第五章 白い塔の、評価
教会本部の白い塔は、近づくにつれてより大きく見えた。
近づくほどに、僕の歩幅は小さくなっていった。
塔の正面には、広い階段があった。階段の両脇に、白い石の柱が何本も立ち並んでいた。階段の上に、両開きの大きな扉があった。扉は開いていた。
階段を、上った。
上りながら、僕は自分の服装をもう一度見下ろした。
灰色の毛織のローブ。袖と裾がすり切れている。これでよかったのだろうか、と、いまさら思った。けれど、村を出たばかりの僕には、これしかなかった。
扉の中に、入った。
中は、広い、円形の広間だった。天井が、村の教会の三倍以上高かった。床も、壁も、磨き上げられた、白い石だった。
広間の中央に、受付の机があった。事務的な薄い水色の祭服を着た、若い男が座っていた。
「何か、ご用件は」
男は書類から目を上げずに言った。
「えっと、地方の村で、祈り手の見習いをしておりました。王都に出てきました。何か、職をいただけないかと思いまして」
「地方? どちらの」
「ハーゼル村です」
「ハーゼル……」
男は、机の上の分厚い名簿のようなものをめくり始めた。
「ハーゼル村、ハーゼル村、と。ああ、ありました。村の祈り手は、ロレンツ殿、ですね。お弟子さん、ですか」
「はい、リコと申します」
「リコ、と。家名は」
「ありません」
男は僕の名前を、何かに書き留めた。
書き留めながら、初めて僕の顔を見た。
見て、ほんの一瞬、止まった。
止まったけれど、すぐに視線を戻した。
「では、簡単な技能評価を行います。あちらの控え室で、お待ちください」
男は広間の脇の小さな扉を指さした。
僕は頭を下げて、その扉の方に向かった。
* * *
控え室には、ほかにも数人、待っている人がいた。
全員、若い男女だった。みな僕より少し上等な祭服を着ていた。たぶん、王都やその近郊の教会で見習いをしている人たちだった。
僕が入ると、何人かがちらりと僕を見た。見たあと、互いに顔を見合わせた。
灰色の毛織のローブ。すり切れた袖。それを彼らは見ていた。
僕は、そっと空いている椅子に座った。
膝の上で、両手を組んだ。
組みながら、心の中で決めていた。
控えめに、する。
力を、出さない。村の祈り手の見習いとして、ふつうの技能を見せる。
それで、ふつうの聖職者として、王都の小さな教会の補佐の仕事でも得られればいい。それ以上は要らない。それ以上になってはいけない。
ロレンツ先生は、僕の祈りの正体を村の中では知ることができないだろう、と、暗に言っていた。だから、僕は王都に来た。
けれど、来たからといって、すぐに知ろうとする必要はない。
知るのは、ゆっくりでいい。
まずは、目立たずに生活の基盤を作ること。
それが、今日の目的だ。
* * *
ひとり、ひとり、奥の部屋に呼ばれていった。
しばらくして、僕の番になった。
「リコさん、こちらへ」
奥の部屋は、控え室よりさらに広かった。
部屋の中央に、長机があった。長机の向こうに、年配の男性が座っていた。胸に、銀色の刺繍の入った祭服を着ていた。
たぶん、評価官、と呼ばれる地位の人だ。
「私は、評価官のヴェルナーと申します。地方からのご志望、ご苦労様です」
ヴェルナー殿は、穏やかな声で言った。
「では、いくつか、簡単な技能を見せていただきます。最初は、光の祈りから」
僕は頷いた。長机の前に立って、両手を胸の前で組んだ。
「神よ、照らし給え」
手のひらに、黄色い光が灯った。
淡い、控えめな光だった。
ヴェルナー殿は、それをしばらく見ていた。
「結構です。次は、清めの祈りを」
僕は机の上に用意されていた、汚れた布を手に取った。布は、墨か何かで汚されていた。
「神よ、清め給え」
布の汚れがゆっくりと薄くなった。
完全には、消えはしなかった。
ヴェルナー殿は、頷いた。
「次は、癒しの祈りを。隣室に、軽い切り傷を負った若者がいます。診ていただけますか」
隣室には、僕と同じくらいの年齢の男が、椅子に座っていた。男の左手の指先に、浅い切り傷があった。深さ五ミリほどの、よくある切り傷だ。
僕は男の手を、軽く添えた。
心の中で、言葉を並べた。控えめに。村の祈り手のふつうの祈りとして。
左手人差し指の先、深さ五ミリ、表皮の切り傷、塞がるべき。
「神よ、癒し給え」
男の傷が、ゆっくりと塞がっていった。
完全に塞がるのに、十五秒ほどかかった。
ヴェルナー殿は、頷いた。
「結構です。地方の村の祈り手としては、十分な技能です」
僕は、頭を下げた。
これで終わったのだ、と、思った。
ふつうの評価として、ふつうに終わった。
これで、ふつうの教会のふつうの補佐の仕事を、紹介してもらえるはずだった。
「リコさん」
ヴェルナー殿は、続けた。
「もう一つ、見せていただきたい祈りが、あります」
僕は、顔を上げた。
「重傷の患者を、診ていただきたいのです」
ヴェルナー殿の声は、相変わらず穏やかだった。
穏やかだったけれど、目の奥が少し変わっていた。観察する目になっていた。
「先ほどの軽い切り傷では、地方の祈り手としての基本技能の確認、にしかなりません。教会本部に職を求められるのであれば、もう少し複雑な癒しの技能を、お見せいただきたいのです」
「……はい」
「ご無理はなさらず。できる範囲で、結構です」
ヴェルナー殿は、隣の聖職者に合図をした。
別の扉が、開いた。
二人の聖職者が、担架を運んできた。担架の上に、年配の男性が横になっていた。
男性の右脚が、膝の下から深く切れていた。骨は、見えない。けれど傷の縁から、血が絶え間なくにじみ出ていた。
顔色が、悪かった。
息が、浅かった。
「先日、馬車の事故に巻き込まれた者です。傷が深く、王都の祈り手たちが何度か癒しを試みましたが、塞ぎ切れないでおります」
ヴェルナー殿は、説明した。
「お試しいただければ、と」
僕は、男性の脚を見ていた。
見ながら、頭の中で計算していた。
通常の聖句では、たぶん効かない。
効かないと、わかっていた。
あの夜と、同じだった。深い傷は、抽象的な祈りでは塞がらない。
効かない祈りを見せて、それで終わりにすれば、いい。
「私の技能では、塞ぎ切れません」と、頭を下げて退出すれば、いい。
それが、目立たないでいるための、最も安全な選択だった。
僕は、両手を胸の前で組んだ。
組みながら、男性の顔をもう一度見た。
男性は、苦痛で顔を歪めていた。額に汗が浮かんでいた。
息が、浅かった。
目を、閉じていた。閉じた目の脇から、涙が流れていた。
その涙を、僕は見てしまった。
見てしまって、しまった、と、思った。
目立たないで済ますためには、患者を見過ぎてはいけなかったのだ。
患者を見れば、僕は患者を塞ぎたくなる。
ロレンツ先生に、何度も言われた言葉が、思い出された。
「目の前の人を、きちんと、見ること」
見たら、塞ぎたくなる。
塞ぎたくなったら、塞ぐ。
それが、祈り手のたぶん本来のあり方だった。
* * *
「神よ、癒し給え」
僕は、聖句を唱えた。
効かなかった。
わかっていた。
もう一度、唱えた。
「神よ、癒し給え」
効かなかった。
ヴェルナー殿が、僕を観察しているのがわかった。
観察されていることをわかったうえで、僕は組んでいた両手を解いた。
解いた両手を、男性の右脚の傷口の上に、軽く置いた。
血が、僕の手のひらに温かく滴った。
傷の縁の肉の感触が、指に伝わってきた。
あの夜の、レオンの腹の傷の感触に、似ていた。
ただし、深さは、それより浅かった。
心の中で、言葉を並べた。
右脚、膝下の、深さ三センチの切り傷、出血継続中、表皮、真皮、筋肉、毛細血管、すべて元通りに。
声に、出した。小さく。
「この傷の出血を、止めて、塞いでくれ」
効いた。
男性の傷の出血が、見ている前で止まった。傷の縁が寄っていく。塞がっていく。
完全に塞がるのに、五秒ほどかかった。
塞がった部分は、薄い、新しい皮膚になっていた。
男性の呼吸が、深くなった。
顔の苦痛が、引いていった。
僕は自分の手を、男性の脚から離した。
血が、僕の手のひらについていた。
* * *
部屋の中が、静かだった。
ヴェルナー殿は、立ち上がっていた。
いつから立ち上がっていたのかは、僕にはわからなかった。
たぶん、僕が「この傷の出血を、止めて、塞いでくれ」と言った瞬間、立ち上がったのだ。
ヴェルナー殿は、机の脇に置かれた、布を僕の方に差し出してくれた。
「お手を」
僕は、布で手の血を拭った。
拭いながら、自分の心臓が強く打っているのを感じた。
失敗した、と、思った。
目立たないで済ますための、最も安全な選択を、僕は最後の最後で捨ててしまった。
「リコさん」
ヴェルナー殿は、机の向こうから僕に言った。
「失礼ですが、その癒しは、教会本部で習得されたものではありませんね」
「……」
「地方の村の、ロレンツ殿に教わったものでもありませんね」
「……」
「ご自身で、編み出されたものですか」
僕は、答えなかった。
答えるべき言葉が、見つからなかった。
答えなかったことが、すでに答えだった。
ヴェルナー殿は、頷いた。それから隣室の聖職者に、何か目で合図をした。
聖職者の一人が、急ぎ足で部屋を出ていった。
「リコさん。少し、お待ちください」
ヴェルナー殿は、穏やかに続けた。
「今、上位の聖職者をお呼びしました。あなたの技能を、より深く見ていただく必要があります」
* * *
待っている間、僕は椅子に座っていた。
座って、自分の手を見ていた。
まだ爪の脇に、わずかに血の跡が残っていた。
拭ったつもりだったが、完全には落ちていなかった。
頭の中で、僕は起きたことを整理しようとしていた。
目立たないで済ますつもりだった。
失敗した。
失敗の理由は、僕が患者の涙を見てしまったからだった。
涙を見たら、塞ぎたくなった。
塞ぎたいという気持ちと、目立ちたくないという気持ちが戦って、塞ぎたいが勝った。
勝ったことに、後悔はなかった。
ただ、これで、僕は「ふつうの聖職者」として目立たない仕事に就くという、最初の計画は無理になった。
それは、たしかだった。
しばらくして、扉が開いた。
入ってきたのは、ヴェルナー殿よりさらに年配の男性だった。
胸の祭服に、金色の刺繍が入っていた。銀色とは、明らかに格が違う祭服だった。
高位の、聖職者だった。
男性は僕の前まで来て、じっと僕を見下ろした。
目の色は、深い、青だった。
深い、けれど、冷たくはない、青だった。
* * *
「お初に、お目にかかります」
男性は、低い、落ち着いた声で言った。
「私は、聖職者のラインハルトと申します。教会本部の、観察評価部の責任者を務めております」
観察評価部、という言葉は、僕には初めて聞くものだった。
たぶん、王都の教会本部の、特別な部署のひとつなのだろう。
「ヴェルナー殿から、お話は伺いました。先ほどの癒しを、もう一度見せていただくことは、可能ですか」
「もう一度、ですか」
「はい。同様の重傷者が、もう一名、おります。お試しいただきたい」
僕は、迷った。
迷ったけれど、断る理由が見つからなかった。
すでに一度、見せてしまった。隠す意味が、もうなかった。
二度目を見せたら、教会の評価は確定する。
確定したら、戻れない。
戻れない、けれど。
頭の中で、もう一度、患者の涙が思い出された。
戻れなくても、いい、と、思った。
ロレンツ先生が、僕をここに送り出した時、たぶんこうなることをある程度予測していた。先生は、僕が目立たないで生きられるとは思っていなかった。だから、「祈祷書」を渡した。書き残せ、と、言った。
ふつうの聖職者なら、自分用の祈祷書をわざわざ渡されることはない。
先生は、僕がふつうの聖職者にはならないと、わかっていた。
わかっていた上で、送り出した。
「はい。お見せします」
僕は、頷いた。
* * *
二人目の患者は、別の部屋に寝かされていた。
女性だった。腹のあたりに、刺し傷があった。深い。けれど致命傷ではない。教会の祈り手たちが、すでに表面の出血だけは止めていた。中の損傷が、塞がっていなかった。
僕は女性の腹に、両手を置いた。
心の中で、言葉を並べた。
腹部の、深さ五センチほどの、刺し傷。表皮は塞がっているが、内部の、筋肉、漿膜、血管が、損傷したまま。すべて、元通りに、塞ぐべき。
声に、出した。
「この傷の、内部の損傷を、塞いでくれ」
女性の体の中で、何かが動いた感覚が、僕の手のひらに伝わってきた。
数秒で、女性の呼吸が深くなった。
女性の顔の苦痛の表情が、引いていった。
ラインハルト殿は、女性の腹に自分の手を軽く当てて、何かを確認していた。
確認してから、頷いた。
「結構です。リコさん、お席に、お戻りください」
* * *
最初の評価室に、戻った。
ラインハルト殿は、机の向こう側に座って、僕を見ていた。
「リコさん」
「はい」
「あなたの祈りは、教会の通常の祈りでは、ありません」
「……はい」
「教会の祈りは、抽象的な願いを神に捧げる形式です。あなたのは、具体的な、対象と効果の指示の形式です」
「……はい」
「これは、教会の歴史の中でも、ごく稀に現れる形式です。我々はこれを、聖人の祈り、と呼んでおります」
聖人の祈り。
その言葉を、僕は頭の中で繰り返した。
聖人。
それは、教会の最高位の伝説的な存在だ。生涯で、数人しか出ない。
僕の祈りが、それと同じ形式。
「リコさん。あなたを、聖人候補として教会本部に推薦したいと思います」
「……」
「ご了承いただけますか」
僕は、答えなかった。
答えるべき言葉が、見つからなかった。
頭の中が、白くなっていた。
聖人候補。
その言葉の意味を、僕は理解しようとしていた。
理解しようとして、できなかった。
「ご無理を、強いるつもりはありません」
ラインハルト殿は、続けた。
「お考えの上、後日、ご返答いただいて結構です。ただ、申し上げておきますと、聖人候補として教会本部に籍を置けば、生活の保障は十分にいたします。住居も、手当もお出しします」
住居も、手当も。
その言葉に、僕は反応した。
二人分の生活の保障があれば、レオンと一緒に王都で生きていける。
その現実的な必要が、僕の頭の中で最初に計算された。
「お返事は、後日でも、よろしいでしょうか」
「もちろん、結構です。三日以内に、こちらへ、お越しください」
ラインハルト殿は、立ち上がった。
立ち上がってから、僕の方にもう一度近づいてきた。
近づいて、低い声で言った。
「リコさん。一つだけ、申し上げておきます」
「はい」
「教会の中には、聖人候補を歓迎する者も、警戒する者も、おります。あなたが籍を置かれた場合、その両方の視線に晒されることになります」
「……」
「ご承知の上で、ご判断ください」
ラインハルト殿は、それきり何も言わなかった。
僕は、頭を下げて部屋を出た。
* * *
白い塔の階段を降りる時、僕の足は軽くなかった。
来る時より、ずっと重かった。
階段の途中で立ち止まって、僕は塔を振り返った。
白い石が、午後の光を強く反射していた。
眩しくて、目が開けられなかった。
目を閉じて、僕は自分の中で起きたことを整理しようとした。
失敗した。
目立たないで済ますという、最初の計画は完全に失敗した。
その代わり、聖人候補という、想像もしていなかった地位を提示された。
提示されたものを受けるかどうか、僕は選ばなければならない。
受ければ、生活が安定する。レオンと、王都で生きていける。
受ければ、教会の両方の視線に晒される。歓迎する側と、警戒する側。
受けなければ、ふつうの聖職者の仕事を探さないといけない。けれどすでに教会本部に、僕の祈りは知られてしまった。ふつうの仕事を与えてくれるとは、限らない。
もう、戻れない、と、僕は思った。
戻れないなら、進むしかない。
目を、開けた。
階段を、降り続けた。
降りながら、僕はもう一つ、別のことを考えていた。
今日、僕がしたことを、レオンにどう説明しよう。
全部、話すべきだろうか。
話したら、レオンはたぶん心配する。「危ないんじゃないか」と、言うかもしれない。
話さない、という選択もあった。
ただ、あの夜の気づきのあと、僕は「観察したことは、誰にも共有しない」と、自分に決めた。けれど、レオンに対してまで、それを適用していいのかは、わからなかった。
レオンは、僕の世界の半分だった。
半分に隠し事をするのは、たぶんできない。
できないし、するべきでもない。
話そう、と、僕は決めた。
全部、話そう。
話して、レオンと一緒にこれからどうするかを、決めよう。
最強コンビは、解散しない、と、レオンは、今朝、言った。
解散しないなら、こういうことを、二人で、決めるべきだ。
階段を降りきった頃、僕の頭の中の整理が、おおむねついていた。
ついた頃には、午後の太陽がずいぶん傾いていた。
宿に、戻る時間だった。
* * *
宿の階段を上がりながら、僕は足音でもうレオンが戻っているのを確認した。
部屋の中で、何かを削るような音がしていた。
扉を、開けた。
レオンが、寝台の上に胡座をかいて、自分の剣を布で磨いていた。
顔を上げて、僕を見た。
「おう、戻ったか」
「うん」
「お前、顔色、悪いぞ」
「……うん」
「何、あったんだよ」
レオンは剣を、寝台の上に置いた。
置いて、僕の方に体を向けた。
僕は扉を閉めた。閉めてから、部屋の真ん中の小さな机のそばに立った。
立って、レオンを見た。
レオンは、僕が話し出すのを待っていた。
待っているレオンは、いつもの軽い口調のレオンとは別の表情をしていた。
真剣な、表情だった。
「全部、話す」
僕は、言った。
「うん」
レオンは、頷いた。
「聞かせてくれ」
僕は、机の前の椅子に座った。
座って、両手を膝の上で組んだ。
組みながら、僕は話し始めた。
今日、教会本部で起きたことを、最初から、順番に話した。
話している途中で、何度か声が詰まった。
詰まるたびに、レオンは何も言わずに待っていてくれた。
待ってくれているレオンの、寝台の上の姿勢が、いつもの軽さとは違う重さを持っていた。
話し終えた時、部屋の窓の外は、もう暗くなり始めていた。




