14章:薄氷の防衛
3回表に小林が放った起死回生の同点2ランホームランは、それまで啓星館の圧倒的なオーラに気圧されていた東海西ベンチを文字通り沸騰させた。
2対2。マウンドに戻った飯田は、ヒットやフォアボールで毎回のようにランナーこそ出すものの、要所を締めるピッチングを見せる。バッターのインコースをえぐる気迫のストレートと、手元で小さく曲がるスライダー。1年生らしからぬ度胸で、飯田は啓星館の強力打線を相手に、3回、4回、5回と、スコアボードに「0」を刻み続けた。
だが、その投球は決して余裕のあるものではなかった。球数はすでに100球に迫り、1球投げるたびに飯田の口から荒い息が弾ける。立っているだけで体力を削られる極限の舞台。飯田の身体は、とうに悲鳴を上げていた。
何とか5回を凌ぎきってベンチへ戻ってきた飯田に、監督の鋭い声がかかる。
「飯田、よく投げた。ここまでだ」
頭からタオルをかぶっていた飯田は、一瞬だけ目を見開いた。だが、すぐに小さく息を吐き、汗で濡れた前髪を無造作に上げながら不敵に笑ってみせる。
「……え? もう終わりっスか。あと1イニングくらいはいけましたよ」
「バカ言え。ヘロヘロじゃねえか。あとはエースに任せろ」
隣から裕生が、飯田の頭をベシッとはたいた。軽口を叩き合ってはいるが、飯田のアンダーシャツは汗で絞れるほど重くなっている。1年生でありながら名門を相手に5回2失点。これ以上ない、最高の大仕事を成し遂げた瞬間だった。
「友生! 武藤に6回から行くぞと伝えろ」
「はい!」
監督の指示に短く応え、友生はすぐにベンチ裏の室内ブルペンへと走った。
マウンドで投球を続けていた武藤と、その球を受けていたブルペン捕手の下地に声をかける。
「オッケー。とりあえず水でも飲んでくるわ」
武藤はいつもと変わらない様子でグラブを外すと、軽く汗を拭いながらブルペンを出ていった。その普段通りの佇まいに、友生は少しだけ安堵の息を漏らす。
グラウンドに武藤の姿が現れると、東海西ナインとスタンドからは「いよいよエースのお出ましだ」と、確信に満ちた熱い拍手が湧き起こった。
だが、武藤の去ったブルペンのマウンドで、一人だけ妙な表情をして立ち尽くしている男がいた。下地である。
(……おかしい。何だ、この違和感は)
下地は、今しがたまで武藤の投球を受け止めていたミットを見つめ、胸の奥をじわじわと侵食していく嫌な予感に襲われていた。
先ほどまで受けていた球自体は決して悪くない。球威も十分にある。しかし、受けている下地にしかわからない「違和感」が確かにあった。それが球質のズレなのか、それとも武藤自身の様子がおかしいのか、今の段階では言葉にすることすらできない。
だが、いくら絶対的エースの武藤とはいえ、ここは決勝戦の極限状態だ。この正体不明の違和感を抱えたままマウンドへ上がれば、啓星館の強力打線に一瞬で捕まる――そんな不吉な予感が、下地の脳裏をよぎって離れなかった。もしそうなれば、試合は一気に崩壊しかねない。
「ストライク! バッターアウト! チェンジ!」
グラウンドから攻守交代を告げる主審の声が響く。武藤がゆっくりとベンチを出て、大歓声の待つマウンドへと向かっていく。
その頼もしい背中を見送った下地は、すぐさま友生のもとへと歩み寄り、声をかけた。
「……友生」
下地が友生の耳元で、小さく呟く。普段から言葉の少ない下地だが、その声のトーンはいつもと明らかに違っていた。
「下地先輩……? どうしたんですか?」
「いいか、落ち着いて聞け。……武藤の様子が少し変だ」
友生は怪訝そうに眉をひそめた。
「何が変か……上手く言葉には言い表せない。だが、このままだと、どこかで大きく捕まる可能性がある」
「えっ、武藤さんが……?」
友生は目を見開いた。東海西の誰もが信頼する、あの完璧なエースの乱調など、想像すらしたことがなかったからだ。
「監督には俺から伝えておく。俺の取り越し苦労ならそれでいい。だが、もしもの時、次にマウンドへ行けるのはお前か秋本か毛受しかいない。秋本はムラっ気があるし、毛受はショートで出場してるから緊急登板はできない。……何かあった時、本当に頼りになるのはお前だけなんだ。準備できるか?」
静かに、しかし、いつもよりも明らかに口数を多くして、下地は言葉を絞り出すように続けた。友生の目を真っ直ぐに見つめるその瞳は、真剣そのものだった。
「今すぐ肩を作るぞ。いつでも行けるように準備しておくんだ。いいな?」
エースに変調が起きているという、最悪の予感。
友生はごくりと冷たい唾を飲み込んだ。自身の右手の震えを抑え込むように拳を強く握りしめると、真っ直ぐに下地を見返して頷いた。
「……はい!」
グラウンドでは、背番号1を背負った武藤が、割れんばかりの大歓声を浴びながらマウンドへ上がっていく。
『――ピッチャー、飯田くんに代わりまして、武藤くん』
球場にクリアなアナウンスが響き渡る。
いつも飄々と、そして堂々とチームを引っ張ってくれるエース。グラウンドにいる誰もが、そしてスタンドの観客までもが、「これで一安心だ」「エースがなんとかしてくれる」と信じて疑わなかった。武藤がマウンドの土を軽くスパイクで均し、キャッチャーの裕生に向けて小さく頷く。それだけで、球場全体の空気が「東海西の勝ちパターン」へと塗り替えられたかのように見えた。この回の先頭打者は、啓星館の4番・黒木。
だが、マウンドの武藤が放った初球のストレートは、裕生が低めに構えたミットからはるか高く、バッターの頭上を襲うようなすっぽ抜けのボールとなった。裕生がその場でジャンプをして辛うじて捕球したものの、スタンドが一瞬、水を打ったように静まり返る。
裕生は武藤に返球する前、一拍の間を置いてからボールを投げ返した。だが、その返球は武藤の胸元ではなく、わずかに横へとズレていた。
(……うそだろ)
ベンチの中で戦況を見つめる友生は、胸の奥を冷たい手で掴まれたような錯覚に陥った。
「ボール、フォア!」
悪い予感は、最悪の形で的中していく。黒木を歩かせ、続く5番打者には、ストライクを取りにいった3球目のストレートを痛烈にライト前へ運ばれた。
ノーアウトランナー一塁、三塁。
一打逆転の絶体絶命のピンチ。啓星館の大歓声がマウンドの武藤に容赦なく降り注ぐ。すかさず裕生がマウンドへ駆け寄り、内野陣もそこに集まった。
「武藤先輩、大丈夫です。1、2点はあげても良いくらいに、余裕を持って行きましょう」
裕生がはっきりとした口調で声をかけるが、武藤は帽子を脱いで額の汗を拭いながら、どこか視線が定まっていなかった。慣れない中継ぎでの連投。甲子園にあと一勝で行けるという目に見えないプレッシャー。
だが、ここで崩れないのが、東海西の看板を背負い続けてきたエースの意地だった。
続く6番打者に対し、武藤は本調子ではないストレートをあきらめ、泥臭くコースを突くシュート主体のピッティングに切り替えた。インコースへの厳しい球。バッターの懐をえぐり、芯を外す。ガキィン、と詰まった音が響く。打球はサード小林の正面へのゴロとなった。
「バックホーム!」
小林の素早い送球が裕生のミットに突き刺さり、三塁ランナーはタッチアウト。まずは1アウトを取り、ピンチの芽を一つ摘み取る。
しかし、続く7番打者には粘られた末にデッドボールを与え、1アウト満塁。どこまでも武藤を試すような、過酷な状況が続く。
「武藤さん! ここ、踏ん張りどころです!」
裕生がマスクを外し、腹の底から声を張り上げる。その声に、武藤の瞳に再びエースとしての鋭い光が宿った。
(ここで引けるかよ……飯田が死に物狂いで繋いでくれたマウンドだ……!)
1アウト満塁、一打勝ち越しの場面。迎えた8番打者に対し、武藤は今日一番の気迫を込めて腕を振った。
カウント2ボール2ストライクからの5球目。武藤と裕生が選択したのは、エースの決め球である渾身のスライダーだった。
ベースの手前で、白球が打者から逃げるように鋭く落ちる。空を切るバット。
「ストライク、バッターアウト!」
三振。割れんばかりの拍手が、今度は東海西スタンドから巻き起こる。続く9番打者も、武藤は気迫で押し込み、詰まったセカンドゴロに打ち取ってチェンジ。
「よしっ……!」
マウンドの上で、武藤が静かに、しかし力強く拳を握りしめた。ベンチへ戻るナインたちも、各々がエースの背中に熱い声をかける。
6回、7回、8回と、武藤は毎回のように得点圏にランナーを背負いながらも、要所を締めるピッチングで2対2の同点のままスコアボードに「0」を並べ続けていった。
試合の緊張感がさらに高まる中、東海西の攻撃の度にベンチ裏に消える武藤と、回を追うごとに元気がなくなっている裕生の姿に、誰も気づかないまま……。




