実演
「少し待っていて」
母はそう言い残し、仕事部屋へ向かった。戻ってきた時には、何枚かの原稿を持っていた。
完成した原稿ではない。鉛筆で人物と動きだけを描いた、下描きの段階だった。
「これ、今描いてる漫画の一場面なんだけど」
母は室井君の前へ、数枚の原稿を並べた。
「武道をしている人から見ると、どう見える?」
原稿には、主人公が敵へ向かって踏み込み、正面から突きを放つ場面が描かれている。拳が相手へ届く直前の一瞬を大きく見せ、その次のコマで相手が後方へ吹き飛ぶ。
漫画として見れば、動きに勢いがあり、何が起きたのかも分かりやすい。
室井君は原稿へ手を伸ばしかけ、一度止めた。
「触れてもよろしいでしょうか」
「大丈夫よ」
許可を得てから、原稿を一枚ずつ確認する。
「漫画として誇張された表現であることは承知しております」
前置きをした上で、室井君が一つのコマを指す。
「ただ、この姿勢のまま突きを放った場合、重心が前方へ寄り過ぎるように思われます」
「前のめりってこと?」
「それに近いです。攻撃へ体重を乗せること自体は間違いではありません。ですが、乗せ過ぎれば、相手にかわされた場合の防御や、次の動作へ移る場合の初動が遅れます」
母は室井君の指先を見る。
「じゃあ、もっと後ろに重心を残す?」
「後ろへ残し過ぎると、今度は突きへ十分な力が伝わりません」
「難しいわね」
「足の位置と、腰の向きを少し変えるのがよろしいかと思います」
室井君は別のコマを指した。
「この足の向きですと、上半身だけが先に相手へ向いています。踏み込む足と腰の動きが繋がっていないため、腕の力だけで打っているように見えます」
「腕だけじゃ、相手はここまで飛ばない?」
「実際には、どのような打撃でも人がこの距離まで飛ぶことはありません」
「それは漫画だからいいの」
「承知しております」
室井君は真面目に頷いた。
「飛ばすまでの説得力を出したいのよ。読んだ人が、実際には無理だと分かっていても、この一撃なら飛ばされるかもしれないと思えるようにしたいの」
「でしたら、突きが当たる瞬間だけではなく、足が床を押す場面から描かれてはいかがでしょうか」
室井君は原稿を汚さないように指を浮かせ、コマの流れをたどった。
「足で床を押し、その力を腰から肩へ伝え、最後に腕へ乗せます。拳だけを大きく描くのではなく、足元や腰の動きを間に入れれば、全身を使った攻撃であることが伝わるかと思います」
母の目が輝く。こうなった時の母は、仕事のことしか見えなくなる。
「実際の動きを見せて貰うことはできる?」
「技を出すことはできません」
室井君は即答した。
「室内での実演は、周囲の人や物へ危害が及ぶ可能性があります。対人動作もお断りします」
「司を相手に、軽くやるのも?」
「駄目です」
俺が断る前に、室井君が断ってくれた。
「ただし、立ち方と足の運びを、ゆっくり示すことは可能です」
「それで十分」
母が立ち上がる。
俺達は居間の低いテーブルを壁際へ移動させ、室井君が一人で立てる場所を作った。室井君は周囲との距離を念入りに確認する。
何度か足元を見た後、中央へ立った。
「この位置であれば、問題ないと思います」
紬がスマートフォンを持つ。
「写真を撮ってもいい?」
「記録のためであれば構いません。ただし、技を公開する目的での使用はお控え下さい」
「母さんの資料だけにする」
「お願いします」
室井君は両足の位置を決め、ゆっくりと腰を落とした。先程まで椅子に座っていた時とは、同じ人物に見えなかった。
余計な力が入っているようには見えない。それでも、なぜか安定感がある。
右足をわずかに前へ出し、上半身の向きを変える。
「最初から正面へ体を向けるのではなく、相手から見える面を小さくします」
母はスケッチブックへ線を引く。
「肩は力を入れる?」
「入れません。必要以上に力を入れれば、動き始めが遅くなります」
室井君が、前方へ半歩だけ踏み出す。
大きな音はしなかった。
しかし、足と腰と肩が、ほとんど同時に動いた。
拳を突き出す直前で止める。
「このように、足から始まった動きを、身体の順番に沿って伝えます」
「もう一回お願い」
「承知しました」
室井君は最初の位置へ戻り、同じ動きを繰り返した。母は手元を見ず、室井君の動きだけを追いながら鉛筆を走らせる。紬は横から数枚の写真を撮った。
三度目の動きが終わると、母が室井君を止めた。
「今の足、もう少しそのままでいて」
室井君は片足を前へ出した姿勢のまま止まる。
「つらくない?」
「問題ありません」
一分近く同じ姿勢を保っても、体はまったく揺れなかった。
母が必要な線を描き終える。
「ありがとう。もう大丈夫」
「失礼します」
室井君は構えを解き、静かに息を吐いた。激しく動いたわけでもないのに、居間の空気が少しだけ緩んだように感じられた。
「凄く参考になったわ」
母は、先程の原稿と新しく描いたラフを見比べる。
「足と腰を入れるだけで、全然違う」
「お役に立てたのであれば幸いです」
「次の作品にも、武道をする人物を出そうかしら」
「まず、話を先に決めたほうがいいんじゃないか?」
「資料が集まれば決まるかもしれないでしょう?」
母はそう答え、原稿を仕事部屋へ戻した。取材の目的が山府で暮らす高校生の生活だったことを、すっかり忘れていたように見える。もっとも、室井君も山府で暮らす高校生である。武道が生活の中心にあることまで含めれば、今の確認も取材の一部ではあるのだろう。
聞き取りを終え、少し休んだ後、室井君は帰る支度を始めた。
玄関で靴を履き、俺達へ向き直る。
「本日は、長時間お邪魔いたしました」
「こちらこそ、いろいろ聞かせてくれてありがとう」
母が答える。
「凄く参考になった。また話を聞かせてね」
「承知しました」
室井君が頷く。
玄関の扉が閉まり、室井君の姿が見えなくなってから、母が息を吐いた。
「凄く真面目な子ね」
「俺は真面目すぎると思う」
「でも、取材相手としては助かるわ。聞いたことには全部答えてくれるし、分からないことを適当に話したりもしないから」
「普通の高校生とは、だいぶ違ったけど」
「それはそれで面白いでしょう?」
母は満足そうだった。
紬は居間へ戻り、テーブルの上に置いていたノートを開く。今日書いたページを最初から確認していく。
「武尊君、学校の部活動には入ってない」
紬が顔を上げる。
その視線で、何を考えているのか分かった。
「山府研究部へ誘うつもりか?」
「うん」
「室井君には、天山流の稽古があるんだぞ。それに、活動内容も詰めてない」
「毎日参加して貰う必要はないし、活動内容もある程度は決まってる」
「迷惑かけるわけにいかないだろ」
「無理に活動させない。来られる日に、話を聞く」
紬はノートへ視線を戻す。
「山府で暮らす人が、普段何をしてるのか調べる部だから。武尊君の生活も、活動対象になる」
「本人を部員にして、本人について調べるのか?」
「駄目?」
「駄目とは言わないけど」
室井君は、山府で古くから武道を伝えてきた室井家の人間である。天山流の正統後継者として、学校の外で多くの時間を稽古に使っている。
山府の暮らしや武道文化について話を聞く相手としては、これ以上ないほど適しているかもしれない。
担任からも、部活動へ所属していない六家の生徒を、新しい部へ迎えることを考えて欲しいと頼まれている。問題は、室井君本人が部活動への所属を望むかどうかだった。
「断られるかもしれないぞ」
「聞かないと分からない」
紬の中では、既に勧誘することが決まっているらしい。
「月曜日に聞く?」
「そのつもり」
俺は、今日の室井君の様子を思い出していた。あの性格なら、紬に部活動へ入ってと頼まれても、必要以上に真剣に受け止める可能性がある。
「活動内容を全部説明してから聞くんだぞ」
「分かってる」
「参加できる日だけでいいことも、先に伝える」
「うん」
「その場の勢いで返事をさせないこと」
紬が俺を見る。
「兄さん、武尊君のこと心配してる?」
「紬が頼むと、何でも引き受けそうだから心配してる」
「大丈夫」
「何を根拠に?」
「断る時は断ってた」
紬は、母から技の実演を頼まれた時のことを言っているらしい。室内での技や対人動作は危険だからできないと、室井君は即座に断った。何でも頼まれるままに引き受けるわけではない。
本人の中に、守るべき基準はある。
「分かった。聞くだけ聞いてみよう」
俺が答えると、紬は小さく頷いた。




