室井武尊
他の生徒が教室を出ていき、完全に三人だけになったところで、俺は紬へ尋ねる。
「それで、どういう経緯で連れてきたんだ?」
「昼休みに会った」
「どこで?」
「廊下」
「会っただけで、放課後にここまで来てくれたのか?」
紬が室井君を見る。説明を任せるつもりらしい。室井君が姿勢を正す。
「昼休み、自分が廊下で立ち止まっていたところへ、相田さんが衝突しました」
紬は否定しなかった。
「よそ見してた」
「何を見てたんだ?」
「何を聞けばいいか考えてた」
前を見ずに考える必要はないと思う。
室井君が続ける。
「自分は動きませんでしたが、相田さんは衝突の反動で転倒しました」
室井君の体格を見る限り、その光景は簡単に想像できた。人ではなく、壁へぶつかったようなものだったのだろう。
「怪我は?」
「ない」
「本当に?」
「お尻を打っただけ」
「それは怪我に入らないのか?」
「入らない」
紬の中では入らないらしい。
「自分が通路で立ち止まっていたことにも責任があります」
室井君が申し訳なさそうに言う。
「そのため、保健室まで同行すると申し出ました。しかし、相田さんは必要ないとおっしゃいました」
「私が前を見てなかったから」
「それでも、自分が注意していれば避けられた可能性はあります」
「紬がよそ見をして歩いてきたんだろ?」
「うん」
「室井君は立っていただけ?」
「はい」
「それなら、紬が悪いと思う」
「私もそう思う」
「なら、どうして室井君が謝り続けることになるんだ?」
紬は答えず、室井君を見る。室井君の表情からして、昼休みも今と同じやり取りを何度も繰り返したのだろう。
「自分が謝罪を続けたところ、相田さんから、許す代わりに一つ頼みを聞いて欲しいと言われました」
「紬」
「謝るのをやめなかったから」
「それで、何を頼んだ?」
「山府のことを話して欲しいって」
紬は、昨日の母の依頼について説明したらしい。それを聞くため、放課後に俺の教室まで来て欲しいと頼んだ。室井君は、その頼みを真剣に受け止め、約束どおり紬についてきたという。
少なくとも、無理やり連れてきたわけではなかった。
「室井君も、それでよかったのか?」
「はい。一度お引き受けした以上、自分に答えられることはお話しします」
室井君は迷わず答えた。紬に頼まれたから仕方なく来たという様子でもない。むしろ、一つの役目を与えられたように受け止めている。
「じゃあ、とりあえず、改めて説明する」
俺は母が相田カノンという漫画家であることと、次の作品の舞台を山府にしようとしていることを話した。
「母が知りたいのは、地元の高校生から見た山府なんだ。室井君が普段感じていることを、そのまま話して貰えればいい」
「承知しました」
室井君は椅子へ座ることなく、背筋を伸ばしたまま答える。
「それで、何をお話しすればよろしいでしょうか」
「まず、山府がどんなところか聞きたい」
俺が尋ねると、室井君は黙った。昼休みの渡部君と同じように、考えているらしい。ただ、渡部君は考えた後、魔境という答えを出した。
室井君はしばらく考えた後も、答えを出せなかった。
「申し訳ありません」
「謝ることじゃない」
「どのように答えるべきか、分かりません」
「思いついたことでいいんだ。住みやすいとか、好きな場所があるとか」
「山府以外で生活した経験がないため、住みやすいかどうかを比較できません」
正しい。正しすぎて、そこから話を広げにくかった。
紬が鞄から小さなノートを取り出す。
「質問を変える」
「お願いします」
「放課後は、何をしてるの?」
「帰宅して、武道の稽古をします」
「その前に、どこかへ寄る?」
「寄りません」
「友達と店に行ったりは?」
「ありません」
「休みの日は?」
「稽古があります」
紬の鉛筆が止まった。
室井君は、何か答えを間違えたのではないかと心配そうに紬を見る。
「他にも、家の用事が入ることがあります」
補足されたが、高校生らしい話からはさらに遠ざかった。
「聞き方の問題かな」
俺が言うと、紬は首を横へ振る。
「生活の問題かもしれない」
「問題なのか?」
「一般的ではない」
「そうなのですか?」
室井君が本気で驚いた顔をする。自分の生活が他の高校生と違うという認識が、あまりないらしい。そこでようやく、母が欲しがっていたものが少し分かった。
室井君にとっては、朝や放課後に稽古をすることが当たり前である。本人が特別だと思っていないから、山府について尋ねられても、自分から話題には出さない。
報告書の数字には表れないが、母が知りたかったのは、こういう違いなのだろう。
「室井君、この後も稽古があるのか?」
「はい。帰宅時刻が遅くならなければ、まだ少しお時間を取ることはできます」
「今日は無理をしなくていいよ。聞きたいことを、こっちでもう少し整理する」
「必要であれば、別の日にもお答えします」
室井君は当然のように申し出た。
紬がノートから顔を上げる。
「母さんに聞いて貰った方が早い。電話する」
「今から?」
紬は既にスマートフォンを取り出していた。
「室井君、母さんと直接話しても大丈夫?」
「はい」
紬が母へ電話をかける。
数回の呼び出し音の後、母が出た。
『もしもし。どうしたの?』
「捕まえた」
『何を?』
「地元の高校生」
電話の向こうで、しばらく返事がなかった。
『紬。もう少し詳しく説明してくれる?』
「昨日、捕まえてきてって言ったから」
『言ったけど、今どこにいるの?』
「学校。兄さんの教室」
『その高校生は、無事なの?』
「無事」
紬は室井君を見る。
室井君も真剣な顔で頷いた。俺は紬からスマートフォンを借り、母に事情を説明した。
『そういうことね。よかった』
母は安心したように息を吐いた。
『お名前は?』
紬がスマートフォンを受け取る。
「室井武尊君」
『室井君ね。どんな子?』
「身長が大きい」
「百八十五センチです」
室井君が横から答えた。
『聞こえた。随分大きいのね』
「あと、六家の一人」
『六家?』
「弘人君が言ってた」
『六家って何?』
「詳しくは分からない」
室井君が初めて、はっきりと表情を変えた。驚いたというより、紬が冗談を言っているのか確かめるような目だった。
「山府に古くから続いている六つの家らしい」
俺が補足する。
「学校では特別に扱われてる。でも、俺達は詳しく知らない」
『そうなの?』
「そう」
『室井君は、その六家の一人なの?』
「弘人君によると」
紬の答えでは何も分からない。しかし室井君は、自ら家について説明しようとはしなかった。
母も、六家という言葉に強くこだわることはなかった。
『それより、室井君本人に話を聞きたいわね』
紬がスマートフォンを室井君へ差し出す。
室井君は両手で受け取った。
「お電話を代わりました。室井です」
『突然ごめんなさいね。相田紬の母です』
「このたびは、お時間をいただきありがとうございます」
話したがっているのは母なのに、室井君の方が礼を言っている。
『こちらこそ、紬の頼みを聞いてくれてありがとう。電話だけだと詳しく聞けそうにないから、もし迷惑でなければ、今度うちへ来て貰えないかな』
室井君はすぐには答えなかった。
「申し訳ありません。家の予定を確認せず、この場でお約束することはできません」
『もちろん。急いで決めなくていいのよ』
「確認が取れましたら、改めてご連絡いたします」
『ありがとう。都合のいい日で大丈夫だから』
電話を終えた後、室井君はスマートフォンを紬へ返した。
「本日は、ありがとうございました」
「礼を言うのはこっちだ。急に頼んで悪かった」
「いえ。相田さんとの約束ですので」
室井君は紬へ向き直る。
「本日の話で不足がありましたら、次回までに確認しておきます」
「分からないことを、調べてくる必要はない」
「よろしいのですか?」
「武尊君が普段どうしてるのかを聞きたいから」
名前を呼ばれた室井君の動きが、一瞬止まった。
しかし、すぐに姿勢を正す。
「承知しました」
それだけ答えると、室井君はもう一度深く頭を下げ、教室を出ていった。




