17章:白球の行方
延長10回表、タイブレーク。ノーアウト一、二塁。
張り詰めた空気が球場を支配する中、裕生の代わりに入った5番下地が先頭打者としてバッターボックスに入った。
公式戦で初めて被るマスクの重圧。9回裏、友生が命がけで繋いでくれたマウンド。様々な感情が下地の体に泥のようにまとわりついていた。
(なんとしても、ランナーを進める――!)
バントの構えを見せると、啓星館の苛烈なバントシフトがプレッシャーをかけてくる。1球、2球、3球と緊迫したストライクゾーンの攻防が続き、カウントは1ボール2ストライクと追い込まれた。
強攻に切り替えた運命の4球目。インコース低め、厳しいコースへのストレート。
下地は気迫でバットを振り抜いた。鈍い打球音が響く。捉えた、と思った打球はしかし、無情にもピッチャーの正面へ転がった。
「セカンッ!」
大きな声の指示が啓星館内野手から上がる。啓星館の内野陣の流れるような美技。セカンド、ファーストへと白球が渡り、1-4-3のダブルプレー。一瞬にしてツーアウト。ランナーは三塁に残ったものの、東海西にとっては最悪の形である内野ゴロゲッツー。
ツーアウト三塁。
ネクストに入っている友生、ベンチの誰もが、一瞬天を仰いだ。下地はベースを駆け抜けたところで立ち尽くし、歯を食いしばる。重い足取りでベンチへ戻るしかなかった。
最悪の重苦しさがベンチを包み込もうとした、その時だった。
「伝令だ。秋本、代打で行くぞ」
監督の言葉に全員凍りついた。
「え……?」
ベンチの小高たちが一斉に声を失う。6番・友生の打順。そこに告げられたのは、今大会一度もバットを振っていない、それどころか練習試合でも「見逃し三振」しか記録していない問題児、秋本の名前だった。
「か、監督、正気ですか!? あいつバット振ったことないんですよ!?」
「友生もまだ打者一人しか投げていません!」
監督はベンチにいる全員に向き直る。
「友生は6回からずっと準備している。もちろん不測の事態に備えてくれたおかげで延長を迎えることができた。だが思っている以上に友生は消耗している」
焦るメンバーをよそに、スパイクの紐をのんびり結び直していた秋本が、面倒くさそうに顔を上げた。
「えー、俺っスか? 勘弁してくださいよ、走るのダルいんだから」
秋本は首をぽりぽりと掻きながら、近くにあった誰かのバットを適当に引っ掴んだ。やる気のないその姿に、東海西のスタンドからも困惑のざわめきが広がる。
だが、監督の脳裏には、一年前の光景が鮮明によみがえっていた。
中学時代、チームの指導者と揉めて公式戦にほとんど出ていなかった秋本。その素質を見抜き、自宅まで直談判に訪れた監督は、秋本の母親、そしてまだ小さかった妹も一緒に、近くのバッティングセンターへ行くことになった。
何とか秋本をその気にさせようと、監督が
「おい秋本、ちょっと打ってみてくれ」
と促したが、中学生の秋本はフンとそっぽを向いた。
「めんどくせー。余裕で打てる球打って何が楽しいんだよ」
「こら、監督さんに失礼でしょ!」
母親が怒るも、秋本はどこ吹く風。最悪の悪童。
だが、その時、横から秋本のシャツの裾をぐいぐいと引っ張る小さな手があった。年の離れた妹だった。
「おにいちゃん、やって。おにいたんがカッコよくカキーンって打つの、見たい!」
キラキラした純粋な目で見上げてくる妹。それを見た瞬間、秋本は
「チッ……」
と大きく舌打ちをした。
「……あークソ、分かったよ。1回だけだからな」
嫌々バットを握って140キロのケージに入った秋本は、不機嫌極まりない顔のままーー
ガギィィィン!! と火の出るようなライナーを連発し、ホームランの看板に何発も突き刺してみせたのだ。
打ち終わった秋本は、はしゃぐ妹の頭をポンポンと叩きながら、監督に向かってつまらなそうに鼻を鳴らした。
「ほらね。クソ簡単で退屈でしょ。だから野球なんてやりたくないんだよ」
打席に向かう秋本の背中に、不敵な笑みを浮かべて声をかけた。
「秋本。今までサボらせてやったんだ。今が打つ時だぞ」
「あーあ、せっかく今までサボってたのに」
『6番ピッチャー神野友生くんに代わりまして、秋本くん。背番号19』
ボヤきながら左バッターボックスに入った秋本。啓星館のバッテリーからすれば、データに一切ない謎の代打だが、190センチはある秋本を警戒して初球、アウトコースへのストレートが投じられた。
その瞬間。
完璧な軌道のスイングが風を切った。
ヘッドスピードは大したことない。だが澱みないスイングがボールを捉える。
キィィィン!!!
鼓膜を突き破るような爆音が球場に響き渡った。打球は凄まじい弾道で伸び、あっという間にレフトの間を真っ二つに叩き割る。
「……え?」
下地が、友生が、ベンチ全員が目を見開いた。
三塁ランナーが悠々とホームイン。秋本自身は本当に走るのが面倒くさそうに、本来セカンドまで行ける当たりをほぼ歩いてファーストベースへようやく到達する。
東海西、執念の1点勝ち越し。
「お前、打てるんじゃねえかよ!!」
「てか走れよ!」
ベンチは歓喜を通り越して大パニックに陥っていた。
興奮冷めやまぬままチェンジとなり、ベンチに戻ってきた秋本に、友生が目を輝かせて駆け寄る。
「秋本、ナイスバッティング!」
「興味ねぇよ」
「秋本、そのままマウンドへ上がれ。3人で切ってこい」
10回、東海西はジョーカーを切った。
タイブレーク。1点リード。だが、ノーアウト一、二塁という最悪の状況に変わりはない。一打同点、長打が出れば逆転サヨナラ。準決勝とはいえこのこの試合を勝ちさえすれば甲子園への切符を手にしたも同然。
「秋本。ここ守り切るぞ」
下地がマウンドへ駆け寄り、厳しい声で発破をかける。自分のゲッツーの悔しさを押し殺し、正捕手として1年のケツを叩くための言葉だった。
しかし秋本は、マウンドの土をスパイクで軽く蹴りながら、相変わらず眠そうな目で下地を見下ろした。
「あんた、さっきのゲッツーで世界が終わったみたいな顔してるな。あんなことはどうでもいいから忘れろよ。あんたはただ俺の球を後ろに逸さなきゃ100点よ」
下地は何か言いたそうな顔をしたが秋本の胸を目掛けてミットでこづいた。
『10回裏、啓星館高校の攻撃は5番ファースト関くん』
場内のボルテージは最高潮に達していた。
ノーアウト一、二塁、1点差。本来なら相当のプレッシャーがかかる場面。秋本がセットポジションに入る。長い手足がしなり、白球が放たれた。
初球、啓星館の走者がスタートを切る。ダブルスティールだ。焦った下地の送球はどこにも投げられず、一瞬にしてノーアウト二、三塁へと状況が悪化する。秋本が初めて眉をひそめた。
一度タイムを取りマウンドに集まる。
「何だ、お前ら。帰れ帰れ」
「バカ、別にお前の心配をしに来たわけじゃねーよ」
加藤が秋本の頭をミットで叩く。
「この場面じゃ結局二塁ランナーがサヨナラのランナーだ。塁を埋めよう」
「あと、秋本。お前セットポジション苦手だろ。振りかぶって投げていいぞ。お前のどストレート啓星館打線に見せつけてやれ!」
「……」
下地が監督に指4本を立てるとベンチから小高が出てきて審パンに申告敬遠を申し出る。
これでノーアウト満塁。
『6番ピッチャー白鳥くん』
ピッチャーの白鳥の打席。ここまで1安打放っているもののピッチングよりバッティングは苦手なのかあまりいい内容ではない。秋本が大きく振りかぶる。サードランナーが大きくリードするが気にもしない。
放たれたボールはキャッチャーミットの中に吸い込まれる。
「ストライク!」
啓星館ベンチ、スタンドからどよめきが起こる。それもそうだ。今投げたボールは明らかに150キロを超えているのだから。
2球目、次のボールを白鳥が不格好に泳ぎながら片手でバットに当てた。
「セカン!」
セカンドフライ。竹内が後ろへ追うのだが思ったよりも打球が伸びて、下がって下がってーー
「落ちた!」
センターとセカンドの間に落ちるポテンヒット。
ーー同点。
尚もノーアウト満塁。秋本も帽子を深く被り直し、先ほどまでの無気力な表情ではなくなった。
「7番セカンド佐藤くん」
白鳥に比べると小さな選手が打席に入る。そのまま先ほど放ったボールよりも勢いあるボールが外角良いところに決まった。
「ボール!」
「はあ!?」
秋本の口から漏れた声は、思いのほか大きかった。バックネット裏の観客席まで、そのドスの利いた声がはっきりと届く。
「おい! 君、今の態度はなんだ! 異議申し立ては――」
退場、あるいは最悪の警告。球場全体が「まずい、あいつ審判にキレたぞ」と凍りついたその刹那、キャッチャーの下地が審判と秋本の間を割って入るようにして審判と対面した。
「申し訳ございません。審判さん!うちのピッチャー、人相が悪いからよく勘違いされがちなんですけど自分の納得いかない球投げると声大きくなるんですよ!こっちで言っておきます」
下地はマスクとメットを外して、これ以上ないほど深く頭を下げた。その丁寧な謝罪に球審もかろうじて言葉を飲み込む。
「……次はないぞ。次やったら一発で退場処分だ。チームにも厳重注意を出す」
「はい! 本当にすいません!」
下地は一度マウンドへ向かう。秋本のユニフォームの胸ぐらを掴み下地の顔の近くに秋本の耳に近づけた。
「おい、秋本。お前、今のマジで退場になるとこだったぞ」
下地の声は、焦っている割には酷く冷静だった。秋本はチッと大きく舌打ちをし、不機嫌そうに視線を外す。
「どこがボールだよ。目ん玉ついてんのか、あのオッサン……」
「いちいち反応するな。お前の相手は審判じゃなくて啓星館打線だ」
下地は秋本の肩をガシッと掴むと、不敵な笑みを浮かべた。
「いいか、秋本。そのままの『キレ散らかしたヤンキーの顔』で、次のバッターを思いきり睨みつけろ」
「……あ?」
「バッターを見てみろ。あいつ、お前が審判にキレて頭に血が上った『コントロール不能の爆弾』になったと思ってる。怒りに任せてデッドボールを投げ込んでくる恐怖のサウスポーだ。そう勘違いして、ビビり倒してるぞ」
秋本が視線をバッティングボックスに向けると、確かに相手の打者は顔をこわばらせ、落ち着きなくバットを握り直していた。
「審判への不満は、全部あいつへの威嚇にスライドさせろ。お前が凶暴であればあるほど、あいつの腰は引ける。次の球、インコースのボール球を要求する。……秋本、お前ならコントロール、余裕でできるだろ?」
下地の言葉に、秋本の唇が、歪んだ弧を描いた。
「……ハッ。あんた、見た目に反して性格悪いな」
「キャッチャーへの褒め言葉として受け取っておこう。――さあ、いこうか」
下地は秋本の胸をポンと叩くと、何食わぬ顔でキャッチャーボックスへと戻っていった。マウンドに残された秋本は、ふてぶてしく帽子を被り直すと、冷酷な目でバッターを見据える。
球場全体が『ヤバい不良ピッチャー』を固唾を呑んで見守る中、下地だけが安心してミットを構えた。
下地のサインはインコースのボール球。相手の腰を完全に引かせるための、計算された1球。
秋本が大きく振りかぶる。糸を引くような綺麗なストレートは7番打者の胸元へ強烈に突き刺さる151キロのブラッシュボールだった。
「くっ……!」
思わず打者が声を出して後ずさる。誰もがデッドボールを覚悟したボール。しかし、下地のミットへきっちり収まった。
「ボール!」
下地の目論見通り、打者の顔からは完全に血の気が引いていた。いつ死球が飛んでくるか分からない恐怖。完全に腰が引けた打者に対し、秋本は続くボールもストレートで難なく追い詰めると、最後は渾身の152キロのストレートを容赦なく投げ込んだ。
バットは完全に空を切る。
「ストライク、バッターアウト!」
まずはワンアウト。依然満塁のため凄まじい緊迫感が続く。次の8番打者が打席に入るが、今の秋本には全く歯が立たなかった。
1年生の怪物が放つ剛速球を前に、打者はまともなスイングすらさせてもらえない。圧倒的な力でねじ伏せる、三球三振。
「ストライク、バッターアウト!」
ツーアウト満塁。
最高の形でアウトふたつをもぎ取った。スタンドの東海西応援席から、地鳴りのような大歓声が沸き起こる。
ベンチの友生も小高も、誰もが身を乗り出して拳を突き上げていた。
「ツーアウトツーアウト!どんな球が来ても絶対捕ってやるぞ!」
ファーストから加藤がナインを鼓舞する。
『9番、ショート、宮本くんに代わりまして、代打長谷川くん』
啓星館もピンチヒッターを出して最後の意地を見せようとする。張り詰めた空気の中、下地は深く息を吐き、本日最も集中して秋本にサインを送った。下地が要求したのは、アウトコースのチェンジアップ。
(今の所、秋本が投げたボールは全てストレート。一球……一球だけでいい。チェンジアップがストライクに入れば、相手バッターも狙いを完全に絞れなくなる)
マウンドの秋本は頷く。
小細工なしのストレートを待つ強力な代打を100%仕留めるための、新球種の選択だった。
秋本はグローブの中で、指の形をOKにしてボールを包んだ。
――チェンジアップ。
大きく振りかぶり、投球モーションに入る。しかし、リリースにさしかかった瞬間、秋本の全身の血の気が引いた。
(あ――)
放たれた白球の軌道を見た瞬間、下地は思わず息を呑んだ。明らかに本来の軌道より高い。秋本の指先から完全にすっぽ抜けていた。
下地が必死に上体を伸ばしてグラブを突き上げた。だが、そのミットは虚しくも空を切り、バックネットのフェンスに激しく激突して跳ね返った。
「GO!!」
啓星館ベンチからの絶叫。三塁ランナーが、歓声の渦が巻くホームベースへと走り込んでくる。
下地はスライディングをしながらバックネットへ向かった白球を掴んだが、その時には既に遅かった。
球場を、割れんばかりの地鳴りのような大歓声が包み込む。
『セーフ!ゲームセット!』
その瞬間、東海西の負けが確定した。
ホームベースの上で、秋本は右手を下地に突き出した形のまま、呆然と立ち尽くしていた。必死にバックネットから送られてくるはずの返球を待っていた右手。だが、そのグローブに白球が収まることはもうなかった。
秋本はゆっくりと突き出していた右手を下ろすと、ボールをすっぽ抜けさせてしまった自分の左手のひらを、じっと見つめた。
「……なんで、抜けるんだよ」
ぽつりと溢れた声は、激しく震えていた。
いつもなら「めんどくさい」「退屈だ」と切り捨てていた野球。初めて大事な場面でマウンドを託され、自分の持てる力を出せるチャンス。今まで大口を叩いてこれたのも圧倒的な実力、才能があったから。それを自らのミスで試合を壊してしまった。
いつもの生意気な1年生の仮面は完全に剥がれ落ち、そこにはただ、自分の犯した過ちの大きさに立ち尽くす、一人の少年がいた。
下地はその場にホームベースの上で崩れ落ち、泥だらけのマスクを握りしめて唇を噛んだ。
「整列だ。並ぶぞ」
加藤が促すも秋本は自らの手を見るのをやめない。
友生は、ホームベース上で立ち尽くす秋本の姿を見つめていた。
長かった死闘。東海西の新チーム、春の甲子園をかけた戦いがここで幕を閉じた。




