第九章 ダンジョンの、現場で
ダンジョン攻略の召集は、思っていたより早く来た。
先日の尋問から、わずか四日後の朝だった。
共同宿舎の僕の部屋に、教会本部の事務官が来た。
「リコ殿。本日午前、王都郊外、東のクラウス森にて、小規模ダンジョン発生。教会から、医療班として、聖人候補三名の派遣が決まりました。あなたも、含まれます」
「はい」
「現地集合は、午後一時。森の入口の、騎士団詰所に、ご出頭ください」
事務官は、それだけ告げて去った。
僕は、急いで支度をした。祈りの道具と、薬草の小さな袋と、ロレンツ先生から渡された祈祷書を、革の鞄に詰めた。
革の鞄を肩にかけた瞬間、扉が叩かれた。
扉を開けると、レオンが立っていた。
「お前のとこにも、来たか」
「うん」
「俺、補欠で、討伐隊に呼ばれた。一緒だな」
レオンの表情は、いつもの軽さだった。けれど、目の奥に緊張があった。
レオンの初めてのダンジョン、と、僕は思った。
補欠として駆り出されるからには、危険な現場ではない、はず。けれど、危険ではない、という保証は、どこにもなかった。
「行こう」
僕は、頷いた。
* * *
クラウス森は、王都の東門から、馬で一時間ほどの場所にあった。
僕とレオンは、教会本部と騎士団がそれぞれ用意した荷馬車に、別々に乗せられた。
馬車の中で、僕は、ほかの二人の聖人候補と、初めて顔を合わせた。
ベルント殿と、ティモ殿。控え室の自己紹介で会った人たちだった。
ベルント殿は、相変わらず寡黙だった。馬車の中でも、目を閉じて、何かに集中していた。
ティモ殿は、よく喋った。
「ダンジョンって、見たことある、リコ殿?」
「いえ、初めてです」
「俺も、三回目。最初の時は、足が震えた。今でも、毎回、緊張するよ」
ティモ殿は、笑った。
「医療班は、最後尾だから、安全だよ。討伐班が、ダンジョンの中の魔物を片付けてから、負傷者を、後方に運んでくる。俺らは、それを、片端から癒す」
「はい」
「気合い入れていこう」
ティモ殿は、ぽんと、僕の肩を叩いた。
軽い手つきだった。レオンのスキンシップとは、明らかに別種の触れ方だった。
ティモ殿は、たぶん、村のおじさんが孫に触れる程度の、淡白な距離感の人だった。
それを、僕は頭の片隅で観察した。
観察しながら、レオンの手のひらの温度を、思い出していた。
* * *
森の入口の、騎士団詰所に、僕たちは到着した。
詰所の前の広場は、思っていたより慌ただしかった。
騎士団の兵士が、五十人ほどいた。馬が、二十頭ほど。それから、医療班の聖職者が、五人。教会の事務官が、三人。
「規模、変わったらしい」
ティモ殿が、ぽつりと言った。
「えっ」
「俺、第一報を聞いた時より、人が、多すぎる」
たしかに、五十人の兵士というのは、小規模ダンジョンの対応としては、多すぎた。
ティモ殿が、近くにいた騎士団の事務官に声をかけた。
「すみません、現状の規模は」
「中規模に、訂正されました。ダンジョンの中の、魔物の湧き出しが、想定より、激しい」
「マジか」
「医療班の方々、申し訳ありませんが、現場での負傷者の数も、増える可能性が、あります」
ティモ殿の顔が、わずかに強張った。
強張ったのは、ティモ殿だけではなかった。
ベルント殿の目も、開いていた。
僕も、息を深く吸った。
吸って、頭の中で整理した。
規模が、変わった。負傷者が、増える。それは、つまり、僕の祈りが必要になる場面が、増えるということだった。
必要になる場面で、僕は、神への呼びかけをつけることができるか。
先日のグリゴール猊下との約束を、現場で守ることができるか。
守れない可能性が、頭の片隅に、浮かんだ。
浮かんだ可能性を、僕はすぐには追い払えなかった。
* * *
レオンは、討伐班の中で、すでに整列していた。
遠目から、レオンの姿を見た。
革鎧をしっかり締めて、剣を背中に固定して、ほかの兵士たちと一緒に、隊列の中にいた。
ふつうの兵士に、見えた。
ふつうに紛れているレオンを見るのは、入団試験の時以来、二度目だった。
目が、合った。
レオンが、片手を、軽く、上げた。
僕も、片手を、上げた。
その時、レオンの口が、何かを形作った。
声は、聞こえなかった。けれど、口の動きで、何を言ったかは、わかった。
「無事で」
僕も、口で返した。
「君も」
それから、二人とも、自分の隊列に戻った。
* * *
午後二時、討伐隊が森に入った。
医療班は、森の入口から、五百歩ほど中の場所に、設置された後方陣地に配置された。
簡易の天幕が、いくつか張られていた。地面に、布が敷かれていた。負傷者を、寝かせる場所だった。
僕とティモ殿、ベルント殿は、それぞれ天幕を一つずつ担当することになった。
最初の三十分は、何も起きなかった。
遠くの方で、討伐の音が聞こえていた。叫び声と、剣の音と、何かが砕ける音。
その音を聞きながら、僕は座って待っていた。
待ちながら、頭の中で、これまでの場面を反芻していた。
あの夜のレオンの時。教会本部の評価試験の時。
二回とも、僕は、神への呼びかけを省略していた。
今日は、つけないといけない。
つけながら、効果を出さないといけない。
心の中で、僕は、次のように組み立ててみた。
「神よ、癒し給え。この傷の、出血を、止めて、塞いでくれ」
神への呼びかけを、最初に。聖句を、続ける。それから、具体的指示を、続ける。
形式と、内容を、両立させる。
頭の中で、何度か、繰り返した。
繰り返しながら、自分の声がいつもより長くなることを、覚悟した。
長くなる、ということは、緊急時には、不利だった。けれど、それで、教会本部の警戒を回避できるなら、その不利は、受け入れるしかない。
* * *
最初の負傷者が、運ばれてきた。
兵士が、二人で、若い兵士を担いで来た。
担がれていた兵士は、左の脚に、深い切り傷を負っていた。獣の爪の跡だった。
「リコ殿、頼む!」
兵士が、僕の天幕に運び込んだ。
負傷した兵士の顔は、青かった。出血が、続いていた。
僕は、両手を傷の上に置いた。
心の中で、言葉を並べた。
左脚、深さ二センチの切り傷、出血継続中、表皮、真皮、筋肉、毛細血管、すべて元通りに。
声に、出した。
「神よ、癒し給え。この傷の、出血を、止めて、塞いでくれ」
効いた。
効くまでに、いつもより、わずかに、時間がかかった気がした。
数秒で、出血が止まった。傷の縁が、寄っていった。完全に塞がるまでに、十秒ほど。
兵士が、目を開けた。
「あ、ありがとう、リコ殿……」
「気をつけて」
兵士は、立ち上がって、また討伐隊の方に戻っていった。
僕は、自分の手のひらを見た。
ついさっきの感触と、同じだった。
神への呼びかけをつけても、効果は出た。
* * *
二人目、三人目、四人目の負傷者が、次々と運ばれてきた。
全員、軽傷から中傷の負傷だった。
僕は、それぞれに、神への呼びかけをつけた発語で、塞いでいった。
効いた。
全部、効いた。
ただ、繰り返しているうちに、僕は、ある気づきに到達した。
神への呼びかけを最初につける場合、僕の心の中の集中の、最初の数秒が、神に向けられる。具体的指示をする時には、その集中が、すでに、対象から、わずかに、ずれている。
ずれているまま、具体的指示を、する。
効くけれど、効きが、わずかに、弱い。
効きの弱さを、補うために、僕は、無意識に、発語を、より具体的に組み立てていた。傷の場所、深さ、塞ぐべき層、すべての要素を、より細かく、頭の中で並べていた。
形式を整えるための、追加の負荷を、内容の精度で補っていた。
そうしているうちに、五人目の負傷者が運ばれてきた。
今度は、深い傷だった。
* * *
運ばれてきたのは、年配の兵士だった。
胸に、深い刺し傷があった。槍か何かによる、貫通寸前の傷だった。
息が、浅かった。
顔色が、青を通り越して、灰色に近かった。
「リコ殿、これは……」
運んできた兵士が、ためらった。
ためらった理由は、わかっていた。
もう、間に合わないかもしれない、という判断だった。後方陣地に運ぶ前に、現場で死んでいた可能性も、あった。
けれど、年配の兵士は、まだ息をしていた。
まだ、生きていた。
僕は、両手を傷の上に置いた。
心の中で、言葉を、並べた。
胸部の刺し傷、深さ五センチ、肺に到達寸前、出血多量、塞がるべき。
声に、出した。
「神よ、癒し給え。この胸の、刺し傷を、塞いで、出血を、止めて、肺の損傷を、修復して」
効いた。
効いたけれど、効果がいつもより遅かった。
肺の損傷が、ある。深い傷ほど、修復に時間がかかる。
神への呼びかけのせいで、最初の集中の数秒が、ずれている。そのせいで、効きが、わずかに、遅い。
遅いまま、放置すれば、兵士は死ぬ。
僕は、判断を迫られた。
形式を、捨てるか、維持するか。
迫られたまま、僕は、両手を、傷の上に置いたまま、もう一度、声を、出した。
今度は、神への呼びかけを、つけなかった。
「胸の傷を、塞いでくれ。肺の損傷も、修復して。今すぐ」
効いた。
今度の効きは、明らかに、強かった。
兵士の傷が、見ている前で、塞がっていく速度が、上がった。数秒で、出血が完全に止まり、十秒で、傷が完全に塞がった。
兵士の呼吸が、戻ってきた。
灰色だった顔色が、徐々に、ふつうの顔色に戻っていった。
「ふう」
兵士が、目を開けた。
目を開けて、僕の顔を見た。
「俺、生きてる、のか」
「はい」
「ありがとう、リコ殿……ありがとう」
兵士は、目を潤ませていた。
僕は、頷いた。
頷きながら、自分の判断のことを考えていた。
神への呼びかけを、捨てた。
現場の、緊急時に、形式より、命を、選んだ。
選んだことに、後悔は、なかった。
ただ、今日のここに、グリゴール猊下が、いなくて、よかった、と、思った。
* * *
夕方近く、討伐は収束に向かった。
ダンジョンの中の魔物が、ほぼ討伐された。新規の魔物の湧き出しも、止まった。
最終の負傷者が、医療班に運ばれてきた。
その負傷者は、レオンに付き添われていた。
レオンの顔が、汚れていた。額に、薄い切り傷があった。けれど、自分の足で立っていた。
付き添われていた兵士は、レオンと同じ補欠合格組の、若い男だった。レオンより一つ年下だったか、二つ下か。腹に、深い傷があった。
「リコ、頼む」
レオンは、息を切らしながら言った。
「ダンジョンの最後で、こいつが、かばってくれた」
「うん」
僕は、両手を、若い兵士の腹に置いた。
心の中で、言葉を並べた。
腹部、深さ三センチの切り傷、内臓に届く寸前、出血継続中、塞がるべき。
神への呼びかけは、つけた。
「神よ、癒し給え。この腹の傷を、塞いで、出血を、止めて」
今度は、レオンが、すぐ近くにいた。
効くまでの数秒間、僕は、レオンの呼吸の音を聞いていた。
レオンは、若い兵士の手を握っていた。
「お前、頑張れ。リコの祈りは、効くから」
レオンの声は、低かった。
兵士の傷が、塞がっていった。
完全に塞がるのに、十二秒。
兵士が、目を開けた。
「レオン……」
「お前、生きてんぞ」
「すまない」
「いいから、寝てろ」
レオンは、兵士の頭を、軽く、撫でた。
いつもの、雑な手つきだった。
でも、その手つきには、明らかに、別の重さが混じっていた。
レオンが、誰かを「失わなかった」ことに、安堵している、という重さだった。
* * *
兵士が、別の医療班に引き取られていった。
僕は、自分の手のひらを見ていた。
手のひらに、血がついていた。
今日、塞いだ五人の負傷者の血が、混ざっていた。
布で、ゆっくりと、拭った。
「リコ」
レオンが、僕の隣に立っていた。
「うん」
「お前、すげえな」
「……」
「五人、塞いだろ」
「うん」
「俺、見てたわけじゃないけど、医療班の話で聞いた。お前のとこが一番、効きが速かった、って」
「そう」
「すげえじゃん」
レオンは、笑った。
笑った後で、続けた。
「でもさ、お前、最後の方、なんか呼びかけが短かったよな」
心臓が、跳ねた。
最後の方、というのは、レオンが付き添ってきた、若い兵士の時のことだった。
あの時、僕は「神よ、癒し給え」と「この腹の傷を、塞いで」を、つなげて、唱えた。けれど、ふつうの聖人候補に比べたら、その呼びかけは、短かったかもしれない。
ティモ殿やベルント殿は、たぶん、もっと長い、儀礼的な呼びかけを、つけていた。
「気のせいだろ」
レオンは、続けた。
「でも、なんか、ふつうじゃないよな、お前の祈り」
「……」
「まあ、いい。気にすんな」
レオンは、それで話を打ち切った。
打ち切ったまま、僕の肩を軽く叩いた。
「帰ろうぜ。腹減った」
「うん」
レオンは、僕より先に、医療班の天幕を離れていった。
僕は、しばらく、その場に立っていた。
立ったまま、レオンの背中を見ていた。
レオンは、気づいていた。
ふつうじゃない、と、言った。けれど、追求しなかった。
追求しないことが、レオンの優しさだった。
追求しないことが、いつまで続くかは、わからなかった。
* * *
帰路の馬車の中で、僕は目を閉じていた。
ティモ殿が、隣でしゃべっていた。
「リコ殿、すごかったよ。深い傷も、平然と塞いで」
「いえ」
「俺、さっきの、肺に届く寸前の刺し傷、自分じゃ、塞げる自信なかった。あなた、本当に、すごい」
「ありがとうございます」
「ベルントも、すごいって、言ってた」
ベルント殿は、馬車の中で、相変わらず、目を閉じていた。けれど、わずかに頷いた。
頷いたのは、ティモ殿の言葉に対する、肯定の頷きだった。
僕は、それに頭を下げた。
下げながら、頭の中で整理を続けていた。
今日、僕は、五人を塞いだ。
四人は、神への呼びかけをつけて塞いだ。
一人だけ、神への呼びかけを捨てて塞いだ。
その一人は、肺に届く寸前の、致命傷一歩手前の患者だった。
形式を捨てた時、効果が、明確に、強くなった。
これは、観察として、確実だった。
観察として、確実だけれど、これを、教会本部の祈祷書に、書き残すか、どうか、迷った。
書き残せば、ロレンツ先生の言いつけ「新しいものを、書き残せ」に、従うことになる。
書き残さなければ、安全に、過ごせる。
迷ったまま、馬車は、王都の方に向かっていた。
* * *
夜、宿舎に戻って、自室で、机の前に座った。
祈祷書を、開いた。
最後の頁の、書きかけの行の続きに、僕は書いた。
「神への呼びかけを、つけると、効きが、わずかに、弱くなる」
書いてから、しばらく、その文字を見ていた。
危険な、観察だった。
教会の教義に、真っ向から、反する観察だった。
もし、この祈祷書を、誰かに見られたら、僕は、教会から、処分されるかもしれない。
それでも、書いた。
書かないと、観察を忘れる気がした。
頁を、めくった。
次の頁の冒頭に、もう一行、書いた。
「形式と、内容は、両立しない」
書いた。
書いたまま、しばらく、その文字を見ていた。
部屋の窓の外で、月が出ていた。
月の光が、机の上の灰色の小石を照らしていた。
石を、握った。
握った石の感触の中に、レオンの「ふつうじゃないよな、お前の祈り」という言葉が混じっていた。
レオンに、いつ、全部を話すべきか。
全部を話せば、レオンは、たぶん、僕と一緒に、危険を、引き受けようとするだろう。
話さないでいる、ということは、レオンに、嘘をつき続ける、ということだった。
話す方が、まだ、罪悪感は、軽い気がした。
話そう、と、決めた。
次に、レオンと、二人きりになる時に。
全部、話そう。
決めてから、僕は、祈祷書を閉じた。
閉じて、机の上の小石を、もう一度、握った。
石は、いつものように、僕の手のひらの中で、温まっていった。




