第八章 尋問と、庇い
白い塔の四階に登るのは、初めてだった。
階段を上りながら、僕は自分の祭服の袖を、何度か直していた。袖を直す動作に、特に意味はなかった。ただ、何かをしていないと、足が止まりそうだった。
昨夜、共同宿舎の僕の部屋に、伝令が来た。
明日の朝、聖典審査部に出頭せよ、との通達だった。
届けに来た事務官は、それ以上の説明をしてくれなかった。「ご出頭の理由は、現地でお聞きください」とだけ言って、すぐに去った。
マリアム殿に、控え室で会った時、その話をした。
マリアム殿の顔から、一瞬で表情が消えた。
「呼ばれたのね」
「はい」
「ラインハルト殿には、相談した?」
「まだです」
「あとで、私から伝えておくわ。あなたは、まず行って、答えなきゃいけないことに答えて、それ以上は何も言わずに戻ってきて」
マリアム殿の声は、これまで聞いたどの声よりも低かった。
「グリゴール猊下は、揺さぶってくる方よ。挑発に、乗らないで」
「はい」
「あなたが何かを認めると、それが教義違反の証拠として、記録される。気をつけて」
その忠告を、僕は頭の中に何度も繰り返した。
繰り返しながら、四階の扉の前に立った。
扉の前の聖職者が、僕を確認して、扉を開けた。
* * *
部屋は、暗かった。
窓は、北側に一つだけあった。光は、弱かった。
部屋の奥に、長机があった。長机の向こうに、グリゴール猊下が座っていた。両脇に、別の二人の聖職者が座っていた。三人並んで、僕を見ていた。
「リコ殿。お入りください」
グリゴール猊下の声は、低くはなかった。けれど、淡々としていて、感情の色がほとんどなかった。
僕は、長机の手前まで進んで、頭を下げた。
「リコと申します」
「お座りなさい」
長机の手前に、椅子が一つだけ置かれていた。僕は、そこに座った。
座って、両手を、膝の上で、組んだ。
組みながら、自分の心臓が速く打っているのを、感じた。
その鼓動を、外に出さないように、僕は呼吸を整えた。
* * *
「リコ殿。先日の評価で、深い傷を二件、塞がれたと聞いております」
「はい」
「その癒しの祈りについて、いくつか確認したいことがあります」
グリゴール猊下は、机の上の書類をゆっくりとめくった。
「あなたの祈りは、神への呼びかけを伴わなかった、と記録されています。間違いありませんか」
「……はい」
「神よ、と、唱えられなかった」
「はい」
「教会の祈りは、神への呼びかけから始まるものと、定められております。これは教義です」
「はい」
「教義に、反していますね」
心臓が、跳ねた。
マリアム殿の警告が、頭の中で響いた。
認めれば、教義違反の証拠として、記録される。
答えるべき言葉を、慎重に、選ばないといけない。
「教義に、無自覚に、添えていなかった、ということです」
僕は、答えた。
「無自覚に」
「はい」
「あなたが祈りを始めた時、神への呼びかけを、意図的に省略した、ということではない、と」
「そうです。村で受けた教育のままに、祈っております。村のロレンツ先生のもとで、長く修行いたしました。先生は、神への呼びかけを、必須とは、教えませんでした」
これは、嘘だった。
ロレンツ先生は、神への呼びかけを必須として、教えてくれた。
けれど、ロレンツ先生は、王都にはいない。確認のしようがない。
嘘だと、わかっていて、僕はそれを使った。
使ったことに、罪悪感はなかった。マリアム殿の警告に、従っただけだった。
「ロレンツ殿の、教育方針が、教義から外れていた、と」
「外れていた、というよりは、地方の素朴な教育、とお考えください。先生は教義書をお持ちでしたが、子どもの僕に、形より心を伝えようとしてくださいました」
「ふむ」
グリゴール猊下は、書類に何かを書き込んだ。
書き込みながら、続けた。
「もう一つ、確認します。あなたの祈りの言葉は、対象と効果を具体的に指定する形式だったと記録されています。これは、祈りではなく、命令の形式に近い」
命令、という言葉に、僕はわずかに身構えた。
命令、という単語は、神への祈りには、本来、用いられない。神に対して、人間が命令することは、教義上、許されない。
「具体的に、指定したつもりは、ございません」
僕は、慎重に答えた。
「ただ、心の中で、患者さんの傷の状態を、できるだけ細かく、思い描こうとしておりました。それが、結果として、具体的な言葉として、口から出たのかもしれません。けれど、それは、命令ではなく、神様にお願いする時の、僕なりの心象の伝え方だと思っております」
「神様に、お願い、と」
「はい」
「神様の名を、呼んでいないのに」
グリゴール猊下は、僕の言葉の矛盾を突いてきた。
突かれることは、わかっていた。
「呼ぶことを、忘れておりました」
僕は、頭を下げた。
「申し訳ありません。今後は、必ず、神様の名を、呼ぶように、いたします」
頭を下げたまま、僕は自分の動悸を抑えていた。
最後の譲歩は、計算済みだった。
神への呼びかけをつける、と約束する。それで、教義違反の指摘は収まる、はずだった。
* * *
しばらく、沈黙があった。
グリゴール猊下は、書類をもう一度めくった。それから、ゆっくりと、頭を下げている僕を見た。
「リコ殿」
「はい」
「お顔を、お上げください」
僕は、頭を上げた。
グリゴール猊下の目が、僕をまっすぐに見ていた。
深い目だった。色は、灰色がかった青。けれど、深さの種類が、ラインハルト殿の青とは違っていた。
ラインハルト殿の青は、観察する青だった。
グリゴール猊下の青は、見極める青だった。
「私は、あなたの祈りを、教義違反だと、決めつけているわけではありません」
グリゴール猊下は、低く続けた。
「ただ、警戒は、しております」
「はい」
「教会の歴史の中で、規格外の祈りは、いくつもありました。そのうちのいくつかは、聖人として、尊ばれた。けれど、いくつかは、教会から、追放されました」
「……」
「規格外の祈りは、両刃の剣です。使い手次第で、神の道具になることも、神を冒涜する道具になることも、ございます」
「はい」
「あなたが、どちらに、なられるか。それを、私は、見ております」
その言葉は、警告だった。
ただし、はっきりとした告発ではなかった。
グリゴール猊下は、僕に選ぶ猶予を与えていた。
選ぶ、というのは、教会の教義に、自分を合わせていく、ということだった。
「神様の名を、呼ぶよう、心がけます」
僕は、もう一度、頭を下げた。
「結構です。本日は、これで」
グリゴール猊下は、書類を机の上に置いた。
退出を、許された。
* * *
部屋を出て、四階の階段を降りた。
降りる足が、来た時よりずっと軽かった。
ようやく終わった、と、思った。
ようやく終わった、けれど、これは終わりではないこともわかっていた。
グリゴール猊下は、これから僕を観察し続ける。神への呼びかけを、僕がつけるか、つけないか。教義から外れる動きを、また見せるか、見せないか。
観察される、ということは、僕の動きにずっと制約がかかる、ということだった。
* * *
控え室に戻ると、マリアム殿がすぐに気づいて、僕の方に来た。
「どうだった?」
「終わりました。今後は、神様の名を呼ぶように、と」
「それだけ?」
「それだけです」
「警告は」
「規格外の祈りは、両刃の剣だ、と。神の道具になるか、神を冒涜する道具になるか、見ている、と」
マリアム殿は、口元をわずかに引き締めた。
「予想された範囲内ね。でも、警戒の対象に、入ったのは確実」
「はい」
「ラインハルト殿に、報告に行きましょう」
マリアム殿は、僕を連れて三階の観察評価部に向かった。
ラインハルト殿は、机に向かって何かを書いていた。僕とマリアム殿が入ると、すぐに筆を置いた。
「お疲れ様でした、リコ殿」
ラインハルト殿は、すでに尋問のことを把握していたらしかった。
マリアム殿が、簡単に尋問の内容を報告した。
ラインハルト殿は、頷きながら聞いていた。
聞き終わってから、ラインハルト殿は、僕にまっすぐ言った。
「リコ殿。私から、申し上げておきます」
「はい」
「神への呼びかけを、お忘れなく。これは、教義の問題というより、グリゴール猊下に隙を与えないための、形式の問題です」
「はい」
「形式を整えれば、内容には踏み込まれにくい。形式を整えないと、内容まで踏み込まれます」
ラインハルト殿の言い方は、教義の擁護者の言い方ではなかった。
政治的な、防御の言い方だった。
ラインハルト殿は、僕の祈りの内容そのものは、認めてくれている。ただ、形式だけは、教会の中で生き残るために整えろ、と言っていた。
その言い方を、僕は信頼した。
「ありがとうございます」
僕は、頭を下げた。
「もう一つ。グリゴール猊下が、あなたを観察対象として記録した、というのは事実です。けれど、観察評価部もあなたを観察しています。私たちが隣で、立場を保護します」
「はい」
「あなたは、聖人候補として、私たちの管轄です。聖典審査部が勝手に処分することは、できない仕組みになっています」
処分。
その単語が、出てきた。
処分される、という可能性が現実としてあるのだ、ということを、僕は初めて明確に意識した。
ラインハルト殿は、その単語をわざと使ったのだろう。事の重さを、僕にはっきり伝えるために。
「ご注意は、絶対に、しなさってください」
「はい」
「今日は、お疲れになったでしょう。お部屋に戻られて、ゆっくりされてください」
ラインハルト殿は、もう一度、僕に頭を下げた。
僕は、退出した。
退出して、マリアム殿と、控え室まで一緒に戻った。
控え室の前で、マリアム殿は、立ち止まって、僕の肩に軽く片手を置いた。
「リコさん。生き残るのよ」
「はい」
マリアム殿は、それだけ言って、自分の机に戻った。
* * *
その日の夕方、僕は宿舎の自室で、机の前に座っていた。
祈祷書を、開いた。
最後の頁に、僕は書き加えた。
「教会本部では、神への呼びかけを、必ずつける」
書きながら、自分の手がわずかに震えていることに気づいた。
今日のことは、観察ではなかった。観察ではなく、政治的な記録だった。
政治的な記録を祈祷書に書くのは、本来の祈祷書の使い方ではなかった。
ロレンツ先生から渡された祈祷書を、政治の道具にしてしまった気がして、申し訳なくなった。
申し訳ないけれど、書いた。
書いておかないと、忘れる気がした。
* * *
夜、扉が叩かれた。
扉を開けると、レオンが立っていた。
「よ」
「うん」
「あれ、お前、なんか、顔色やばくないか」
「やばい?」
「うん。教会で、何かあったろ」
僕は、レオンを部屋に入れた。
扉を閉めてから、机の前の椅子に座った。
レオンは、寝台の縁に腰を下ろした。
「全部、話せ」
レオンは、いつもの軽さを混ぜずに言った。
僕は、話した。
四階の聖典審査部に呼ばれたこと。グリゴール猊下と、二人の聖職者が並んで座っていたこと。神への呼びかけを省略していたことを、教義違反として詰められたこと。嘘をついて、ロレンツ先生のせいにしてしまったこと。観察対象として記録されたこと。ラインハルト殿が、形式だけは整えろ、と助言してくれたこと。
話している途中で、何度か、声が詰まった。
話し終えてから、しばらく、僕は机の上の祈祷書を見ていた。
レオンは、何も言わなかった。
長い沈黙が、続いた。
「リコ」
ようやく、レオンが口を開いた。
「うん」
「ロレンツ先生のせいにした、ってのは、別にいい」
「えっ」
「先生が、もしここにいたら、絶対お前のせいにしていいって言うはずだ」
「……」
「先生は、お前のことを、自分の子供みたいに扱ってた。子供を守るためなら、自分の名前を使われたって、先生は文句なんて言わない」
「うん」
「だから、それは、気にすんな」
レオンは、寝台の縁から立ち上がった。
立ち上がって、机の前に立った。
立った位置が、僕の真横だった。
レオンの腰のあたりが、僕の肩の高さに来ていた。
「リコ」
「うん」
「お前、辛いか」
「……うん」
「うん、そうか」
レオンは、それだけ言った。
言ってから、僕の頭の上に、片手を、置いた。
いつもの、雑な手つき、ではなかった。
今日のレオンの手は、雑ではなかった。
ゆっくりと、僕の頭の上に、置かれた。それから、レオンの手のひらが、僕の髪を、軽く、なぞるように、動いた。撫でる、というのとも、違った。確かめるような、動き方だった。
そのまま、僕の頭の側面に、レオンの手が、止まった。耳の上のあたりだった。
止まった手を、レオンは、しばらく、動かさなかった。
レオンの手のひらの体温が、僕の耳の上に、伝わってきていた。
僕は、目を、伏せた。
伏せたまま、息を、整えていた。
息が、上手く、整わなかった。
「お前、強いな」
レオンは、低く言った。
「……強くないよ」
「強いよ。俺が、お前と同じ立場だったら、たぶん、グリゴール猊下のところで、暴れてた」
「想像つく」
「だろ」
レオンは、笑った。
笑いながら、僕の耳の上に置いていた手を、ゆっくりと、僕の肩の方に、移動させた。
肩を、軽く、握った。
握ったまま、続けた。
「リコ。お前、ひとりで戦うなよ」
「うん」
「俺、騎士団の訓練で忙しいけど、夜は戻ってくる。お前のとこ、いつでも来れるから」
「うん」
「辛い時は、呼べ」
「うん」
「呼ばないと、俺が勝手に来るからな」
「来てもらえるのは、ありがたい」
レオンは、しばらく、僕の肩を握っていた。
握っていたまま、何も言わなくなった。
僕も、何も言わなかった。
二人で、しばらく、そのままの姿勢で、いた。
部屋の窓から、夜風が入ってきていた。
その風で、机の上の祈祷書の最後の頁が、わずかにめくれた。
めくれた頁に、僕がさっき書いた一行が、見えた。
「教会本部では、神への呼びかけを、必ずつける」
その一行を、レオンは読まなかった。
読まないまま、僕の肩をもう一度軽く揺すった。
揺すってから、手を離した。
「飯、食ったか」
「まだ」
「食お、また、あの店」
「うん」
レオンが、扉の方に向かった。
僕は、立ち上がってついていった。
立ち上がる時、机の上の灰色の小石が目に入った。
手を伸ばして、握った。
手のひらの中で、石がいつもより温かい気がした。
いつもより温かい理由は、たぶん、さっきまでレオンの手が、すぐ近くに、あったからだった。
その温度を、僕は握ったまま、部屋を出た。




