16章:怪物との1打席
「ピッチャー武藤くんに代わりまして、神野友生くん。キャッチャー神野裕生くんに代わりまして、下地くん」
球場に響き渡るアナウンスは、さきほどまでの熱狂を嘘のように冷ましていった。
担架がグラウンドから去っていく。すれ違いざま、友生が見たのは、プロテクターを外され、苦しげに顔を歪める兄・裕生の姿だった。いつも自分の前を大きな背中で歩いていた兄が、いま、運ばれていく。
「トモ、頼んだ……」
去り際に、裕生が友生の腕を掴んだ。これからの投球に支障がない程度ではあったが、それでも、指先が白くなるほど力強く握りしめられた。
「ヒロ、任せろ。絶対抑えてやる」
その返事を聞き、裕生は満足したような顔を見せて、そのまま運ばれていった。
「友生……行くぞ」
下地が、おびただしい汗を流しながら隣に立った。
下地にとって、これが公式戦で初めて被るマスクだった。
新チームになって初めて一軍に上がり、ようやく掴み取ったベンチ入り。周囲の誰もが下地を優秀なキャッチャーとして信頼していたが、甲子園のかかった試合、同点で9回裏ツーアウト二、三塁という極限状態のグラウンドに足を踏み入れ瞬間に、その重圧は下地の両足を泥のように重くした。
(なんだ、この空気は……。ブルペンとは、まるで違う……)
周囲を囲む何万もの観客の視線。啓星館のサヨナラを期待する大歓声が鼓膜を震わせる。下地の手は微かに震えていた。
小学生から野球を始め、運動神経が皆無だった自分が、唯一自信を持って守れたポジションがキャッチャーだった。何万球と受けてきたはずなのに、ホームベースの後ろに立つのが、これほど恐ろしいことだとは思いもしなかった。
そんな下地の震えを、隣にいる友生は見逃さなかった。友生は一度、大きく深呼吸をしてから、グラウンドに出る直前、下地を真っ直ぐに見据えた。
「下地先輩」
友生の声は、思いのほか落ち着いていた。
「ブルペンで武藤さんの球を一番受けてきたのは先輩です。だから、僕の球なんて余裕で捕れますよ。……いつも通り、データを使ってサイン出してください。俺はそこに投げ込みますから」
不敵とも取れるその言葉に、下地はハッと目を見開いた。
少し前まで、兄の影に怯え、マウンドで自分を見失いかけていたあの神野友生が、今、誰よりも頼もしい目をしている。エースと正捕手を同時に失い、絶望に沈みかけていた東海西ベンチに、友生のその堂々とした佇まいが、かすかな光を灯した。
二人で並んでマウンド付近に駆ける。
「シモッチ、ようやく初ゲームだな」
サードの小林が、汗を払いながらマウンドへ駆け寄ってきた。
「まさかこんな形でバッテリーが変わるとは思わなかったけどよ。お前ら二軍でもいつも一緒にいただろ? いつも通りやれば大丈夫だ!」
「友生、思い切って腕を振れ」
ファーストの加藤もマウンドに寄ってくると、いつも通りの鋭い視線で友生の肩をぽんと叩いた。
「後ろには俺たちがいる。打たせていけよ」
内野の要であるショートの毛受も深く頷く。その言葉に、下地もようやく、地に足がつく感覚を取り戻した。
「……話し合おう」
下地がミットで口元を隠しながら、内野陣と友生に視線を送った。
ネクストバッターズサークルから、啓星館の4番・黒木がゆっくりと打席へ向かって歩き始めている。球場全体が、最強打者の登場に再び沸き立ち始めていた。
「黒木は今日、ここまでたまたま当たっていない。飯田のストレートに差し込まれ、武藤のシュートにタイミングが合っていなかった。……だが、相手は怪物だ。この土壇場で、当たっていないからと甘く見れば一振りのサヨナラで終わる。どうする、友生。歩かせて満塁策を取るか?」
ツーアウト二、三塁。一塁が空いている。4番黒木をフォアボールで歩かせ、満塁にして次打者と勝負する手は、定石としては十分にあり得た。
しかし、友生は迷うことなく首を振った。
「いえ。ここで逃げたら、相手に流れが完全に持っていかれます。歩かせたところで、次も満塁のピンチに変わりはありません」
友生の目が、バッターボックスに入った黒木をじっと睨み据えていた。
「武藤さんも、裕生も、逃げずにここまで繋いできたんです。飯田だって5回まで死ぬ気で投げた。ここで俺が逃げたら、みんなに合わせる顔がありません。4番と、勝負させてください」
その言葉に、小林がニヤリと好戦的な笑みを浮かべた。
「言うと思ったぜ。よし、勝負だ」
「おう、お前の自慢のボールを見せてつけてやれ!」
加藤が友生の背中をバチンと叩き、それぞれが定位置へと散っていく。
一人、ホームベースへ戻る下地は、胸の奥から湧き上がる熱いものを感じていた。
(逃げない、か……。そうだ、俺たちは勝つためにここにいるんだ)
下地は深く息を吐き、マスクを被って腰を下ろした。バシッ、と頼もしい音を立ててミットを叩き、黒木のインコース低めへと構える。
ツーアウト二、三塁。バッター、4番・黒木との対峙。
バッターボックスに入った啓星館の4番・黒木は、不敵な笑みを浮かべてマウンドの友生を見下ろしていた。
(エースと正捕手が同時に消えて、出てきたのが背番号20で1年の控えピッチャーと、公式戦未出場のブルペンキャッチャーか。勝負を焦る必要はない。急造バッテリーの自滅を待つだけでも、サヨナラは向こうから転がり込んでくる)
黒木はバットを大きく構え、威圧するように友生を睨み据えた。
だが、初球。その傲慢さは、一瞬で吹き飛ばされることになる。
友生がしなやかなフォームから右腕を振り抜いた。
(遅い――)
黒木は心の中でそう吐き捨て、スイングを始動しようとした。しかし、その瞬間、スイングの軌道と白球の距離に奇妙な狂いが生じる。
「ストライク!」
バットが空を切る。ほんのわずか、黒木のタイミングが遅れていた。
(は?確かに今捉えたと思ったが……思ったよりタイミングが取りづらい……?)
黒木はヘルメットの鍔を触り、小さく息を吐き出す。たまたまタイミングがズレただけだと自分に言い聞かせ、2球目を待つ。
下地が2球目のサインを出す。アウトコースへのチェンジアップ。
フッと息を抜くような軌道で放たれたそのボールに、黒木は身体を泳がされながらも強引にバットを止め、カウントは1ボール1ストライク。
(なるほど。腕がギリギリまで出てこないのか)
テイクバックからリリースまで、友生の身体の陰に右腕が完全に隠れており、ボールの出所がまったく見えない。そのため、球速自体は明らかに遅いはずなのに、打席の黒木には「突如として目の前にボールが現れた」ような錯覚を覚えたのだ。
3球目、下地は再びインコースへ要求。
(タネさえわかればこんな遅い球、ストレートだろうがチェンジアップだろうが見てから判別できる)
黒木はこのタイミングを狂わせてくる球に対抗するため、足を上げるいつものフォームを捨て、すり足気味のノーステップ打法へと切り替えた。これならどんな変則派が相手でも、確実にミートできる。
友生の右腕がしなる。黒木はノーステップで完璧にボールを迎えにいって完璧に捉えた――
はずだった。
ガキィィン! と歪な打球音が響き、打球はライト線へ大きく切れるファールとなる。
(!?!?これでも振り遅れるのか……!?)
黒木は驚愕のあまり、自分の両手を見つめた。ノーステップで待ち構えていて、しかもこれだけ遅い球を投げ込まれたというのに、完全に差し込まれてライトへ飛ばされてしまった。なぜだ。
カウントは1ボール2ストライク。新バッテリーが怪物を完全に追い詰めた。
打席の黒木は、冷や汗が背中を伝うのを感じていた。
(投球フォームだけの問題じゃない。何か、球質自体に根本的なカラクリがある。このピッチャー、一体何を投げてきているんだ……!?)
腕の隠し方、球の遅さ、それらすべてを計算に入れたとしても、手元でのボールの挙動が物理的におかしい。必死に脳内で思考を巡らせる黒木。
その混乱を、下地の鋭い観察眼が見逃すはずはなかった。
(考えろ、黒木。今のあんたは、友生の球の正体が分からなくて混乱している。なら、答えを出す前に仕留める!)
下地はプロテクターの奥でニヤリと笑うと、ミットを力強く、インコース低めへと構えた。
勝負の4球目。
友生の指先から放たれた白球は、これまでと同じように、腕の陰からぬっと現れ、インローのビタビタのコースへと向かってくる。
(またあの遅いストレートか! いや、さっきの残像に惑わされるな、今度こそ捉える――)
黒木は直感でバットを始動させようとした。しかし、その刹那、打席で感じた違和感が黒木の身体をピキリと硬直させた。
バットが出ない。いや、出せなかった。
黒木の目の前を、白球が通り過ぎていく。
「ストライク! バッターアウト!! 」
球場全体が、一瞬の静寂のあと、割れんばかりの地鳴りのような大歓声に包まれる。
黒木は、バットを構えた姿勢のまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。最後にインコース低めに見送ったあのボール。ベースの手前で、ほんの一瞬、信じられない挙動を見せた。
(今……ボールが、浮いた……?)
あの遅さなら間違いなく垂れてくるだろうストレートが、重力に逆らうように、低めから手元でグッとホップしたように感じた。
キャッチャーの下地がグッとガッツポーズをしてからベンチに戻る。
ベンチ前で友生と下地がグラブ同士でハイタッチをした。
「やった!よく抑えたぞ、友生ー!」
ベンチから飯田が元気に友生の首をヘッドロックしにかかる。
ファーストの加藤も、サードの小林も、ショートの毛受も、全員がベンチに向かう友生に声をかける。
「こっから延長だ! まずは1点、何としてでも取るぞ!!!」
「「おー!!!」」
全員の腹の底から絞り出されたその声は、重低音のうねりとなって球場を震わせた。




