雪白六花
室井君の入部届が受理されてから二日後、四月最終日。昼休みのチャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩んだ。弁当箱の蓋を開けようとしたところで、前の席の椅子が引かれた。
渡部君だった。
自分の弁当と飲み物を持ち、こちらを向いて座る。
「ここで食べてもいい?」
「もう座ってる」
「断られたら戻るつもりだったよ」
渡部君は机の上へ弁当を置く。誰かと一緒に食べること自体は珍しくない。渡部君は教室内の誰とでも話すし、昼休みはその日の気分で近くにいる生徒の輪へ加わる。今日は、俺に話があるらしい。
弁当を開く前から、視線がこちらへ向いている。
「何?」
「武尊、本当に入ったんだね」
予想していた話題ではなかった。
「もう知ってるのか?」
「本人から聞いたよ。山府研究部への入部が認められましたって、随分丁寧な文章が送られてきた」
渡部君はスマートフォンを取り出し、画面を少し操作してから、俺の方へ向けた。表示されているのは、室井君から届いたメッセージだった。
『本日、山府研究部への入部届が受理されました。正式な設立は今後の審議によりますが、設立予定者として活動へ加わります。これまでのご配慮に、改めて感謝申し上げます』
同級生へ部活動の報告をする文章には見えない。
「ご配慮って、渡部君は何かしてたのか?」
「何もしてないよ」
「じゃあ、何に感謝されてるんだ?」
「僕にも分からない」
渡部君は苦笑し、スマートフォンをしまった。室井君の中では、今まで交わした会話や、学校生活で受けた助言の全てが、今回の入部に繋がる配慮として数えられているのかもしれない。
「それで、本当に入ったんだね」
「ああ。正式な部にするには、まだ二人足りないけどな」
「六家のことをほとんど知らないまま、最初に武尊を引き当てるとは思わなかったよ」
「引き当てたのは紬だ」
「廊下でぶつかって、そのまま話を聞くことになったんだっけ」
「そう。室井君が謝るのをやめなかったから、紬が頼みを聞いて貰うことで終わらせた」
「それで家へ招いて、三日後には同じ部へ入ってるんだから、十分凄いと思うけど」
「展開だけ並べると、俺達が計画的に勧誘したみたいに聞こえるな」
実際には、廊下でぶつかったことも、室井君が六家の一人だったことも偶然である。土曜日に家へ来て貰ったのも、母が直接話を聞きたいと言ったからだった。
山府研究部へ誘うと決めたのは、室井君が帰った後である。
渡部君は弁当を食べながら、しばらく楽しそうに笑っていた。
俺は気になってることを相談することにした。
「室井君についてだけど、ちょっと困ってるんだ」
「何が?」
「室井君の話は、凄く面白かった。でも、一般的な高校生活の資料としては特殊すぎる」
「それはそうだろうね」
「室井君一人から聞いた内容だけでは、山府の高校生の日常を描けない」
俺が言うと、渡部君が頷く。
「他の人にも話を聞くの?」
「そのつもり。今日の放課後、紬が協力してくれる人を連れてくることになってる」
「何人くらい?」
「二、三人と頼んである」
「相田さんが、自分で声をかけるの?」
「そこは少し気になってる」
紬は、知らない相手に話しかけるのが得意ではない。室井君の時は偶然が重なった。
今回は、どのようにして協力者を見つけるのだろうか。
「まあ、室井君よりは普通の高校生活の話が聞けるだろ」
「武尊より特殊な人を探す方が難しいからね」
「渡部君は、放課後に何をしてる?」
「本を読んだり、家の用事を済ませたり。予定がなければ、早めに帰ることが多いかな」
「普通だな」
「そう聞こえるように答えたからね」
「今の回答は信用できない」
渡部君は否定しなかった。
箸を動かしながら、少しだけ楽しそうに笑っている。
「山府で暮らす人の日常を知りたいなら、質問の仕方を考えた方がいいと思う」
「どういう意味?」
「本人が普通だと思っていることは、自分からは話さないから」
室井君もそうだった。
最初に、山府はどんなところかと尋ねた時、答えを出せなかった。朝晩の稽古も、寄り道をしない生活も、室井君にとっては説明する必要のない日常だったからである。
「放課後は何をしているか。休日はどこへ行くか。家族とどんな話をするか。具体的に聞いた方が、その人の普通は出やすい」
「取材みたいだな」
「山府研究部なんだから、間違ってはいないでしょう?」
渡部君は飲み物へ手を伸ばす。
「相田カノン先生の次回作に使う資料なら、武尊一人では偏るだろうしね」
その時、教室の後方で、椅子が床を擦る音が大きく鳴った。
周囲にいた生徒たちが、一斉に振り返る。
俺も音のした方を見る。
すると、雪白六花という女子生徒が、自分の席で立ち上がってこちらを凝視していた。片手には、開いたままの本を持っている。
いつも姿勢を崩さず、教室が騒がしくても気にせずに本を読んでいる雪白さんが、椅子を鳴らすほど勢いよく立ち上がるところは初めて見た。
雪白さん本人も、自分が立っていることへ遅れて気付いたようだった。教室中の視線が集まっているのを気にする素振りも見せず、開いた本を持ったまま、椅子を元の位置へ戻す。それから教室を見回し、自分へ向いていた視線を確認した後、小さく頭を下げる。
「失礼」
それだけ言って、椅子へ座り直した。手にしていた本を机へ置く。ページを閉じることもなく、先程まで読んでいた箇所へ視線を戻す。
周囲の生徒たちも、雪白さんが何も説明しないと分かると、少しずつ自分達の会話へ戻っていった。
教室は再び昼休みの騒がしさに包まれる。
渡部君が声を落とした。
「僕、何かまずいことを言った?」
「さあ」
「相田カノン先生の名前を出した直後だったよね」
「たぶんな」
それ以外に、雪白さんが反応しそうな話はしていなかった。
「雪白さんも、作品を読んでるのかな」
「四十五巻も続いてる漫画だから、知ってはいるだろうけど」
「知っていることと、今の反応は別だと思うけど」
「本人に聞いてみる?」
渡部君は雪白さんの方を見る。
「やめておこう」
「即答だな」
「聞いて欲しいなら、あんなに静かに座り直した意味がないからね」
その判断には同意できた。雪白さんが話したければ、自分から会話へ入ってくるはずである。俺と渡部君は、声を少し抑えたまま話を再開した。
「ところで渡部君は、なぜ母さんが相田カノンだって知ってるんだ?」
「苗字が一緒だから、関係あるのかと思って」
俺は渡部君を見る。
「謀ったな」
「そんなつもりはないよ」
「あまり言い触らさないでくれよ。いろいろと面倒なんだから」
渡部君に注意していると、いつの間にか雪白さんが近くまで来ていた。
「相田カノン先生が、あなたのお母様というのは本当?」
突然声をかけられたので、思わず二度見してしまった。
教室中も、状況が呑み込めずに静まり返っている。
「そうだけど……」
雪白さんはクールな素振りを保ちつつ、こちらをジッと見ていた。
「雪白さん、漫画なんて読むんだ」
渡部君が軽く話しかける。
「漫画くらい、私だって読むわ」
少しムッとした空気を纏わせつつ、雪白さんは答える。
「雪白さんは相田カノンの作品、読んでるの?」
俺は雪白さんがこれ以上、不機嫌にならないように慎重に質問する。
「全部読んでるわ」
全部ということは、初期の作品や短編集も入っているのだろうか。それ以上は会話が続かず、沈黙が流れたところで、渡部君が喋りだす。
「相田君は、取材のために山府に引っ越してきたそうだよ」
「そう」
視線はこちらを見たまま、雪白さんは短く返答する。
「次回作の内容は、もう決まってるの?」
やはり先程の会話を聞いていたらしい。雪白さんは抑揚を抑えた声で質問してくる。
「舞台を山府にすることだけ。話はまだほとんど決まってないらしい」
「それで、山府の資料を集めてるのね」
「住めば思いつくと思って引っ越してきたのに、何も思いつかなかったからな」
「随分思い切ったのね」
「巻き込まれた俺達も大変だよ」
ふと教室を見ると、生徒全員が驚いたようにこちらを凝視していた。渡部君が笑う。
雪白さんは注目されていることに気が付いた。
「それじゃ」
そう言って、自分の席へ戻っていった。雪白さんが戻ると、ポツリポツリと周りの会話が再開していき、数秒で元の騒がしい教室に戻った。
俺は渡部君に、いったい皆どうしたのか尋ねた。
「雪白さんが他人に興味を持ったのが珍しかったんじゃないかな」
渡部君は平然とそんなことを言う。確かに入学してこの方、雪白さんが他人と話してるところを見たことがない。ただの大人しい人なんだと思っていたが、そう単純な話ではないようだ。
昼休みの終了を知らせる予鈴が鳴る。教室内に散らばっていた生徒たちが、自分の席へ戻り始めた。
渡部君も弁当箱を片づけ、前を向く。
「放課後、面白い話が聞けるといいね」
「室井君より普通の話が聞きたい」
渡部君は、最後まで楽しそうに笑っていた。俺も教科書を机の上へ出す。
教室の後方では、雪白さんが本へ栞を挟んでいた。




