山府って
昼食を済ませた後、俺は隣の席にいる渡部君へ声をかけた。
渡部君は弁当箱を片づけ、午後の授業で使う教科書を机の中から出しているところだった。
「渡部君、少しいいか?」
「いいよ。どうしたの?」
「山府について聞きたい」
渡部君の手が止まる。
「この前の六家の話?」
「それとは別だ」
俺は、質問の理由から説明することにした。
「俺の母親、漫画を描いてるんだ」
「そうなんだ」
渡部君は驚いた様子を見せたが、誰なのかまでは尋ねなかった。
「次に描く作品の舞台を山府にするつもりらしい。それで、この街のことを知るために引っ越してきた」
「相田君たちが、急に山府へ来た理由はそれ?」
「だいたいは。母さんは、住んでみれば何か思いつくと思っていたらしい」
「思いついたの?」
「驚くほど何も」
渡部君が口元を緩める。
母が聞けば反論するかもしれないが、本人が言っていたことなので間違いではない。
「昨日、地理部から山府についての報告書を借りた」
俺は机の中から分厚い冊子を見せる。
「この分厚さなら、かなり詳しく書いてあると思うよ」
「詳しすぎて、漫画の資料には向かなかった」
「そうなの?」
「母さんが知りたいのは、山府の人口や産業じゃなくて、ここで暮らしている人が、この街をどう見ているかなんだ」
渡部君はすぐには答えず、机の上で両手を組んだ。
「それで、僕に?」
「渡部君は山府で生まれ育ったんだろ?」
「そうだよ」
「だったら聞きたい。山府って、どんなところ?」
質問を口にしてから、随分広すぎる聞き方だったと気付く。湘南はどんな場所かと尋ねられても、俺だって一言では答えられない。
渡部君も困ると思った。しかし、彼は笑わなかった。窓の外へ目を向けしばらく考えている。
校庭の向こうには、校舎と同じ敷地にあるとは思えないほど大きな道場が並んでいる。そのさらに奥には、山府の市街地を囲む山々が見えた。
渡部君は視線を戻す。
「一言で言うなら、魔境かな」
「魔境?」
その瞬間、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。教室の中にいた生徒たちが、一斉に自分の席へ戻り始める。渡部君も椅子を前へ向け、机の上に教科書とノートを並べた。
「待ってくれ。それはどういう意味だ?」
「もう授業が始まるよ」
「一言で済ませていい答えじゃないだろ」
「それは僕もそう思う」
教員が教室へ入ってくる。これ以上話を続けることはできなかった。
日本有数の観光都市。世界文化遺産に登録された歴史ある寺社仏閣と、古い街並み。高原地域には、高級リゾート地が広がっている。それが俺の知っている山府だった。
少なくとも、旅行雑誌にも地理部の報告書にも、この街が魔境だとは書かれていなかった。
放課後になっても、紬から連絡はなかった。生徒たちが、それぞれの部活動へ向かうため教室を出ていく。俺は鞄を机の上へ置いたまま、スマートフォンを確認した。
朝に送った連絡には既読が付いている。
『母さんに頼まれた件、無理に誰かを連れてくる必要はないからな』
返事はなかった。
昼休みにも放課後にも、新しい連絡は届いていない。何も起きていないのなら、それでいい。ただ、紬の場合、何かを始める前には相談するのに、始めた後は結果が出るまで連絡をしないことがある。既に誰かへ声をかけている可能性もあった。
俺も待っているだけではなく、話を聞ける相手を探した方がいい。教室を見回すと、渡部君はまだ席にいた。昼休みの続きを聞くことも考えたが、その前に別の用件を思い出した。
先日から、いろいろな人から説明を濁されている六家のことだ。担任は、まだ部活動へ所属していない六家の生徒がいると言っていた。新しい部を作るなら、受け入れることも考えて欲しいとも頼まれている。
山府に古くから続く家の人間なら、一般的な高校生とは違っても、この土地について詳しい可能性は高い。とにかく一度、会ってみようと思った。
俺は渡部君の机へ向かった。
「渡部君」
「今度は何さ?」
「この前話してた六家に会いたいんだけど、その六家の同級生って、誰か紹介してくれないか?」
近くにいた生徒の動きが止まった。鞄へ教科書を入れていた生徒。数人で部活動の話をしていた生徒。教室を出ようとしていた生徒まで、一度こちらを見る。
すぐに視線は外されたが、それまでと比べて、教室内の話し声が明らかに小さくなった。
俺は何かを間違えたらしい。
「六家の人に、何か用事があるの?」
渡部君は平然と尋ねる。
「昼休みに話してた、山府について話を聞きたい。古くからこの街にいる家なら、何か知ってるかと思って」
「なるほど」
渡部君は手で口元を隠した。
その目が、わずかに笑っていた。
「何かおかしいか?」
「いや。相田君らしい頼み方だと思っただけ」
「どのあたりが?」
「そのうち分かるよ」
また、すぐには説明しない答えだった。
「分かった、ちょうど今日は暇だから、一人連れてこられると思う」
「助かる」
「僕も、ぜひ紹介したいと思っていたところなんだ」
渡部君は鞄を閉じた。
昼休みの魔境という言葉も含めて、何かを面白がっているように見える。その時、教室の入口に近い場所から、再びざわめきが広がった。
先程よりも大きい。
俺が振り返ると、開いた扉の外に紬が立っていた。その隣に、一人の男子生徒がいる。
最初に目へ入ったのは、その身長だった。教室の扉が低く見えるほど背が高い。短く整えられた髪と、凛々しい顔。制服の上からでも、肩や腕が鍛えられていることが分かる。ただ体が大きいだけではない。背筋が真っ直ぐ伸び、両足へ均等に体重を乗せて立っている。
周囲にいる生徒が道を空けていることもあり、教室へ入ってきただけで、そこにいる全員の視線を集めていた。
紬は、そんな男子生徒を連れたまま俺の机へ来た。
「兄さん」
「どうした?」
紬が隣の男子生徒を見る。
「捕まえてきた」
また教室が静かになった。
俺は、紬と男子生徒を交互に見る。
どう見ても、紬が捕まえられる側だった。
「紬、まさかだけど、無理やり連れてきたわけじゃないよな?」
「違う」
そこで、隣に立っていた男子生徒が一歩前へ出た。
「自分の意思で参りました。無理に連れてこられたわけではありません」
低く、よく通る声だった。
俺に向かって深く頭を下げる。
「室井武尊と申します。本日は、相田さんからお話を伺い、参上しました」
同じ一年生のはずだが、同級生へ挨拶する言葉には聞こえない。
「俺は相田司。紬の双子の兄です」
「承知しております」
名乗る前から知られていた。紬が話したのだろう。
そのやり取りを聞いていた渡部君が、俺の隣から顔を出す。
「あ、ちょうどいいや」
「何が?」
「彼が六家の一人だよ」
俺は室井君を見る。
室井君は渡部君の言葉を否定しなかった。
「室井君が?」
「ああ。僕が紹介する手間も省けたね」
渡部君は鞄を肩へ掛ける。
「それじゃ、僕は急用を思い出したから行くよ」
「今、思い出したのか?」
「本当に急ぐ用事は、急に思い出すものだよ」
俺達が返事をする前に、渡部君は教室を出ていった。
足取りが妙に速い。
室井君は去っていく渡部君の背中を見ていたが、呼び止めることはしなかった。




