第六章 剣と、覚悟
話し終えた時、レオンは、剣を磨く手を完全に止めていた。
寝台の上で、胡座をかいたまま、僕の顔をじっと見ていた。
しばらく、何も言わなかった。
窓の外は、もう暗くなっていた。部屋の蝋燭を、灯すべき時間だった。けれど、僕もレオンも立ち上がらなかった。
最初に口を開いたのは、レオンだった。
「リコ」
「うん」
「お前、断るのか、受けるのか」
まっすぐな問いだった。
僕は、即答できなかった。
即答できなかったのは、自分の中で答えが出ていないからではなく、答えを言葉にする勇気が、まだ出ていなかったからだった。
「受けようと、思う」
ようやく、僕は言った。
「うん」
「住居も、手当も出る。二人分の生活費は、たぶんそれで足りる」
「うん」
「君の入団試験の合否に関わらず、生活の基盤になる」
「うん」
レオンは、僕の理由を黙って聞いていた。
反論するつもりは、最初からなかったらしかった。
「リコ」
「うん」
「俺のために、決めるなよ」
レオンの声は、低かった。
「俺の生活費の心配で、お前が危ない場所に行くのは、違う」
「危ない場所、って」
「教会本部だよ。お前自身が言ってたじゃん。歓迎する側と、警戒する側の、両方の視線に晒されるって」
「うん」
「危ねえじゃん、それ」
「危ないかもしれない」
「だろ」
レオンは、寝台から下りた。
下りて、机の前に立っている僕の、すぐ向かいに来た。
立ち位置が近かった。膝と膝の間が、握りこぶし二つ分ほどしか離れていなかった。
「お前、自分のために、選べよ」
レオンは、僕の目をのぞき込むように言った。
「俺の生活費は、俺が稼ぐ。騎士団に受かれば、給金が出る。受からなくても、街で何か仕事を見つける。お前のことは、お前のために選んでいい」
「……」
「お前は、自分の祈りの正体を、知りたいんだろ」
レオンは、続けた。
「ロレンツ先生も、たぶん、それを期待してた。だから、王都に送り出した。教会本部に行けば、知る手がかりがあるかもしれない。それは、お前の選択であって、俺の生活費の問題じゃない」
僕は、息を吸った。
レオンは、僕より早く答えにたどり着いていた。
白い塔の階段を降りながら整理していた、判断軸の中で、僕が一番大事にすべき軸を、レオンは最初から指摘していた。
知りたい。
僕は、自分の祈りの正体を、知りたかった。
現実的な生活費の問題は、たしかに、ある。けれど、それは判断の主軸ではなかった。主軸は、知りたい、という、自分の好奇心と、ロレンツ先生から託された宿題だった。
「知りたい」
僕は、認めた。
「うん」
「君のためじゃなくて、僕自身のために、知りたい」
「それでいい」
レオンは、頷いた。
「危ない場所だってわかってて、それでも知りたいなら、行け。俺は、お前の選択を止めない」
「うん」
「ただし」
レオンは、少し口を曲げた。
「危なくなったら、すぐ俺に言え。何があっても、最強コンビは解散しないんだから」
僕は、頷いた。
頷きながら、目の奥が、少し熱くなった。
その熱を、レオンに気づかれないように、僕は顔をうつむかせた。
うつむいた僕の頭の上に、レオンの片手が、ぽんと置かれた。
いつもの、雑な手つきだった。
いつもの動作だった。
その動作のたびに僕の心臓が、いつもと違うリズムを刻むことを、レオンは、たぶん、知らないままだった。
* * *
翌日、僕は教会本部に戻って、ラインハルト殿に、聖人候補としての推薦を受ける旨を伝えた。
ラインハルト殿は、頷いただけだった。
手続きは、思っていたより簡単だった。書類に名前を書いて、印章を押して、それで済んだ。住居は、教会本部の敷地内の共同宿舎の一室を、用意してくれるとのことだった。手当は、月初めに支給される。最初の支給は、来月初日。それまでは、現金で当面の生活費を、前借りできるとのことだった。
ただし、入居は来週からだった。それまでに、簡単な聖人候補としての登録手続きと、教会本部の決まりごとの説明がある。
僕とレオンは、それまで今の宿に滞在することにした。
共同宿舎に入ると、レオンとは別々の住居になる。それは、覚悟していたことだった。けれど、覚悟していたとしても、今の宿の二段の寝台が並ぶ狭い部屋から、別々の場所に分かれるのは、思っていた以上に寂しかった。
その寂しさを、僕はレオンには言わなかった。
言わないことに、決めた。
* * *
レオンの入団試験は、その三日後だった。
試験当日の朝、レオンはいつもより早く起きた。
革鎧を、何度も点検していた。剣を、何度も鞘から抜いて、刃の状態を確認していた。あれだけ毎晩磨いていた剣を、試験当日の朝も、もう一度磨いていた。
緊張している、というのは、レオンらしくなかった。
子供の頃、棒振りをしていた頃から、レオンが緊張する場面というのを、僕はあまり見ていない。森に魔物討伐に行く時も、レオンはいつもの軽さで出ていく男だった。
今朝は、違った。
剣を磨く手が、わずかに震えていた。
「レオン」
「ん」
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫」
「震えてる」
「……ばれたか」
レオンは剣を膝の上に置いた。
「初めての、ちゃんとした審査だからな。俺、村と森しか知らないでここまで来てんだ。王都の連中の中で、自分がどのへんなのか、まだわかんねえ」
「君は、強いよ」
「そう言ってもらえるのは、ありがたいが」
レオンは、苦笑した。
「お前、村の俺しか見てねえじゃん」
たしかに、そうだった。
僕は、村のレオンと、街道のレオンしか知らない。コボルトを倒すレオンは見た。けれど、王都の若者たちの中で、レオンがどのくらいの位置なのかは、僕には判断材料がなかった。
「君なら、大丈夫」
僕はもう一度、言った。
根拠は、なかった。
ただ、それでも、僕はそれを信じていた。
信じていることは、根拠より、強い時もある。
「うん。行ってくる」
レオンは、立ち上がった。
立ち上がって、革鎧の留め具を、最後にもう一度確認した。剣を、背中の鞘に納めた。
扉の前で、レオンは振り返った。
「リコ」
「うん」
「見ててくれよ」
「うん。行く」
僕は、頷いた。
* * *
騎士団の試験会場は、王都の北側の、広い練兵場だった。
観客席が、練兵場を囲んでいた。すでに、たくさんの人が観客席に座っていた。試験の当日に観に来る人がいる、というのは、僕の想像にはなかった。たぶん、受験者の家族や、親戚が応援に来ているのだ。
僕は観客席の、なるべく前の方に空いている席を見つけて座った。
練兵場の中央に、受験者たちが並んでいた。
ぱっと数えて、五十人ほどいた。
全員、若い男だった。年齢は、十八から二十五くらいか。
レオンも、その中にいた。
遠目だと、レオンはほかの受験者たちと比べて、特別、目立たなかった。背は、真ん中より少し高い、くらい。体格は、しっかりしているが、突出してはいない。
ふつうに紛れていた。
ふつうに紛れているレオンを見るのは、初めてだった。村では、いちばん背が高かった。街道の旅では、僕と二人きりだった。今、レオンが、五十人の中の一人として、立っている。
僕は、それを観察していた。
観察しながら、自分の心臓が、いつもより速く打っているのに気づいた。
* * *
試験の進行は、比較的、単純だった。
受験者を二人ずつ組ませて、木剣で剣術の試合をさせる。勝者と敗者を分け、勝者同士でさらに試合を組み、敗者は別の敗者と試合をする。最終的に、各受験者が三回から五回ほど試合をして、その総合的な評価で合否が決まる、という形式だった。
試験官は、練兵場の脇に四人並んで座っていた。中央の一人が、団長らしかった。胸の徽章が、ほかの三人より大きかった。
試合が、始まった。
レオンの最初の試合は、開始から二十番目くらいだった。
相手は、レオンより少し背の高い、引き締まった体格の男だった。動きが速い男だった。
最初の打ち合いで、レオンの剣は相手の動きにわずかに遅れた。
二度目の打ち合いで、レオンの剣は横から相手の剣に弾かれた。
三度目の打ち合いで、レオンの剣は相手の木剣の先で肩を打たれた。
審判が、旗を上げた。
レオンの、一試合目の敗北だった。
観客席で、僕は息を止めていた。
まずい、と、思った。
まずい、というのは、勝ち負けの問題ではなかった。レオンの動きが、いつものレオンの動きより、明らかに遅かった。
緊張のせいだろう、と、僕は分析した。
緊張で、身体強化が上手く乗っていない。本人は、たぶん気づいていない。気づいていないから、修正できない。
レオンが、二試合目に入った。
今度の相手は、レオンと同じくらいの背格好だった。
最初の打ち合いで、レオンの剣は相手に押し負けた。
二度目の打ち合いで、レオンは足を踏み外した。
三度目の打ち合いで、レオンの胴が相手の木剣の先で突かれた。
審判の旗が、上がった。
二試合目も、敗北だった。
レオンは、肩で息をしていた。
遠目から見ても、額の汗が光っているのがわかった。
* * *
観客席で、隣の席に座っていた、年配の男がぽつりと言った。
「あの灰色の、あれは、駄目だな。緊張してんのか、動きがガチガチだ」
「……」
「あれだと、補欠も無理だ」
僕は、その言葉を聞いていた。
聞きながら、立ち上がりたい衝動を抑えていた。
立ち上がって、レオンに声をかけたかった。
「レオン、いつもの動きを、思い出して」と。
でも、それはできなかった。試験中に、観客が選手に声をかけるのは、たぶん、許されない。許されたとしても、僕の声がここから練兵場の中央まで届くとは、思えなかった。
届かない声を、出しても、意味がない。
意味がないけれど、僕は、心の中で、念じていた。
君は、できる。
君は、村でいちばん強かった。コボルトを五秒で三匹倒した。ワーウルフに重傷を負わされても、自分の足で村まで戻ってきた。
その君が、王都の若者に、負ける理由は、ない。
負けているのは、緊張のせいだ。
緊張を、解いて。
いつものレオンに、戻って。
念じても、念じても、それは、レオンに届かない。
でも、念じることをやめたら、何も、できない気がした。
だから、念じ続けた。
* * *
レオンの三試合目が、始まった。
今度の相手は、これまでで、いちばん背が高かった。たぶん、王都の名のある剣士の家の子息だった。動きが、洗練されていた。レオンとは、明らかに格が違うように見えた。
試合の開始の合図と同時に、相手はレオンに踏み込んできた。
レオンの剣は、それを受けた。
受けて、押された。
二度、三度、四度と、続けて押された。
相手の剣の先が、レオンの肩に届きかけた。届きかけて、レオンの剣がそれをぎりぎりで弾いた。
弾いた瞬間、レオンの動きが変わった。
いつものレオンの動きだった。
あの、コボルトを五秒で三匹倒した時の、低い重心。地面を確実に捉える足音。
レオンの剣が、相手の脇腹を横に薙いだ。
相手は、ぎりぎりでそれを躱した。
レオンの剣が、戻りざまに相手の腕を打った。
審判の旗が、上がった。
レオンの、三試合目の勝利だった。
観客席が、わずかにざわめいた。
隣の年配の男が、「お、化けたな」と、つぶやいた。
化けた、というのは、適切な表現か、わからない。
ただ、レオンは、自分自身に、戻った。
戻ったレオンは、いつものレオンだった。
いつものレオンは、強かった。
強いレオンを、僕は、知っていた。
* * *
四試合目、レオンは勝った。
五試合目、レオンは勝った。
ただし、レオンの結果は、二勝二敗だった。一勝目を逃した時点で、上位入賞は難しい状況だった。
最後の試合が終わった時、レオンは肩で息をしながら練兵場の脇に立っていた。
試験官たちが、何かを話し合っていた。
話し合いは、長かった。
観客席の人たちが、ざわざわと話していた。
「補欠か、落ちか、どっちかだな」
「あの、最初の二敗が、痛い」
「でも、後半の動きは、良かったな」
僕は息を止めて、試験官たちの判定を待っていた。
* * *
試験官の中央の一人が、立ち上がった。
団長らしき人物だった。
団長は、受験者全員の前に出て、合格者の名前を呼び始めた。
合格者は、十二名だった。
十二名の名前が呼ばれる中に、レオンの名前はなかった。
観客席の僕の心臓が、ぎゅっと縮んだ。
駄目だったか、と、思った。
駄目だったか、と思いかけた、その時、団長が続けた。
「以下の者は、補欠合格とする。本試験での欠員が出た場合、順次、繰り上げる」
団長は、補欠合格者の名前を、五名、呼び始めた。
三人目に、レオンの名前があった。
「レオン」
「はい!」
レオンの声が、練兵場に響いた。
いつものレオンの声だった。
軽くて、よく通る、声。
団長は、最後の合格者まで名前を呼んだ。それから、こう続けた。
「最後に、レオン。お前は、家名はあるのか」
その問いは、合格者の中で、レオンだけに向けられた。
「家名は、ありません。孤児です」
レオンは、はっきりと答えた。
団長は、しばらくレオンの顔を見ていた。
顔の輪郭を、目の色を、骨格を、確かめるような視線だった。
見てから、頷いた。
「そうか。今日の試合、後半の動きは、良かった。前半の動きとの差が、試験官の興味を引いた」
「ありがとうございます」
「補欠の身だが、ものになる気がする。励め」
「はい」
団長は、それで話を終えた。
受験者たちは、解散した。
観客席から、合格者の家族や友人が、練兵場に降りてきた。
僕も、観客席の階段を降りていった。
* * *
レオンは、練兵場の脇で肩で息をしていた。
僕が近づくと、レオンは顔を上げた。
顔が、汗だらけだった。
「リコ」
「うん」
「補欠だぞ」
「うん」
「合格じゃない、補欠」
「うん」
「でも、補欠でも、引っかかった」
「うん」
レオンは、笑った。
笑いながら、僕に両手を広げて近づいてきた。
近づいて、僕を両腕でぐっと抱きしめた。
強い力だった。
レオンの体が、汗で、湿っていた。
革鎧と、汗の匂いが、混ざっていた。
僕の胸に、レオンの肩が、強く、当たっていた。
息が、できなくなった。
息ができなくなった理由は、半分は、抱きしめられて肺が押されたから。半分は、別のものだった。
別のものを、僕は、観察していた。
観察しながら、観察している自分の体が、レオンの体温で、急速に温められていくのを、感じていた。
レオンは、しばらく、僕を、抱きしめたまま、離さなかった。
離さないまま、僕の肩のあたりに、頭を、軽く、預けてきた。
「リコ、ありがとな」
「えっ」
「お前、観客席で、ずっと、念じてくれてただろ」
「……」
「三試合目の途中、なんか急に、力が抜けたんだよ。それまでガチガチだったのが、急に」
「うん」
「お前のせいだろ。あれ」
「僕は、何もしてないよ」
「祈り、してただろ」
心臓が、跳ねた。
僕は、祈りをしてはいなかった。
念じていただけだった。
念じることと、祈ることは、違う、はずだった。
はずだった、けれど。
あの夜、僕の発語は、聖句の形を捨てた、具体的な指示だった。
あの時の発語の、根本にあったのは、レオンの出血を止めたい、という、強い意志だった。
今日、僕は、観客席で、強く念じていた。
君は、できる、緊張を解いて、いつものレオンに戻って、と。
念じていた、その内容は、具体的な指示の形を、していた。
言葉に出していたかどうかではなく、心の中で、具体的に組み立てていたか、どうか。
組み立てていた。
組み立てていたかもしれない。
念じることが、僕の祈りの一つの形なのだとしたら。
観察を、僕は、頭の中の棚の上に、もう一つ、置いた。
いつか、整理しなければ、ならない。
「ありがとな、リコ」
レオンは、僕を抱きしめたまま、もう一度言った。
「うん」
僕は、レオンの背中に自分の手を回した。
回した手を、レオンの革鎧の上に軽く置いた。
力は、入れなかった。
ただ、置いただけだった。
それだけで、十分な気がした。
夕方の練兵場の、傾いた光の中で、僕とレオンは、しばらく、そのままの姿勢で、立っていた。




