではありますわ」
「仲のいい、の方は?」
「これから親友になりますの!」
現在の関係を聞いたはずだったのに、大竹さんから返ってきたのは、将来の予定である。
「雪白さんは知ってるのか?」
「まだお伝えしておりませんわ!」
「先に本人の了承を取った方がいいと思う」
「次にお会いした時、改めてお話しいたします!」
ついさっき会っていたはずだが、その機会には含まれないらしい。追いかける様子のない大竹さんを見る限り、親友になる予定が雪白さんへ伝わるのは、もう少し先になりそうだった。




