第二十二話 王道
魔法は元の世界で言うところの科学に等しい。科学には様々な分野があるように、魔法にも多くの種類がある。
科学としての感情は、脳内物質の分泌が関わっていることが知られている。例えば、幸せ物質として知られているセロトニン。ドーパミンやノルアドレナリンといった物質が情緒を激しく刺激するのに対して、それらの効果を抑えることで知られている。感情という暴れ馬の手綱やハミの役割をすると言えるだろうな。
このセロトニンが不足することで、いわゆるうつ病を発症したりもする。非常に重要な物質だ。裏を返せば、正常に分泌されれば幸福感を得ることも可能だから、幸せ物質と呼ばれている。
なんでこんな話をしたかって?
慌てなさんな。チェルシーの力の秘密に関わることなんだ。端的に言えば、彼女の力は見る者を土下座させるというものだ。では、そうしてしまうのはなぜか。王族の威光とでも言うべき圧迫感は、どこから出ているのか。
わずかな時間で、俺はレオノラから恐怖魔法や畏怖魔法と呼ばれるものがあることを教えてもらった。人間の感情を極端に変えてしまう心理魔法の分野に入るらしい。彼女の体に刻まれた魔法式とは、こうした恐怖魔法の一種ではないかと言うのだ。
彼女は誰からも恐れられているということになる。実の親からもだ。
俺がやるべきは、そんな彼女を解放してやることだ。これは単純な魔法力同士のぶつかり合いではない。幸福と不幸の宿命的な衝突なのだ。
わかっていた。俺は今すごく幸せなんだ。充実した仕事がある。美しい少女たちが傍にいる。死の暗黒の中でさまよっていた頃を思えば、これほどに栄耀栄華を極めるとは思ってもみなかった。
幸せは不幸せを凌駕することができるのか?
その答えを決めるための戦いが、目前に迫っている。感情という名の人間から切っても切れない代物を介した戦争だ。
そう、フローベールというフランス人が書いた感情教育なる小説は、愛の物語だった。
今、俺は異世界で全く違う形の感情教育を果たそうとしているのかもしれない。ただこの教育は、どちらが教えこむ側になるのかが決められていない。キラキラと光るコインが裏表を変えながら飛ぶようなこの結末は、サイコロ一つ振れない神にはわかりゃしないだろう。
「敵軍、動く」
この伝令が本営に飛び込んできた時、来るべきものが来たという緊張が、その場にいるすべての人間に伝わった。
ローカリス公、モートルード伯アントニア、レオノラ、フィオナ、リンダ、そして俺。他に、これまでの戦場をともにしてきた将軍たちもいる。刻々と変わる戦場を分析し続けてきた参謀たちもいる。
本当は一人一人が英雄だ。人々がわかりやすいサンプルに飛びつくだけで、ただその地獄を見てきたというだけで、偉大なる足跡なのだ。
「とうとうこの時が来たか」
ローカリス公が瞑目した。
「この平野に出てきた時から、決戦になる可能性は考慮していた。しかし、いざなってみれば、これほどに恐ろしい事態もない」
「敵軍の規模から推し量るに、ほとんど全戦力を投入してきています」
アントニアが言った。
「我が軍と同じ状況ということです」
「彼我の戦力差は互角。ただ一点の不確定要素を除いて、ですが」
「チェルシー王女か……」
レオノラの言に、フィオナが重ねた。
「不滅作戦さえも打破する圧倒的な魔力。我々は勝てるのか?」
「大局には影響がないのではありますまいか」
「だが、その一手が我が軍にとって致命的な差になるやもしれん」
「レオノラ」
諸将の言葉を押しとどめるように、ローカリス公が軍師を呼んだ。
「方針を説明せよ」
「詳細は後回しにして、結論から申し上げます。この戦いの成否は、ここにいるデュラン・スクルトゥヌスが、チェルシー王女を打破できるかどうかに懸かっていると言えるでしょう」
レオノラがテーブルの上に広げられた地図を指した。
「パールメースからこちらに向かいつつある敵軍は、王女を先頭に進軍しています。彼女の能力によって戦闘部隊を無力化し、一気に突破を図る算段でしょう」
したがって、とレオノラは続けた。
「我々も同じ手によって、この状況を解決します。伝令デュランを先頭とし、彼とチェルシー王女の戦闘の結果によって、展開を大きく変えます」
「デュランが敗れた場合でも、我々は戦闘に勝てるのか?」
ローカリス公の質問に、レオノラは「いいえ」と答えた。
「その場合、いかにして損耗することなく退却するかという状況になるでしょう。ヴォルトゥラグは奪えず、さらに帝国本土への敵の侵攻を考えねばならなくなるかもしれません」
「最悪だ、そんなことになったら」
「反乱が起きるかも……」
アントニアとリンダがそれぞれに心情を見せた。
「この地での敗北は帝国全体の敗北に等しい。そうお考えください。ですが、裏を返せば、ここでの勝利は何物にも代えがたい大きな前進であるということ」
「それほどの戦を、たった一人の伝令に託さねばならんとは」
「だが、この伝令は今までにも貢献したというだろう」
諸将のざわめきの中、フィオナとアントニアが俺を見てきた。
なあに、大したことはしてないさ……。
「デュラン・スクルトゥヌスの強さは、私が保証します」
レオノラが目を伏せ、威厳を含ませながら言った。
「ただし、この戦いは尋常のものではありません。魔法式を体内に埋め込んだ相手に対する、前代未聞の決戦となるでしょう。私たちの名が勝者賢者として語り継がれるか、敗者愚者として語り継がれるか」
にわかに扇を開き、前へと突き出した。
「皆さんにおかれては、この少年を信じていただきたい。もし敵軍の妨害あらば、全力を持ってこれを排除し、彼を無事にチェルシー王女との決戦に向かわせること。このレオノラ・バルドアトの命をもってお願い致します」
レオノラは役者だった。すばらしい演説によって、一同の肚は決まったようだ。
出撃。
帝国軍の勇士たちが、次々に決戦場へ向かっていく。その先頭に、俺はいる。この列を作るやつらの何割かは英雄となり、何割かは二度とうまい飯を食えなくなるんだ。
なんてバカらしい世界だろう。野球か何かで全部決めちまえばいいんだ。たまにする乱闘くらいはご愛嬌だ。そっちの方が盛り上がるし、失う悲しみを持たなくて済む。
だが、人は死を特別視する。それゆえに、人が死ぬ戦争は神聖化される。なんという欺瞞に満ちた背反だろうか。戦争を嫌う者ほど、戦争を特別な玉座に座らせておくなんて。
チェルシーは、そうした人の愚昧さに飽きた神が、着払いでこの世界に送りつけてきたのかもしれない。代金は人類史に残るであろう凄惨なバックストーリー。今を生きる俺たちにゃ関係ないが、先々では善男善女の涙腺を刺激してくれることだろう。無責任な子孫どもめ。
いや、まだ生まれてもいない子孫をなじるのはやめておこう。
目前にやつらが現れた。十三王国の大軍団。彼らも俺と同じような想いに囚われているのだろうか。戦争なんてやめて、大食い対決で勝負を決めちまおうぜとか考えているのだろうか。
いいね。ざるそばとか食おうぜ。きつねうどんでもいい。
ああ、ここからでも見える。地平線に輝く銀髪。乳白色のドレスは乳飲み子の清純さを思わせる演出か。
チェルシーは、すでにカーテンを取り払っている。帝国軍を丸ごと屈服させてしまえと、先頭に立って歩いてきている。
世界という国に王がいるのなら、彼女こそまさにそれだ。王道の征服者だ!
そうさ、征服者だ。解放者にはなれない。人に恐怖しか与えられぬ哀れな魂には、それ以上の役割は与えられていない。
俺は自分の両手を見た。
出撃の直前……レオノラが、リンダが、フィオナが、アントニアが、俺に魔法のコーティングを施してくれた。まるで愛が何もかもを凌駕するのだと言わんばかりに、四人は俺に濃密な魔力の供給を果たしてくれた。
チェルシー、わかるか。
お前が戦おうとしている相手は、いつの時代も古臭いと言われ、それゆえに決して色褪せることのない、愛を掲げたバカヤロウなんだぞ。
でもな、お前にも愛があるんだろうな。
俺には見えているぞ。お前の背後を進んでくるのは、あの不滅を破った時にいた少女たちだよな。そいつらはいったい何なんだ?
ここは戦場だぞ。彼女たちを連れてくるべきじゃない。俺もお前も、ここにいるべきじゃない。いっしょに家に帰って、テレビで相撲でも見ないか。
戦いなんて、ホントつまんねぇや。誰にも負けないチート能力を身につけたからわかる。誰かの気まぐれで与えられるような強さの先には、何も残っちゃいない。廃線になった鉄道を歩いていくようなもんだ。いつかレールは途切れて、何もないままに宙ぶらりんだ。
それとも、お前にはあるってのか。
誰も彼もに土下座され、誰も彼もに恐れられ、誰も彼もから憎まれる。その先にある栄光に、恋でもしているのか。
やめちまえ。俺に惚れろ。そっちの方が絶対にいいって。
なぜそうも背筋を伸ばし、堂々と歩いてくるんだ。殉教者のようじゃないか。自己犠牲の果てにあるものなんて、原因不明の心不全だけなんだぜ。人の一生なんてものは、酷使されたらあっさり終わるんだ。人間は不完全な生き物なんだよ、チェルシー。
世の中にはそれを知ってるやつがいる。知っていて、あえて悪巧みをするやつがいる。悔しくないのか、そんなやつらに踊らされていることが。
俺は悔しい。
二度とあんな思いをしたくない。
「みんな、止まれ」
俺は決然と言った。
「ここから先は、俺だけだ」
そのまま、歩いていく。周りの味方は足を止めた。伝令がいい働きをしている。そうじゃなきゃ、こんなに急には止まれない。
見るがいい。十三王国軍も進軍を停止している。ただひとり、チェルシーを除いては。
さながら古来の武将がしたような一騎打ちだ。それを成すのは筋骨隆々の男ではなく、一方はまだ成長途上の少年であり、もう一方は顔に憂いを秘めた少女なのである。
さあ、遊ぼうか、チェルシー。
俺は目をきつく閉じ、デュラン・スクルトゥヌスになってから今までの思い出が流星のように流れてゆくのを見た。
それから、大きく目を見開く。
「俺はデュラン・スクルトゥヌス。行くぞ、チェルシー!」
「来て、デュラン」
チェルシーのその声が、俺にははっきり聞こえた気がした。




