第4章:カーラとディラン
1
———目を覚ましたディランは、自分が包まれている柔らかな白いシーツの感触を感じた。窓から差し込む強烈な光を感じた瞬間、彼の瞳孔が数秒ほど大きく開く。その眩しさは耐え難いものだった。
盲目的に両目を覆い、そのまままぶたをこする。身体が妙に痛かった。手首は痺れ、脚は小刻みに震えている。
[何があったんだ?]
そう思いながら、少年は何も置かれていない部屋の机を見つめた。
完全に一人きりだったにもかかわらず、「誰かが後ろにいる」という感覚だけは、ディランの頭から離れなかった。
この身体の痛みも、決して理由がないわけではない。
そしてディランは、自分が別の服を着せられていることにも気づいた。今回は、赤いリボンの付いた灰色のローブだった。
「——待って……誰が――?」
「おはよう、眠り姫」
ディランは息を呑み、ベッドから飛び上がりそうなほど大きく身を震わせた。
少年の目の前にいたのは、他でもないモーティだった。
その召使いは、とても楽しそうな顔をしていた。白い歯を見せた笑顔。大きく見開かれた目。そして、完全に吊り上がった眉。
「驚かせたならごめん。そんなつもりはなかったんだけど……でも、言わなきゃ――いや、違うな。正確には、君に『最悪だった』って伝えるように言われたんだ」
「———。」
おいおい、ディラン。今は黙っている場合じゃないだろ。
「君、旦那様の『練習用の魔獣』に遭遇したんだよ」
「……え?」
「腐った魔力で作られてるやつ。知ってるだろ?」
モーティは説明を続けた。
「捨てられた操り人形みたいなもので、腐った魔力を注ぎ込まれてるんだ。触れた瞬間に起動する」
「ああ……なるほど」
ディランは改めて部屋を見回した。
ベッドと机以外には、赤い絨毯、小さな窓、埃まみれの本がぎっしり並んだ本棚、そしてオーク材の扉があった。
[この屋敷……どちらかというとヴィクトリア様式だな。まあ、僕はゴシック風のほうが好きだけど]
「えっと……それで、その魔獣ってどうやって動くんだ?」
「ああ。簡単だよ。触れば起動する。そして、魔力が尽きるか、ものすごく強い一撃を食らわせない限り止まらない」
ディランの疑問に、モーティは迷いなく素早く答えた。
「リサが君を待ってるよ、友達。あんまり待たせるなよ」
モーティは念を押すように言った。
「かなり心配してたからさ」
「ああ……本当に?」
「うん。もう大変だったよ、友達」
モーティは椅子から立ち上がった。
「じゃあ、俺は行くよ、じいさん。旦那様との授業、忘れるなよ」
ディランは去っていくモーティを見つめながら、頭の中に奇妙な感覚が広がるのを感じた。
[僕……普通に彼と話せた。まあ……あまりいい感じはしないけど、それでも嫌いじゃない……]
少年は頭を振った。
「あ、待って……」
そして、ふと気づく。
「……こいつ、僕が寝てるところ見てたのか?」2
身支度を整え、ディランは昨日より少しきつめに革のブーツを履いた。
それから部屋を出る。シーツを整えようとしたものの、結局は見るも無残な状態のまま、部屋を後にした。
大きな廊下を歩いていく。
聞こえてくるのは、どこからともなく響く美しい旋律の歌声だけだった。
厚い絨毯が敷かれているため、ディランの足音はまったく聞こえない。
ディランは、そのわずかな孤独の時間をありがたく思った。
なぜなら、こうして一人になったときこそ、自分の中にある疑問を自由に考えられるからだ。
[どうしてあんなふうに話しかけてきたんだ? エリアスは一体何をした? リサは僕を待ってる? オメガとかアルファって本当に存在するのか? この世界のシステムはどうなってるんだ? ああっ! 考えることが多すぎる!]
最後の疑問はあまり意味を成していなかった。
しかし、彼がそんなことを考えてしまうのも無理はない。
そもそも、両親はどうやって自分を作ったのだろう?
[男が子供を産めるわけないだろ]
ディランはそう考えた。
……いや、そもそも彼自身がそんなことを言える立場ではない。
両親がそうして自分を生んだのだから。
それに、ここは異世界なのだ。
何が起きてもおかしくない。
男同士で子供を作ることだって、あり得るのかもしれない。
[——でも……]
おいおい、落ち着け。
「考えすぎだな。これはまた別の機会に考えよう」
ディランは独り言を呟いた。
今は他のことを考えなければならない。
例えば、『主人公』に何を教えるのか。
エリアスが馬鹿だったからといって、授業まで終わったわけではない。
まるで靴の裏にくっついたガムのようだった。
だが、そんな短い休息も終わりを迎えた。
ディランが、そこに何があるのかも知らずに一つの扉を開けたからだ。
「おはようございます」
念のため、そう声をかける。
「おはよう」
尊大な声が返ってきた。
ディランが顔を上げると、目の前には一人の男が立っていた。
髪は木の樹皮のような茶色。
それとは対照的に、瞳はアーモンドのような形をしていた。
口元には長く、不気味なほど狂気じみた笑みが浮かんでいる。
肌は白い粉で覆われていた。
そして、その男の瞳孔は輝くアメジストのようだった。
その輝きは、彼の細身で長身な姿以上に目を引いた。
男が身に着けているのは紫色のチュニック。
胴の部分で二つに分かれており、カーキ色のズボンと黒い革のブーツを合わせている。
ディランは、その男の瞳に反射した光に威圧感を覚えた。
まるで目から放たれた光が、自分の顔に向かって突きつけられているようだった。
それだけではない。
男の頭からは、威圧的な角が生えていた。
「お会いできて光栄です、マスター・ディラン・タイラー。……それとも、どのようにお呼びすればよろしいでしょうか?」
不気味な声で、男はそう言った。
「えっと……はい。こちらこそ……。その、好きなように呼んでもらって構いませんけど……あなたは誰なんですか?」
「なるほど。それでは、あなたのことを『モイエンヌ-457』と呼ぶことにしましょう」
男は続けた。
「あなたは完全なる忠誠をお持ちのようですね。もちろん、それはあなたの気まぐれがすべて満たされる場合に限りますが。そうした条件さえ満たされるのであれば、あなたは素晴らしい道具となるでしょう」
「———」
ディランは男を見つめた。
中世風の世界に住む人間なら、それなりに古風な話し方をするのだろうとは思っていた。
だが、まさかここまでとは思わなかった。
「モイエンヌ-457、何か問題でも?」
「……えっと、すみません。でも、あなたは誰なんですか?」
ディランはもう一度尋ねた。
「失礼。まるで弁護士か、あるいは洗練された物語の語り手のように話そうとしてしまうという、私の完全なる無礼さに気づいていませんでした」
男はそう言って、少し間を置いた。
「私の名はモーデル・マートフッド。エリアスの父親であり、あなたの教え子となる彼に、ニウムの世界について指導していただくことになっている者です」
「———」
ディランは呆然とした。
その男が口にする言葉は、何もかもがあまりにも奇妙だった。
むしろ、背筋を悪寒が走っていく。
[別の教師か何かだと思ってたのに——]
ディランは、男から少し離れた場所にある長いテーブルへ腰を下ろした。
エリアスの父親は、その長く伸びたテーブルの端に座っていた。
白いテーブルクロスが敷かれており、灰色の壁には同じ白色の線が刻まれている。
「えっと……すみません。もう朝――いや、やっぱり何でもありません」
「どうしました、モイエンヌ-457?」
モーデルは口元に笑みを浮かべた。
「まさか、これほど偉大な名声を持つ私と朝食を共にするという贅沢に値しないとでも思っているのですか?」
「———」
「ならば安心してください。私は慈悲深い人間です。あなたのような貧しい平民を、私の食卓に座らせてあげるほどにはね」
「———」
ディランは言葉を失った。
モーデル・マートフッドは、ためらうディランに対して、言葉だけで刃物を突きつけるような侮辱を放った。
それも、極めて落ち着いた、尊大な口調で。
[僕……]
ディランには何と言えばいいのか分からなかった。
どう反応すればいい?
どう話せばいい?
どうやってこの状況を切り抜ければいい?
くそ。
そもそも、紅茶のカップすらまともに持てるか分からない。
そんな自分が、本物の侮辱を受けたときにどうやって身を守ればいいんだ?
「メイド-56、こちらへ来なさい!」
モーデルが声を上げた。
「お呼びでしょうか、ムッシュ」
すぐにリサが姿を現した。
昨日とよく似た服装をしている。
「この哀れな平民に食事を持ってきなさい」
モーデルはディランを見ながら言った。
「知識を授けるというのに、胃の中が石ころだけでは何もできないでしょう? ……それとも、私が間違っているとでも?」
「はい、ムッシュ」
リサはそう答えると、一目散にその場を去っていった。
ディランは、ただ呆然と空中を見つめていた。
すると、モーデルが指を鳴らした。
「我が息子に辛抱強く付き合ってくださったことには、感謝したいと思っています」
モーデルは続ける。
「私は教師などという職に就いたことはありません。しかし、それがどれほど苦痛なものなのか想像するだけで、吐き気がしてきます。五階から飛び降りたくなるほどにね」
ディランは完全に混乱し、首を傾げた。
[一体、この会話の目的は何なんだ?]
「どうしてリサはあんなふうに行動したんだ?」
ディランは心の中で疑問に思った。
[分からない……]
そのとき、モーデルが立ち上がった。
彼は杖を取り出した。
ディランがこれまでに見たものと同じような魔法の杖だった。
モーデルは皿の上にあるワッフルを見つめ、何かを待っているようだった。
「見ててよ父さん! 僕が最高の魔法使いになるんだから!」
エリアスが叫んだ。
「<Five, lolo, Fire cut!>」
「<Four, Sínio, Water Te ćhivel pes palpale>」
空気が湿気を帯び始めた。
杖の先から放たれた青い光が、周囲の視界を侵食していく。
肌を冷気が這い、ディランの腕には鳥肌が立った。
やがて、水が跳ねるような音があまりにも自然に響き渡る。
反対側からは、何かが風を切る音がした。
エリアスはすでに宙へ舞い上がり、銀色の金属製の剣を抜いていた。
その剣全体を、燃え盛る深紅の炎が包み込んでいる。
少年が角の生えた頭を動かし、呪文を唱えると、炎はさらに激しく燃え上がった。
剣はその勢いを利用し、空気を切り裂くように一撃を放った。
そこから放たれた熱は凄まじく、まるで溶岩のようだった。
深紅の炎が敵へと襲いかかる。
しかし、杖から放たれた青い光は、まるで筆など使っていないにもかかわらず、その形を渦へと変化させた。
二つの攻撃が激突する。
耳元を殴りつけるような轟音が響いた。
まるでテニスボールが至近距離で弾けたかのようだった。
「ドォォォン!!!」
煙が周囲一帯へと広がっていく。
「オーディンに誓って、エリアス。お前は本当にめちゃくちゃにするな」
モーデルが言った。
「これでは、お前の教師は教師を辞めることになるだろう」
「まあ、あいつはもともと大した仕事をしてないしね。フハハ。あんな奴なら、レテンプレートのほうが教師としてまだマシだよ」
「なるほど、我が息子よ」
モーデルは満足そうに言った。
「残念ながら、お前の言う通りだ。だが法律によって、私は彼の職を変更しなければならない。どの仕事が最も適していると思う?」
モーデルは息子を見つめた。
「召使い」
エリアスは即答した。
「ただし、僕専属の召使いね」
「———」
ディランは、それまでずっと動かずに立っていた。
目の前で繰り広げられていた魔法の応酬に、身動き一つ取れなかった。
なんというか……不気味だった。
(幸い、頭を吹き飛ばされずには済んだけど)
[どうやら僕には、意見を言う権利すらないらしい]3
ディランはエリアス専用の浴槽をゴシゴシと擦っていた。
その浴槽は、十三メートルもあるプールほどの大きさだった。
それほど深くはない。
だが、それでも――
「――長すぎるっ!!」
ディランは叫んだ。
両腕はすでに疲労で悲鳴を上げ始めており、汗が全身をびっしょりと濡らしていた。
そのうえ、着せられた制服も最悪だった。
長袖の黒いベスト。
その下には漆黒のコルセット。
さらにその上から白いシャツを着ており、灰色のズボンと茶色の革靴で仕上げられている。
環境も助けにはならなかった。
その場所は楕円形の部屋になっていて、そこには浴槽、オレンジ色の光を放つ巨大な燭台が三つ、白いタオルが並べられた棚、そして壁一面のタイルがあった。
問題は、熱がまったく外へ逃げないことだった。
[まるで小さな砂漠だ……]
ディランはそう判断した。
すると、リサがバケツ一杯の水を床へぶちまけた。
「もう少しで終わりだよ、ディランちゃん」
彼女は笑顔で言った。
「これが終われば全部おしまいだから」
[そんなこと言われても、何の助けにもならないんだけど……]
ディランは心の中でぼやいた。
「頑張れ、友達! 少なくとも手伝いを頼むことは許されてるんだからさ」
モーティが言った。
「それに、文句を言ってても何も解決しないよ」
モーティの言うことは正しかった。
ただ不満を口にしているだけでは、何も変わらない。
だからディランは、ブラシをさらに速く動かすことにした。
何度も、何度も。
[それでも……この状況は屈辱的だ]
ディランからすれば、当然のことだった。
(彼の立場を考えれば、少なくとも公平に言ってやらなければならない。)
教師から、元教え子のトイレを掃除する立場へ。
文字通り、何の権利もない召使いになったのだ。
しかも、それをただ黙って受け入れなければならない。
ディランは、そのことだけに集中して掃除を続けた。
「ドムトが食べたい」
リサが言った。
「それで、中の詰め物を全部食べたいな」
「ハハハ! リサ、それじゃ完全に変態みたいに聞こえるぞ」
モーティが笑った。
「えっ!? 変態なのはそんなことを考えたモーティでしょ!」
リサは抗議した。
「それに、今はそんな話をしてる場合じゃないでしょ」
「———」
ディランには、二人が何を話しているのか完全には理解できなかった。
もしかすると……大人の話なのだろうか。
ディランは真剣にその意味を考え始めた。
そして――
そう。
その結論にたどり着いたことは、決して気持ちのいいものではなかった。
「あっ……うわ……。あんたたち、変な人だな」
ディランが言った。
「「え?」」
モーティとリサの声が、同時に重なった。
「あっ! いや、違う、そういう意味じゃ……何でもない、何でもない!!」
ディランは緊張した笑顔を浮かべた。
[危なかった……。ただの心の中の考えだったはずなのに]
気をつけなければならない。
この二人は、ディランにとって唯一の人間関係だった。
社会的なつながりという意味でも、魔法の世界でのつながりという意味でも。
「友達」と呼ぶにはまだ早い。
だが、少なくとも共に苦労している仲間ではある。
他の誰も、ディランに話しかけようとはしない。
――誰も。
彼女を除いては。
[ディラン、行かなきゃ]
「いつも行かなきゃいけないんだな、カーラ……」
ディランは小さく呟いた。
♠︎♡◆♧
「<Five, Zéleno, air cut>」
その言葉が発せられた瞬間、風が長い紫色の髪を撫でるように吹き抜け、髪が空中へと舞い散った。
彼女の手に握られたナイフは、その攻撃の威力に耐えられそうになかった。
そのとき――
鋭い口笛のような音が響き、目の前にいた金髪で太った男の注意を引いた。
緑色がこの景色の中へ現れる。
風の刃が大人の喉元を浅く切り裂いた。
男は倒れた。
焼けるような熱さを感じながら、彼は叫ぼうとした。
しかし、声が出ない。
皮肉なことに、その攻撃は周囲の風の流れすら断ち切ったように見えたにもかかわらず、風そのものは何事もなかったかのように吹き続けていた。
「いやぁ、随分と攻撃的だね」
オレンジ色の髪と蜂蜜色の瞳を持つ少年が言った。
「ただの雑魚相手に、そこまで容赦がないなんて」
「モートは誰に対しても容赦するなって言ってるでしょ?」
少女はそう尋ねた。
その問いは、静寂の中へ消えていった。
地面に流れる深紅は、まるで川のように広がり続けていた。
長く黄色い草が、それを覆い隠している。
そのため、そこで起きた殺人を外から見つけることはできなかった。
「じゃあ、行こう。待ってる人がいるから」
紫色の髪の少女が言った。
「仰せのままに、ボス・カーラ」
オレンジ髪の少年が答える。
「黙って、ハロルド」
カーラは顔を赤くした。
この雑魚を殺したことには価値があった。
なぜなら、何年もの時を経て――
ようやく、あの少年に会えるのだから。
ディランに。4
走っていた。
何度も、何度も。
なぜ?
逃げているからだ。
誰から?
カーラから。
「捕まえるからね、ディラン!」
少女がからかうような声で言った。
「———」
鬼ごっこでは、ディランは奇妙なほど鋭い直感を身につけていた。
そして、もう一つ付け加えるなら――
ここは森だった。
……暗い森?
土がディランの身体を飲み込んでいく。
木の陰に隠れていたディランは、恐怖に怯えながら動こうとした。
しかし、思うように身体が動かない。
「またね」
カーラの声が、黒い虚無へと変わった森の中に響き渡った。
☆☆☆
目を覚ますと、少年は胸を強く押さえた。
また悪夢だ。
いつもの悪夢の一つ。
それでも、毎回のように、測ることすらできないほどの恐怖を彼に与えてくる。
[今のは……何だったんだ?]
動揺は消えていた。
――いや。
消えたふりをしているだけだった。
ディランは、倒れないようにゆっくりと身体を起こした。
両腕が焼けるように痛む。
おそらく昨日、掃いたり、料理したり、洗ったり、熊手を使ったり、修理したり、片付けたりしたせいだろう。
それらすべてを、リサかモーティのどちらかと一緒に行った。
「今、何時だ?」
誰に言うでもなく呟き、スマートフォンを確認する。
表示された時刻は午後五時。
しかし、空はそれを示していなかった。
ディランは困惑しながら、もう一度時計を確認した。
[え? どうして五時なんだ?]
異世界なのだから、時間の流れそのものが違うのだろう。
[確かめる方法は一つだけだ]
スマートフォンのロックを解除し、時計アプリを開く。
ストップウォッチの項目まで移動し、ボタンを押した。
それから目を閉じ、一分間数え始める。
そして最後に、もう一度スマートフォンを確認した。
「……え?」
アプリに記録されていた時間は――
たったの一秒。
「つまり……」
過去の出来事を思い出しながら、ディランは指を使って計算し始めた。
「そういうことか。あのアニメやドラマを見てたのは無駄じゃなかったんだ。ここは……精神と時の部屋みたいな場所なんだ」
もし自分の理論が正しいのなら――
この世界での一分は、人間界での一秒。
どうやら普通の世界から持ってきた機械は、この異常な時間差のある世界でも正常に動作するらしい。
「でも、これじゃ何の役にも立たない……」
さらに同じ実験を繰り返した結果、この世界で一時間経過すると、人間界では一分しか経っていないことまで分かった。
とはいえ、それが何かの役に立つわけではない。
なんて馬鹿なんだ。
ディランは立ち上がった。
その前に、昨日と同じ服を着る。
ロイヤルブルーのシャツ。
袖のない茶色のジャケット。
そして靴とズボン。
身支度を整えると、部屋を出た。
ちなみに、この部屋は、あの牛の件の後に目を覚ました場所と同じ部屋だった。
眠そうな足取りで歩きながら、エリアスの部屋へ向かう。
彼の部屋は自分の部屋から、それほど遠くなかった。
[クソガキめ]
ディランは心の中で悪態をついた。
あいつがいなければ、自分はただの落ちぶれた教師で済んでいた。
それなのに今では召使い。
無理やり従順にさせられ、他の人間と同じ一匹のアリのように扱われている。
まるで自分たちが女王蜂でもあるかのように。
[少しずつ慣れていくしかないよ。彼らに対して攻撃的な態度を見せたら、訴えられることだってあるんだから]
昨日、リサがそう言っていた。
[彼らは別の階級にいる。お金を持ってる。僕たちは、転んでも倒れる場所すらない]
モーティもそう言っていた。
[でもさ、そんなこと考えても仕方ないだろ? 今は無視したほうがいいよ。あとで必要になったときに覚えておけばいい]
ディランには、モーティと同じ考え方をするのは難しかった。
どうやってそんなことを無視できる?
どうしてあいつは、あんなにも平然としていられるんだ?
「中世の世界なら、使用人にもっと敬意を払うものだろ……」
ディランは小声で愚痴をこぼした。
窓から差し込む太陽の光が見えた。
オレンジ色の光が青空に長い線を描き、互いの色が混ざり合っている。
雲はその光景の中を静かに浮かび、まるで二つの色が平和条約を結んでいるかのようだった。
やがて太陽の光が弾丸のように放たれ、その眩しい輝きを周囲へと撒き散らす。
鳥たちの歌声が響き渡った。
まるで戦争の勝利を祝うトランペットのように。
[起きたのか? まあ、どうでもいいか]
ディランは緑色の扉の前で立ち止まった。
廊下は相変わらずだった。
ディランがここへ来た日から、何も変わっていない。
[もしかして、これは『世界は僕を中心に回っているわけじゃない』っていう合図なのか?]
[いや、落ち着け。お前はマーリンの子孫なんだ……ものすごく残念な子孫だけど、それはそれだ]
ディランは扉をノックした。
「お、おはようございます、若様エリアス」
身体の中で血液が激しく流れているのを感じた。
まるで突然の攻撃を待ち構えているかのようだった。
エリアスが自分の部屋から出てこないことを考えれば、少し馬鹿げている気もする。
だが、『あいつ』が相手なら何が起きるかなんて誰にも分からない。
[今度は何を出してくる? まさか魔封波とか?]
ディランの予想に反して、少年は普通に扉を開けた。
武器も使わない。
蹴りもない。
叫び声もない。
変な技もない。
エリアスは、目を真っ赤にしていた。
まるで泣き腫らしたかのように。
「———」
「えっと……その……来た理由は……まあ、あなたが僕の上司だから、それで――」
「帰れ」
「え?」
ディランは困惑しながら言葉を詰まらせた。
「帰れと言ったんだ。か・え・れ。帰れ。聞こえないのか?」
エリアスは苦々しい口調で答えた。
ディランが何か馬鹿なことを言う前に、エリアスは扉を勢いよく閉めた。
「バタン!」
[無料で召使いをやらされてるうえに、まるで動物みたいに扱いやがる……]
えっと……ディラン。
知らないのか?
お前には尻尾と狼の耳があるんだぞ。
そういう意味では、動物扱いされても仕方ないのでは?
ディランは外へ出た。
フロウレストたちがいる場所へ向かい、芝生の上に腰を下ろす。
スマートフォンを取り出し、指を組んだ。
そして、母親の番号を入力する。
プルルル……
プル……
プル……
……
……
…………
……
……。
……。
……。
やはり、電波はなかった。
「はぁ……どうして電波があると思ったんだ、僕は」
ディランはズボンを軽く払った。
腕を伸ばして身体をほぐす。
そして芝生の上へ寝転がった。
「ディランちゃーん?」
リサの声が聞こえ、ディランは身体を起こした。
「あっ、こ、こんにちは……」
「じゃあ……また――」
ディランは立ち去ろうとした。
しかし、リサを見つめたまま、その場で止まった。
リサは白い襟付きの半袖シャツを着ていた。
その上から袖のないピンク色のウールセーター。
灰色のスカート。
そして茶色のブーツ。
「どうして『また』なの?」
リサは不思議そうに尋ねた。
「えっ、あ……いや、僕は……その……なんでもない、なんでもない!!」
ディランは顔を反対側へ向けながら叫んだ。
「大丈夫?」
リサは少年を見つめた。
「あ、うん。うん、もちろん……」
リサは不満そうに頬を膨らませた。
どうやら、その返事には納得していないらしい。
「それで、何してるの?」
ディランは話題を変えた。
「今日は休みだから、ゆっくりしてるの」
リサは答えた。
「今日は六月二十日でしょ? この日はお休みなの」
「何年くらい働いてるの?」
ディランはまた質問した。
「二年」
「二人とも何してるの?」
モーティが尋ねた。
「おはよう、モーティ」
リサが挨拶する。
「ディランと、どれくらい働いてるのか話してたの」
「それ、すごく退屈な話だな」
モーティが言った。
「もっと別のことしない?」
その言葉を聞いた瞬間、ディランの頭の中に、ある小さな記憶が蘇った。
[うぅ……ディラン、なんでいつも数学からやるの?]
[だって、そのほうが簡単だから]
[じゃあ、別のことしない? えっと……サッカーとか]
カーラはそう提案した。
[もちろん、ディランがやりたいならだけど。でも、小学生の中で一番退屈な奴みたいな君なら、どうせ断るんでしょ?]
[まあ、少なくとも僕は子供らしいことをするよ。女の子なのにサッカーなんかしてる君とは違ってね]
そして――
それとは別に。
「僕に魔法を教えてくれない?」
ディランは尋ねた。
カーラに証明してやる。
宿題だって、楽しいものになり得るのだと。5
「<Four, parno, Manipulatoro>」
リサがそう唱えた。
彼女の指先から白い光が生まれ、その輝きが周囲を照らす。
次の瞬間、その光は糸のように細く伸びていき、白い羽毛に覆われたカラスのぬいぐるみへと繋がった。
「ディラン、魔法使いには五つのタイプがあるの」
モーティが説明した。
「マニフェスター、ファイター、マリオネッター、トリッカー。そして最後がイリュージョニストだ」
「私はマリオネッターだよ」
リサが言った。
「そして、この子はチュン。ディランに挨拶して、チュン」
人形はリサの手の中で持ち上げられたまま、動かなかった。
「あなたの両親が、もう教えてくれてると思ってた」
リサはそう言った。
「魔法のこととか、どうやって使うのかとか」
それから少し考えたあと、続ける。
「それに、あなたのお父さんは私が今まで見た中で一番強いウルフウィズなんだよ」
「え?」
ディランは驚いた。
「父さんを知ってるの?」
「えっと……もちろん。あなたのお父さんが迎えに来たとき、私は見ることができたから」
リサは笑った。
「霧は魔法使いには効かないんだよ。知ってた?」
「待って、リサ」
モーティが割って入った。
「今、ディランの頭を情報のゴミ箱にしてるぞ」
「ちょっと、それ失礼じゃない?」
ディランが抗議した。
「全部理解できた? 君にはかなり処理することが多いと思うけど」
「もちろん」
ディランは答えた。
頭の中で必死に情報を整理しながら、ディランは推測した。
五つのクラスは、それぞれ異なる方法で魔法を発動する。
そして、その方法にはそれぞれ独自の特徴があるのだろう。
「つまり、リサはその人形を通して魔法を使うんだね」
ディランが言った。
「そう。マニフェスターは杖を使う。ファイターは拳や武器。トリッカーはトリックを使う。そしてイリュージョニストは……えっと……」
リサは頬に指を当て、空を見上げた。
「視覚的な幻影を使う」
モーティが答えた。
「ああ、そうそう。それ」
リサは頷いた。
ディランは少しずつ理解し始めていた。
「待って。父さんのことを『ウルフウィズ』って呼んだよね?」
「うん。そういう種族の名前なの」
リサは言った。
「ごめんね。その言葉を使っちゃった。あなたが何も知らないってこと、忘れちゃうんだ。えへへ」
彼女は左手を頭に当てながら、気まずそうに笑った。
「魔力を使って魔法を使うんだよね?」
ディランが尋ねる。
「おお、友達。正直、もっと時間がかかると思ってたぞ」
モーティが言った。
「まあ、そうだな。正確には魔力には貯蔵量がある。最大で百、最低で二十。ちゃんと管理しないといけない」
「なるほど。じゃあ、使い方を間違えたらどうなるの?」
ディランはまた尋ねた。
「簡単に言うと――死ぬ」
「———」
ディランはその言葉を聞いて唾を飲み込んだ。
「じゃあ……使わなかったら?」
臆病心が、その質問を口から吐き出させた。
「魔法腎臓が損傷してたら死ぬ。でも、友達。そんなに怖がるなよ」
「なんで毎日パンを食べるみたいな感じで言うんだよ!?」
「だって、実際そうだから……」
モーティはそこで言葉を止めた。
「そういえば、俺の父さん……いや、やっぱり忘れてくれ。ディラン、気にするな」
ディランはため息をつき、二人を見た。
「えっと……それで、僕はどのクラスなの?」
ディランは少し嬉しく思っていた。
目の前の二人は、自分が何度も当たり前のような質問をしているにもかかわらず、怒ったり、うんざりしたりしていない。
「ほら、僕の杖を持ってみて」
モーティはポケットから杖を取り出した。
「何か起きたら、君はマニフェスターだ」
ディランは杖を受け取ろうとした。
しかし、その前に重要なことを思い出した。
「待って。どんな種類の魔法があるの?」
ディランは尋ねた。
「ほら……風とか、水とか、雷とか、回復とか、植物とか……」
「ああ、そうだった。それが一番重要だ」
モーティが説明する。
「君は、自分が適性を持っている属性の魔法しか使えない」
そう言うと、モーティは手を差し出した。
「ほら、手を貸して」
「待って、モーティ」
リサが言った。
「あなた、彼が誰なのか分かってるよね?」
「え?」
ディランは困惑した。
「どういう意味?」
「だって……あなたはマーリンの子孫なんだよ」
リサが言った。
「そして、マーリンの一族は全員、決められた魔力を持ってる。百五十だよ」
「だから、もしモーティが君の魔力を調べると……」
リサは少し不安そうにした。
「その……魔力が暴走する可能性がある」
「つまり、俺と君は、腕や頭を失う可能性があるってことだ」
モーティが淡々と言った。
「だったらちゃんと気をつけろよ!!」
ディランが叫んだ。
「落ち着け、友達。大丈夫だから」
モーティが言った。
「そうだよ、ディランちゃん。モーティが集中してれば大丈夫。だから落ち着いて」
リサも続けた。
モーティは目を閉じた。
そしてディランの手を握る。
すると突然、白いオーラが彼の身体を包み込んだ。
しばらくして、その光が消える。
モーティが目を開いた。
「分かった。君の適性は――シニオ、モーヴォ、カロだ」
その答えは、明瞭かつ簡潔だった。
「へえ……それで、その三つってどういう意味?」
ディランが尋ねる。
「全然知らない」
モーティはあっさり答えた。
「俺が知ってる魔法なんて四つくらいだからな。ほとんど風属性だし」
「シニオの適性を持ってる人が、水を出してるのは見たことあるよ」
リサが言った。
「まあ、それなら少しは役に立つかな……」
ディランは視線をモーティの杖へ向けた。
そして、それをしっかりと握った。
「つまり、魔法を一つ使えばいいんだよね?」
「そう。使う魔力の量と、唱える呪文をInglih語で言うんだ」
モーティが説明した。
「それと、属性は必ず言わないといけない。言わなかったら、魔法は発動しない」
「『Five, Water ball』って言えばいいんだよ」
リサが補足した。
ディランの顔に浮かんだ困惑を見て、そう付け加えたのだった。
[よし……やってみよう]
ディランは杖を持ち上げ、壁へ向けた。
深く息を吸う。
物事があまりにも速く進んでいったことを考える。
そして同時に――
自分が他の人間より優れているような感覚が、少しだけ湧き上がっていた。
それは、単純に自分の魔力が多いからだった。
「<Fifty, Sínio, Water ball>」
何も起こらなかった。
本当に、何も。
「まあ……」
モーティが言った。
「マニフェスターは君には向いてないのかもな」
「じゃあ、ファイターを試してみよう」
「今度は『Water punch』って言えばいい」
「<Fifty, Sínio, WATER PUNCH>」
ディランは壁を殴った。
何も起こらない。
本当に何も起こらない。
「じゃあ、チュンを持ってみて。反応したらマリオネッターだ」
ディランはチュンを手に取った。
何も起こらない。
「今度はコインを投げながら同じことをしてみて」
ディランは言われた通りにした。
何も起こらない。
何も。
何も。
何も起こらない……。
……
……
なんて恥ずかしいんだ。
もう誰か殺してくれ。
[地面よ、僕を飲み込んでくれ]
ディランは心の中で思った。
「<Fifty, Sínio WATER BALL>!」
ディランはもう一度叫んだ。
しかし――
何も起こらなかった。
「うわぁ、友達。今の君、超絶ダサいぞ」
モーティが言った。
「気にしないで、ディランちゃん。頑張って」
リサが励ます。
「ねえ、イリュージョニストの魔法ってどんな感じなの?」
ディランはとうとう疲れ果てて尋ねた。
「私たちも知らないよ」
リサは申し訳なさそうに答えた。
「イリュージョニストは本当に少ないから、分かっているのは特徴くらいなの。ごめんね、ディランちゃん」
少年はため息をついた。
そして両手を頭に当て、髪をかきむしった。
父親がこの世界について一度でも話してくれていたなら。
そんなことを考えながら、ディランは必死に考えた。
だが――
父親は何も話していなかった。
母親も同じだった。
ならば、残された方法は一つ。
人間の論理を使うしかない。
「えっと……たぶん……」
ディランは芝生の上に座り、目を閉じた。
「<Five, Sínio, Water ball>」
両手を開く。
すると、手のひらに湿ったような感覚が現れた。
その近くに、何か光のようなものを感じる。
水の球をイメージする。
「おお、できてるぞ!」
モーティが叫んだ。
「見て、ディランちゃん! 水の球ができてる!」
リサも驚いた。
「不思議。どうして水滴が落ちないんだろう?」
その瞬間――
ポタッ。
一滴の水が落ちた。
ディランは笑顔になった。
「分かった!!」
彼は目を開いた。
「僕はイリュージョニ――」
その瞬間。
燃え盛る深紅の矢が、ディランの小さな水球へ突き刺さった。
「ドォォォン!!!」
煙が視界一面へと広がった。
つまり――
一つのことだけは確実だった。
[どうして僕はいつも死のすぐ近くにいるんだ!?]6
「<Four, Zéleno, air cut>」
騒然とする中、モーティの声が響き渡った。
風が一つに集まり、吹き荒れる突風へと変化する。
やがてそれは緑色に染まり、周囲を覆っていた煙幕を吹き飛ばした。
鋭い斬撃の音がディランの耳に響く。
肌には鳥肌が立ち、髪は風の流れに合わせて激しく揺れていた。
「<One, źilto, Electric Cut>」
知らない声が聞こえた。
バチッ!
強烈な電撃音が周囲に響き渡る。
黄色く輝く電気の斬撃が、ディランとモーティのすぐそばを通過した。
黒髪の少年の肌を走る痺れは、さらに強くなっていく。
「<Two, parno, Chun: Light Arrow>」
リサは銃を撃つように人形の糸を動かした。
そして、黄色い斬撃へと狙いを定める。
太陽のように強烈な白い光が、鳥のくちばしに現れた。
チュンが鳴いた瞬間、その眩い光は矢へと変化し、放たれる。
二つの攻撃が激突した。
強烈な閃光が周囲を包み込み、それを見た者の目を焼くほどの光を放つ。
「バチィィィン!!」
ディランは両目を覆った。
手がひどく熱い。
まるで火傷したようだった。
ほんの少し前まで、三人はフロウレストが生息する庭にいた。
それなのに突然、空を飛ぶ魔法が飛び交い始めた。
近くの窓は粉々に砕け散っている。
幸い、壁までは壊れなかった。
ディランは身をかがめた。
すると、モーティとリサが彼の前に立つ。
まるで盾のようだった。
だが――
彼らがそこまでしてディランを守る理由などないはずだ。
ほとんど知り合ったばかりなのだから。
どうして助けてくれる?
もしかして、二人は自分の友達に――
……いや。
今はそんなことを考えている場合じゃない。
「<Five, Zéleno, air cut>」
モーティが叫んだ。
彼は杖を持ち上げる。
その動きは、まるでナイフを振るうようだった。
「ザッ!」
突然、強烈な突風が再びディランの髪を揺らした。
その風は緑色へと変化する。
そして、赤い屋根へ向かって飛んでいった。
「ドォォォン!!!」
爆発音が周囲に轟いた。
屋根の瓦礫が大量に吹き飛ばされる。
その中から、一枚の白い布が姿を現した。
あまりにも薄く、まるで透明に見えるほどだった。
「え……?」
ディランの呟きが響いた。
「<Fourty, Mòvo, estelar arrow>」
紫色の矢が放たれた。
銃弾のような音を響かせながら、凄まじい速度で飛んでくる。
「ディラン! カロを使え! キーワードは『Darker』だ!」
モーティが叫んだ。
彼は杖を振りながら、風をその動きに従わせている。
ディランはためらった。
両手で耳を塞ぎ、目を閉じる。
呼吸が激しくなる。
リサはオレンジ色の服を着たフードの男へ、次々と魔法を放っていた。
[どうして……? どうしてカロなんだ?]
ディランは考えた。
きっと、あの攻撃に対する弱点なのだ。
「ディランちゃん、今!」
リサが叫ぶ。
チュンを左右に動かしながら、次々と魔法を放っている。
オレンジ色のフードを被った男は、攻撃をかわし続けていた。
まるで人間とは思えないほどの動き。
とても速い。
ものすごく速い。
ディランは、その男を注意深く見つめた。
紫色の矢が迫っている。
避けなければならない。
そうしなければ――
[逸らせ。逸らせ。逸らせ]
「<FIFTY, KALO, DARKER FOG>!!」
ディランは叫んだ。
頭の中でイメージする。
霧。
とても黒い霧。
濃く、ほとんど液体のような黒い霧。
そして突然――
鼻の奥へガソリンのような臭いが入り込んできた。
視界が強く歪む。
そして、すべての感覚が消えた。
触覚も。
味覚も。
振動も。
音も。
何も感じられない。
ただ一つ――
胸に走る、強烈だが確かな痛みだけがあった。
ディランは胸を押さえた。
咳き込む。
そして、血を吐いた。
[これが……モーティの言っていたことなのか?]
「これは有効な霧ではありませんね」
別の声がした。
オレンジ色のフードを被った男とは違う声だった。
次の瞬間――
周囲を包んでいた暗闇と無感覚が、一気に切り裂かれた。
光が、瞳孔の開いたディランの目を眩ませる。
少年は弱々しく立ち上がろうとした。
しかし――
身体は言うことを聞かなかった。
そのまま、エメラルド色に輝く草原へ倒れ込む。
少しずつ視界がぼやけていく。
目の前に、茶色の靴が見えた。
呼吸が苦しい。
瞼が重い。
目を閉じてしまいそうになる。
リサとモーティの声は聞こえている。
けれど、二人が近くにいるという感覚はなかった。
ディランは顔を上げた。
目の前にいる少女の顔は、ぼやけている。
「眠りなさい、馬鹿」
その声を聞いた。
そして――
幕が閉じた。
♠︎——◆——♠︎
「おい、起きろよ。ボスに殺されたくないんだ」
知らない声がした。
ディランが目を開ける。
目の前には、オレンジ色の髪をした少年がいた。
年齢はディランと同じくらいに見える。
蜂蜜色の瞳は輝いていて、全身から活発な雰囲気が漂っていた。
服装は長袖のシャツに、ヴィンテージ風のズボン。
そして、髪と同じ色の靴を履いている。
ディランは反射的に少年を押しのけた。
足元の石につまずきながらも、全力で走る。
走って、走って――
そして。
「こんにちは、ディラン」
その声を聞いた瞬間、ディランは止まった。
……カーラ。
全速力で走っていた身体が急停止する。
そして、そのまま背中から倒れた。
起き上がると、周囲の状況が少しずつ見えてきた。
そこは、ほとんど光の入らない洞窟だった。
「久しぶり」
少女はディランの目の前に立っていた。
そして、何事もなかったかのように穏やかに手を振った。
……
これは感動的な再会なのか。
それとも――
誘拐なのか?7
彼女の紫色の髪は長く、まっすぐに伸びていた。
前髪が右目を覆っており、左目も同じ紫色をしている。
瞳孔は黒く、その虹彩には星のような模様が浮かんでいた。
ディランよりも背が高い。
年齢の割には胸も大きく、服装は茶色のスカートとシャツ。
ただし、それぞれの色合いは少し異なっていた。
足元にはオリーブグリーンの靴を履いている。
「カ……カーラ?」
ディランが呟いた。
「どうしたの、馬鹿?」
カーラが尋ねる。
「お前……本物か?」
「ううん、私は幽霊だよ」
「…………」
「何そんなに見てるの? もし私の胸を見てたら、殴り殺すからね」
やはり彼女は、二年前と何も変わっていなかった。
「お前……お前、お前…………」
「私……何? ちょっと、あんたさっきから変だよ。前よりずっと変。いったいホ――」
ディランはカーラに飛びついた。
そして、強く抱きしめる。
わずかに嗚咽を漏らしながら。
彼女だった。
こんな汚れた場所での再会だったとしても――
そこにいる。
カーラが生きている。
周囲には、いくつかの水滴が落ちていた。
水が跳ねる音が洞窟の中に響く。
「生きてたんだ!」
ディランが叫んだ。
「馬鹿! 死んだと思ってた!」
「え? つまり、私のことをゾンビ呼ばわりしてるってこと?」
「ゾンビなんて言ってない!」
ディランはそう答えながら、手の甲で目元を拭った。
「泣いてるの?」
「泣いてない!」
カーラはディランを見て笑い始めた。
ディランは頬を赤くしていた。
そして、小さな涙が目からこぼれていた。
「何かお邪魔しちゃった?」
遠くから、オレンジ色の髪の少年の声が響いた。
「え? いや、何でもないよ」
カーラはディランを優しく押した。
ディランは少し後ろへ下がる。
「へぇ、ボス。その子って弟? それとも彼氏?」
少年が尋ねる。
「ちなみに俺はハロルド。コードネームは『デュロ』。そう呼んでくれていいよ」
「えっと……それは嫌だな」
ディランは答えた。
「ハロルドのままでいい」
「オーケー」
ディランはハロルドの後ろを見た。
そこにはトカゲのような尻尾があった。
……最高だ。
また一つ、警戒する理由が増えた。
「ハロルド、出てって!」
カーラが言った。
「うわ、ボスってば俺に冷たいなぁ」
ハロルドはそう言いながら去ろうとした。
しかし、立ち去る前にディランを見る。
「気をつけろよ、マーリンの末裔。俺たちの任務は、ただこのゾ――」
バシッ!
小さな石が勢いよくハロルドの頭へ飛んできた。
「痛っ! ボス、それは痛いって!」
「出てけ」
カーラは冷たく言った。
するとハロルドはカーラに中指を立てた。
カーラはただ目を逸らした。
「それで、人生どうだった?」
カーラは天井を見上げながら尋ねた。
「話を逸らそうとしてる?」
「何の話?」
カーラは本当に分かっていないようだった。
ディランの胃の奥に、小さな疑問が生まれた。
彼女に言いたいことはたくさんある。
多すぎるくらいに。
「お前があの襲――」
「ああ、それ? 仕方なかったんだよ。あんたがこれ以上、法的な問題に巻き込まれないようにするため」
「どういうこと?」
「ニュース」
カーラはディランの疑問に、間髪入れず答えた。
「ニュース? 新聞でもあるの?」
ディランが尋ねる。
「まあ、新聞もあるし、ラジオ番組もテレビニュースもあるよ。その他いろいろ」
カーラは答えた。
「この中世っぽい雰囲気だからって、技術まで止まってるわけじゃないんだから」
その情報は役に立つ。
……とはいえ、今のディランにとって、それほど重要なことではなかった。
「…………」
「ねえ、そんなに私を見ないでよ、馬鹿。再会できて嬉しくないの?」
「いや……俺は……まあ、いいや」
どうして彼女には分からないんだ?
「なんというか……気まずいんだよ」
ディランが言った。
「うわ、相変わらず古臭くてセンチメンタルだね」
カーラは呆れたように言う。
「別に、最後に会ったときだってそんな――」
そこで、カーラの言葉が止まった。
あの記憶が鮮明に蘇る。
[ディラン、あとは……一緒に飛び降りるだけだよ]
その記憶が、ナイフのように心臓を切り裂いた。
胸に強烈な痛みが走り、ディランは胸を押さえた。
「……そ、それは忘れよう」
カーラは小さく頷いた。
ディランの願いを受け入れた。
「じゃあ、さっきの質問に答えるね」
カーラは言った。
「私の人生は……まあ、自分なりに言えば……拷問みたいなものだったかな」
ディランは膝を抱え、顔をそこへ埋める。
「簡単に言えば、学校が嫌い」
「学校に行けるだけでも感謝しなよ」
その言葉に、ディランは少し苛立った。
「そうだな。新しい授業が楽しみで仕方ないよ」
「ほんっと、何も耐えられないんだから」
カーラはディランの肩を軽く叩いた。
「ねえ、私たちが友達になったときのこと覚えてる?」
「うん。五歳のときだった」
ディランは答えた。
「父さんを待ってたら、お前が学校の中庭でセミを捕まえて、俺の手に乗せた。そして言ったんだ」
ディランはカーラを見る。
「『こんにちは! 私はカーラ! よろしくね!』……みたいな感じだった」
「そうそう!」
カーラは甲高い声で真似をした。
「俺はすぐにそのセミを投げ捨てた。死んだけど」
「え?」
カーラが目を丸くする。
「それから自己紹介して、握手したんだ」
ディランは続けた。
「なかなか壮大な友情の始まりだっただろ?」
カーラは笑った。
「そうだね。最高の出会いだった」
カーラはディランの足を伸ばし、その膝に頭を乗せた。
「この数日……いや、ここ数年かな」
彼女は小さく息を吐いた。
「ちょっと疲れちゃった」
カーラは目を閉じる。
「このお姉さん、ここで寝てもいい?」
「……お前がそうしたいなら」
ディランはカーラの髪を撫でた。
カーラはそれを拒まなかった。
ゆっくりと瞼を閉じていく。
「…………」
静寂。
これまでのすべての午後。
一緒に遊んだ時間。
一緒に食べたアイス。
そのすべてが、ディランの脳裏に蘇っていく。
それは――
幸福だった。
ディランには、それがよく分かっていた。
だけど……。
胸の中にある怒りは、ハワードに馬鹿にされたときのものとは比べものにならない。
心臓も頭も、感情によって激しく鼓動していた。
[俺たちはずっと一緒だ]
[お前は俺の親友だ]
[絶対にお前を一人にしない]
「寝てるときは可愛いな」
ディランが呟いた。
静寂が墓場のように広がった。
ディランは、その静寂を壊そうとした。
だが、その音だけでは足りなかった。
残されたのは――
ただ、過去を思い返すことだけ。
例えば、あのとき。
[ディラン、ゲームがあるんだ。◆◆◆◆◆◆◆っていうゲーム。二人で、ただ窓から――]
本当は、二人とも疲れていた。
そして……カーラの父親は亡くなった。
だから――
[嫌だ。やりたくない]
[ディラン、もう一度言うけど――]
[嫌だって言ってるだろ!!]
その後、ディランは家へ走って帰った。
[だって……あのときの彼女は……普通じゃなかった]
その記憶を思い出した瞬間、ディランは吐き気を感じるように口を覆った。
「ねえ、ディラン」
カーラの声がした。
「もう一時間経ったよ」
カーラは起き上がり、腕を伸ばした。
気づかないうちに、ディランは一時間もの間、老人のように過去を考え続けていた。
カーラとの一年目を思い出すたび、胃が痛くなる。
「それってリサでしょ?」
カーラが尋ねた。
「え? ああ、うん」
「へぇ、へぇ……。あんた、あの子を惚れさせたんじゃない? この色男」
カーラは、ディランには少し淫らに見える笑顔を浮かべた。
少女は鍾乳石にもたれかかる。
「まあ、私のほうは結構うまくいってるよ……たぶん」
カーラは話を続けた。
「母さんとは距離を置いて、それから――」
「距離を置いた?」
ディランの質問が、カーラの言葉を遮った。
「えっと……うん。逃げたの」
水滴の音だけが続く。
ディランは、何でもないことのようにそう言ったカーラを、困惑した目で見つめた。
「……どうして――」
「だって、そうしたかったから」
カーラは目を細めた。
「私と母さんは……その……問題があるの」
その言葉には、露骨にこう書いてあった。
『あんたには関係ない』
「でも、話し合えばいいんじゃないか?」
ディランが尋ねると、カーラはため息を吐いた。
「私の母親は、あんたの母親とは違うんだよ、ディラン」
カーラは言った。
「まあ、あんたの母親を母親と呼べるならだけど」
「おい、それ以上は――」
「何?」
カーラはディランを挑発した。
「パパに泣きつく?」
「…………」
ディランは眉をひそめた。
カーラはただ笑った。
「じゃあ、そろそろ行かなきゃ」
その言葉は、ハンマーのように重く、静寂を叩き壊した。
「……いつ?」
「分からないよ、ディラン。感傷的になるのはやめて」
「でも……」
ディランは拳を握り締めた。
「お前は……何も感じないのか?」
「何が?」
カーラは尋ねた。
「俺と会えなくなることだよ」
ディランの声が震える。
「消えて、俺に全部忘れさせようとすることだ!」
最初に心の中で聞こえた『逃げろ』という声に従うべきだった。
「学校ではみんな俺を見る目がおかしい。無視される。俺をクソみたいな道化扱いするんだ!」
「ディラン、私は――」
「もう分かってる!」
ディランは叫んだ。
「お前もハワードも同じだ! いじめる側で、俺は誰からも必要とされない側なんだ!」
ディランは笑った。
それは笑顔ではなかった。
歪んだ表情だった。
「それがお前の望みなんだろ?」
「お前……」
カーラの表情が変わる。
「お前だって、私が苦しんでるって分からないの!?」
「父さんが死んだんだよ、ディラン!」
カーラは叫んだ。
「私を愛してくれた唯一の人だった!」
ディランは黙った。
「いつだって自分のことばっかり!」
カーラはさらに叫ぶ。
「私のせいじゃないでしょ! あんたのクソみたいな親がホモだろうが!」
「それがどうした!」
ディランも叫び返した。
「お前の言う通りかもしれない!」
「お前は友達すらいないくせに!」
その言葉で、ディランは現実へ引き戻された。
カーラを無神経だと責めていた。
だが――
自分のほうが、もっと酷いことを言っている。
その瞬間。
ゴゴゴゴゴ……。
洞窟の天井が揺れ始めた。
小さな土の塊が、次々と落ちてくる。
「<Zéleno, Tornado de destrucción>」
すべてが緑色に染まった。
二人の会話は、そこで途切れた。
誰も勝たなかった。
「カーラ!」
「ディラン!」
---8
ディランは突然、目を覚ました。
激しい過呼吸に襲われ、胸を押さえながら名前を叫ぶ。
「カーラ!」
ディランが叫んだ。
周囲を勢いよく見回す。
しかし、危険なものは何もなかった。
そこにあったのは、ただ一人きりの部屋だけ。
「ディランちゃん、大丈夫?」
リサがディランの目の前にいた。
「…………」
すべてが落ち着いていた。
竜巻もなければ、風もない。
「ムッシュ・マルトッドがあなたを助けてくれたの」
リサは胸に手を当てた。
「かなり……危険だったけど」
「洞窟全体を壊しちゃったの。神級の魔法を使ったんだよ」
リサは説明を続ける。
「神級魔法っていうのは、必要なマナ量すら――」
「……あのとき、フードを被った奴らはいなかった?」
ディランが遮った。
「え?」
「フードを被った奴ら。俺たちを襲った奴らだ」
リサは困惑したように首を傾げる。
「ううん、ごめんね。私はそこにはいなかったから」
「そうか……分かった」
もしかしたら――
あの魔法でカーラを殺してしまったのかもしれない。
あるいは、まだ生きているのかもしれない。
ディランには、もう知る方法がなかった。
「あの人たち、ものすごいマナを持ってたよ」
リサが説明する。
「ムッシュの水の結界を破れるくらいだった。きっと、何か特別な魔法を使って――」
「リサ」
ディランは遮った。
「俺が連れて行かれた後、何があったのか教えてくれ」
ディランの頼みが部屋に響いた。
「ああ、えっと……」
リサは少し考えてから答える。
「彼らは鏡を使って消えたの。それから、モーティがムッシュに話して……」
「ムッシュは飛んでいった」
「そして数時間後、あなたを見つけたの」
リサは心配そうにディランを見る。
「あなたは……気を失った状態で連れてこられたんだよ」
「そうか……」
ディランは呟いた。
「つまり、俺の魔法の才能は……無駄になったんだな」
ディランはそう結論づけた。
目を細め、シーツを見つめる。
「心配してくれてありがとう」
ディランはリサに微笑んだ。
リサも微笑み返した。
「そうだ、あなたが戻ってきたとき、荷物が届いてたよ」
リサはそう言うと、緑色の包みを取り出した。
緑色のリボンが結ばれている。
「はい」
リサはディランにそれを渡した。
「じゃあ、私は行くね。また後でね?」
少女は立ち上がり、ゆっくりと扉へ向かって歩いていく。
[『友達すらいないくせに』……]
ディランの頭の中で、カーラの言葉が蘇った。
「リ……リサ」
ディランの声が震える。
「うん?」
リサが振り返った。
「俺たち……友達になれる?」
ディランは少しだけ迷いながら続けた。
「三人で……」
「君と、モーティと……俺」
リサは不思議そうに笑った。
「でも、もう友達じゃない?」
「……ああ」
ディランも小さく笑った。
「そうだな……」
リサはそのまま部屋を出ていった。
一人になったディランは、渡された包みを開ける。
中には一冊の本と、メモが入っていた。
そこには――
『ごめんね。許してくれたら嬉しいな。私はまだ生きてるよ :>』
『これは再会のプレゼントだよ :D』
と書かれていた。
ディランは本を手に取り、笑みを浮かべる。
カーラは生きている。
それを知っただけで、少しだけ安心した。
もしかしたら、この本を読めば気持ちも落ち着くかもしれない。
「父さん」
ディランは誰もいない部屋に向かって呟いた。
「俺、もう友達ができたよ」
少しだけ間を置いて――
「……カーラじゃない友達が」
そう言って、ディランは本を開いた。
そして、その日の残りの時間を本を読んだり、眠ったりして過ごした。
……大変な一日だった。
そうだろ?




