15章:静寂に響く致命傷
8回裏のピンチを凌いでベンチへ戻った直後、武藤は足早にベンチ裏へ姿を消していた。その不自然な動きを不審に思い、後を追ったのはキャッチャーの裕生だけだった。通路の奥のトイレで、武藤は自らの右手を蛇口の水で流していた。
「……武藤先輩」
裕生の低い声に、武藤の肩がビクッと跳ねた。武藤は咄嗟に右手を隠そうとしたが、裕生はその手首を強く、しかし壊れ物を扱うように優しく掴み取った。
「人差し指内側……マメ、完全に潰れてます。6回から、新球のシュートを投げすぎましたね」
飯田からマウンドを引き継いだ6回以降、ストレートの制御が効かない武藤が、啓星館の強力打線を抑え込むために選択した打たせて取るためのシュート主体のピッチング。新球なので人差し指の豆が完全に固まっていなかった影響だろう。すでに皮は破れ、肉が剥き出しになっている。一球投げるたびに、傷口に激痛が走っていたはずだった。
「裕生……。監督やみんなに聞こえる」
武藤は上擦った声で、しかし懇願するような目で裕生を見据えた。
「頼む、言わないでくれ。……ここまで来て、マウンドを降りられるかよ。俺は東海西のエースだ。お前と、飯田と、みんなで作ったこの試合を、俺の我が儘で壊したくないんだ。最後まで、投げさせてくれ」
痛みに耐えかねて震えるエースの言葉。
裕生は、キャッチャーとして、そしてチームの勝利を最優先にする男として、ここで監督に交代を告げるべきだと分かっていた。だが、目の前で血を流しながら、魂を削って「エースでいさせてくれ」と請う先輩のプライドを、踏みにじることはどうしてもできなかった。
「……わかりました」
裕生はプロテクターの奥で、小さく息を吐き出した。
「その代わり、気の抜けた球を一球でも投げたら交代を申し出ますよ。友生も何かを察してか肩を作ってくれている。武藤さんは、俺のミットだけ見て、死ぬ気で腕を振ってください」
それが、二人の間で交わされた、命懸けの密約だった。ベンチに戻った二人。
「おい!先輩と何やってたんだよ!」
飯田が裕生の肩を組む。
「ぐっ……」
裕生の口から力を入れたような声が入る。
「どうした?裕生」
飯田が不思議そうに裕生の顔を覗き込む。それを見計らって飯田の腹にパンチをすると飯田の体がくの字に曲がる。
「ぐえっ」
「アホなことやってねーで応援しろ!この回点取ればグッと勝利が近くなるぞ」
裕生はヘルメットとバットを手に取りネクストバッターズサークルに向かう。
ツーアウトランナーなしの場面で、裕生の名前が告げられ、地鳴りのような歓声とともに打席へ入る。
啓星館のマウンドは、この試合を一人で背負ってきた絶対的エースの白鳥。東海西が小刻みな継投で繋いできたのに対し、白鳥はここまで完投しているため、さすがに隠しきれない疲れの色がその肩に滲んでいた。
初球。内角高めに抜けた、甘いストレートが来る。
裕生はバットを強振した。完璧に捉えた打球がレフトのブルペン付近へ弾丸ライナーで飛ぶ。
「ファール!」
際どい大ファール。だが、裕生はバットを構え直すわけでもなく、しばらくその打球の行方を見つめたまま、不自然に硬直していた。数秒の後、大きくではなく、短く苦しげに息を吐き出すと、ようやく次の構えに入る。
2球目、3球目と、外角へ外れるナックルカーブをじっと見送り、カウントは1ボール2ストライク。
勝負の4球目、内側に抜けてくるストレート。裕生のバットがピクリと動き――しかし、強引に止めるようにして、そのまま見送った。
「ストライク、バッターアウト!」
まさかの見逃し三振。球場全体から、落胆の大きなため息が漏れる。
ベンチに戻ると「ドンマイドンマイ!」とチームメイトが声をかけたが、裕生は無表情のままバットを片付け、何事もなかったかのように黙々とキャッチャー防具を身に付け始めた。
そして、運命の9回裏。
「しまっていこう!」
裕生がいつも通り大声を張り上げてマウンドへ走る。その気迫に引っ張られるように、武藤も最初の打者を低めのスライダーを泳がせ、サードゴロに打ち取った。簡単にワンアウト。
だが、続くバッターに対し、武藤のストレートは大きく高めに外れた。頼みのシュートは、もうマメを気にして投げられない。苦し紛れに選択したスライダーも見極められ、ストレートの四球。
さらに次のバッターにも、指先がボールの縫い目に引っかかり、相手バッターの背中に直撃する。
デッドボールでワンアウト一、二塁。
啓星館のベンチがすかさず動く。次打者がきっちりと初球をサード前に転がし、送りバントを成功させた。
ツーアウト二、三塁。
一打打たれれば、その瞬間にサヨナラ負け。いや、ワンミスでサヨナラ負け。
裕生はそれでも低めに、地べたに這いつくばるようにしてミットを構えた。マウンド上の武藤の指先からはすでに血が滲み、白球に赤黒い筋が付着している。武藤はそれを自分のユニフォームの太ももで乱暴に拭い、裕生のサインを覗き込んだ。
最後の力を振り絞り、大きく足を上げ、右腕を振り抜く。
しかし、その瞬間。血のぬめりのせいで、ボールが指先から完全にすっぽ抜けた。
(――あ……)
武藤の目が見開かれる。
放たれた白球は、裕生が構えたインコース低めとは真逆のアウトコース高め、バッターの頭上をはるかに超える位置へと向かって跳ね上がった。ワイルドピッチになりそうなほどの大暴投。後ろに逸らせば、三塁ランナーが還ってサヨナラ負け。
その絶望が脳裏をよぎった瞬間、裕生の身体は本能だけで動いた。がっしりとした巨体を強引に真横へと投げ出し、左腕を極限まで伸ばす。
パシィィン! と、乾いた捕球音が響いた。
その大暴投を、裕生は奇跡的にミットの奥へ収めていた。ランナーの生還を絶対に許さない、文字通りの執念の捕球。
球場全体が、サヨナラを阻止したそのスーパープレイに割れんばかりの大歓声を上げる。だが、その大歓声の直後だった。マウンドの武藤が、力なく審判に向けて手を挙げた。
「タイム……タイムをお願いします」
主審が激しく手を振る。武藤はそのまま、ベンチに向かって小さく指でバツ印を作った。引きずるような足取りでベンチ付近まで歩いた武藤は、血の滲む右手を監督に見せ、消え入りそうな声で告げた。
「……すいません。指の豆が潰れました。これ以上投げれません」
絶対的エースが、自らマウンドを降りる意思を申し出た。武藤は悔しさに唇を強く噛み締める。
東海西ナインの全員が、そのあまりにも衝撃的なエースのドクターストップに言葉を失い、マウンドへ視線を釘付けにしていた。
だが――。
「……おい。裕生は、どうした?」
監督のその一言で、全員の視線が、ようやくホームベースへと引き戻された。
大暴投をキャッチしたはずの裕生が、まだ立ち上がっていない。
それどころか、キャッチャーマスクをつけたまま、泥だらけのグラウンドに深くうずくまり、ピクリとも動けずにいた。
「裕生……?」
サードの小林が怪訝そうに声をかけながら歩み寄る。
裕生は、右手で必死に左胸のプロテクター付近を、強く押さえていた。
のたうち回ることすらできず、声も出せないまま、マスクの奥でヒュー、ヒューと浅く荒い過呼吸だけを繰り返している。泥にまみれたその巨体は、見たこともないほど激しく小刻みに震えていた。何が起きたのかは分からないが、一目で「終わった」と察せられるほどの、尋常ではない異変が裕生の肉体を襲っていることだけは確かだった。
「おい、どうした裕生!?」
「担架だ! 早く、担架持ってこい!!」
怒号が飛び交い、一瞬で騒然となるグラウンド。
エース武藤の戦線離脱。そして、チームの大黒柱であるキャッチャー裕生の、原因不明の離脱。東海西高校が誇る鉄壁のバッテリーが最終盤、最悪の形で同時にグラウンドから姿を消した。




