第四章 王都での、最初の数日
城門を、くぐった。
くぐった瞬間、音が、変わった。
街道を歩いている時の音は、足音と、風の音と、たまに通りかかる馬車の音だけだった。
城門の内側は、別の世界だった。
無数の足音、馬の蹄の音、車輪の音、商人の呼び込みの声、子供の泣き声、犬の吠え声、鍛冶屋の金属の音、誰かが歌っている声、誰かが怒鳴っている声。それらが全部、同時に耳に入ってきた。
僕は、立ち止まった。
立ち止まったまま、しばらく動けなかった。
頭の中の、音の処理が、追いつかなかった。
村にいた頃、僕は目の前の音を、一つずつ識別する習慣だった。鳥の声、風の音、誰かの足音、誰かの咳。それぞれを頭の中で、ラベルを貼って整理していた。
ここでは、それができなかった。
音が、多すぎた。
「リコ、ぼーっとすんな」
レオンが僕の肘のあたりを、軽くつかんで引っ張った。
「人の流れ、止めると邪魔になる」
「うん」
僕は言われるまま、レオンに引っ張られて、城門の内側の、広場の端に移動した。
移動して、もう一度、周りを見た。
城門のすぐ内側に、広い広場があった。広場には馬車が何台も駐まっていた。荷下ろしをしている人たち。検査をしている役人。それを待っている商人。広場の周りには店が並んでいた。商店、両替屋、宿屋、食堂。
全部が、村の規模の十倍か、百倍か、それ以上の密度だった。
「とりあえず、宿探そうぜ」
レオンはすでに行動を始めていた。
「夜になる前に、寝るとこ確保しないと、まずい」
「うん」
僕は頷いた。レオンの判断は、いつも早かった。
考えるより先に、足が動く男だった。
その早さについていくのが、僕の役目だ、と、僕は思った。
* * *
宿屋を、三軒、まわった。
最初の宿は、城門の真正面の、一番大きな建物だった。立派な看板に、金細工の装飾がついていた。
扉を開けて中に入った瞬間、絨毯の柔らかさで、僕は足が止まった。村の教会の土間しか知らない足にとって、絨毯というのは、地面が消えたような感触だった。
受付にいた、上等な服を着た男が、僕とレオンを、上から下まで見た。
見た後、男はほんの一瞬、目を細めた。
その目の動きは、街道ですれ違う人たちの目の動きと、同じだった。
軽蔑か、無関心か。あるいはその両方が、混ざったもの。
「いらっしゃいませ。お部屋は、おいくつ、ご入用で」
「二つ」
レオンが答えた。
「二人部屋お一つ、ではなく」
「いや、別の部屋で、二つ」
「かしこまりました。一泊、お一人様、銀貨二枚でございます」
レオンが、口の動きを止めた。
止めたまま、しばらく男を見ていた。
「……二枚? 一枚じゃなくて?」
「銀貨二枚、でございます」
「あー、そう。じゃあ、また」
レオンはそれだけ言って、僕の腕をつかんで宿屋を出た。
出てから、宿屋の壁の角を曲がるまで、僕たちは無言で歩いた。
角を曲がってから、レオンは立ち止まって、額を片手で覆った。
「銀貨二枚、リコ」
「うん」
「俺らの全財産、ぜんぶで銀貨二十枚くらいだぞ」
「うん」
「五日泊まったら、終わる」
「うん」
「あの宿、無理」
「うん」
二軒目は、もう少し小さい宿だった。一泊一人、銀貨一枚と銅貨五枚。それでも、高かった。
三軒目は、城門から少し離れた、裏通りに入ったところにあった。看板も、傾いていた。建物も傾いている、ようにすら見えた。
扉を開けて中に入ると、煙と、酒と、汗の混ざった匂いがした。
受付にいたのは、髭を生やした、太った女性だった。
「お部屋、よ? 二人?」
「うん」
「相部屋なら、銅貨八枚。一人部屋ふたつなら、銀貨一枚」
レオンが、僕の方を見た。
目で、訊いてきた。
僕は、頷いた。
「相部屋で」
「はいよ。三階の、一番奥。鍵、なくしたら、銀貨一枚もらうからね」
「気をつける」
女性は、鉄の鍵を渡してくれた。
階段を上がりながら、レオンがぽつりと言った。
「お前、よかったのか」
「うん」
「相部屋だぞ。同じ部屋で、寝るんだぞ」
「うん」
「気にならないのか」
「街道で、毎日、同じ毛布の隣で、寝てたじゃない」
「あー、それな」
レオンはそれで納得したらしかった。
納得した後で、ぽつりと付け加えた。
「まあ、お前と離れるのも、なんか、嫌だしな」
階段の踊り場の薄暗い灯りの中で、僕はその言葉を聞いていた。
聞いていた、けれど、すぐに返事を返せなかった。
返事を返さないでいる僕を、レオンは振り返らずに階段を上がっていった。
返事を、返さなくて、よかったのかもしれない。
返事を返したら、僕の声が、たぶん、震えていた。
* * *
部屋は、狭かった。
寝台が、二つ置いてあった。寝台と寝台の間は、人が一人ぎりぎり通れるほどの幅しかなかった。寝台の足元の側に、小さな机と、椅子がひとつずつ。窓は煤で汚れていた。窓を開けると、隣の建物の煉瓦の壁が目の前にあった。
「狭いな」
「うん」
「でも、寝るには、足りる」
「うん」
レオンは自分の荷物を、奥側の寝台の上に置いた。
僕は手前側の寝台の上に、自分の荷物を置いた。
ロレンツ先生から渡された、黒い革表紙の祈祷書を、机の上に置いた。
その瞬間、机の上に、村の匂いが立ち上がった気がした。
革と、麦の粉と、火の匂い。
もちろん、本当に匂いがしたわけではない。心象を描けない僕の頭は、匂いの記憶も、たぶん、そう鮮明には、再現しない。けれど、机の上に、祈祷書を置いた瞬間、村のことが、頭の中に、戻ってきたのは、たしかだった。
レオンも、自分の荷物の中から、何か取り出して、奥側の寝台の脇の、小さな棚に置いた。
石だった。
手のひらに収まる大きさの、滑らかな、灰色の石。
「それ、何?」
僕は、訊いた。
「先生から、もらった」
「えっ」
「出発の朝、こっそり渡された。お守りだって」
レオンは、少し、照れたように笑った。
「忘れないように、これ、寝るとこに置いとけって」
「そう」
僕は、自分の荷物を見直した。
ロレンツ先生からは、祈祷書と、貯えしか、もらっていないはずだった。
けれど、念のため、革袋の底を確認した。
底に、布で包まれた、小さなものが入っていた。
布を、開いた。
石だった。
レオンが棚に置いたのと、同じ大きさの、滑らかな、灰色の石。
形だけ、わずかに、違っていた。
たぶん、教会の裏の、井戸のあたりで、よく見かけた石だ。
「リコ、お前にも、入ってたか」
レオンは、僕の手の中の石を見て笑った。
「そっか。先生、ちゃんと、二人にだな」
「うん」
僕はその石を、机の上の、祈祷書の隣に置いた。
レオンの寝台の脇の石と、僕の机の上の石が、それぞれ、別の場所に、置かれた。
離れて置いてあるけれど、二つは、たぶん、対のものだった。
* * *
翌日から、二人で王都の中を歩き回った。
最初の数日は、街そのものを把握することに使った。
王都は、大きく四つの区画に分かれていた。
中央の、王宮と教会本部のある区画。そこは、貴族と、高位の聖職者と、王族だけが立ち入れる場所だった。一般人は、近づけない。
その周りに、中流の区画。商人や、職人や、騎士団の中堅以下が住む場所。建物が立派で、通りも清潔だった。
その外側に、雑多な区画。一般の労働者や、宿屋や、市場がある場所。僕たちが泊まっている宿は、ここにあった。
さらに外側、城壁の内側ぎりぎりに、もう一つの区画があった。
貧民街、と呼ばれているらしかった。
「あそこは、行かないほうがいい」
宿屋の女主人が、初日に教えてくれた。
「特に、夜は、絶対、行くな」
その忠告は、聞くべきだった。聞くべきだったのだけれど、二日目の昼、僕たちは迷って、その区画の入口あたりに入り込んでしまった。
道が、急に狭くなった。
建物の壁が、傾いていた。窓ガラスが割れたまま放置されていた。地面に、誰かが捨てたと思われる、生ゴミや、酒の瓶が散らかっていた。
すれ違う人の数が、急に減った。
減った代わりに、すれ違う人の目つきが変わった。
獣の目、というのが、適切な表現か、わからない。けれど、それに近かった。
じっと、こちらを見てくる。
見ていることを、隠そうとしない。
「リコ」
レオンが、低い声で言った。
「何?」
「黙ってついてこい」
レオンの足が、速くなった。
僕は、ついていこうとした。
ついていこうとして、つまずいた。地面に何かのゴミが転がっていて、それに足を引っ掛けた。
よろめいた僕の腕を、レオンがつかんだ。
つかんで、ぐい、と引き寄せた。
強い力だった。
引き寄せられた僕は、レオンの体のすぐ横に立った。
レオンは、自分の外套の左の端を、片手でぐいっと開いた。開いた外套の中に、僕を半分入れるような形で引き込んだ。
肩がレオンの胸の側面に当たった。
レオンの、革鎧の、硬さが、感じられた。
革鎧の隙間から、レオン自身の、体温が、伝わってきた。
レオンの腕が、僕の肩を後ろから抱えるように回された。
体が、密着していた。
密着の度合いが、子供の頃から、何度も、レオンが僕にしてきた、肩を組む動作とは、まるで、違っていた。
今は、隠されていた。
レオンの体と、外套で、僕の体は、外から、ほとんど、見えない位置に、入っていた。
「歩け、止まるな」
レオンは、低く言った。
歩く、と言われても、密着した状態で歩くのは、思っていた以上に、難しかった。歩幅が、合わなかった。レオンが、それに合わせて、歩幅を、小さくしてくれた。
二人で、半ば、もつれるように、足を、進めた。
進めながら、僕は、息を、整えるのに、苦労していた。
息が、上手く、吸えなかった。
レオンの体温が、近かった。レオンの、心臓の鼓動が、僕の耳の、すぐ横で、聞こえていた。
別の意味で、息が、できなかった。
あいつの、と、僕は、頭の中で、整理しようとした。
あいつの、心臓の鼓動が、僕の、耳のすぐ横で、聞こえている。それは、僕とあいつの、体の距離が、二人で抱き合った時とほぼ同じくらい、近いということだ。
なるほど。
観察は、できた。
観察は、できた、けれど、観察をしている自分の、心臓の鼓動も、急速に、上がっていた。
その自分の鼓動を、レオンに、気づかれているのではないか、と、僕は、思った。
革鎧と、毛織のローブを、隔てて、二人の鼓動が、隣り合っていた。
気づかれているか、いないかは、わからない。
けれど、僕の鼓動は、止まりそうも、なかった。
* * *
貧民街の入口あたりを抜けるまで、レオンは僕を外套の中に入れたまま歩き続けた。
雑多な区画の明るい大通りに戻った時、レオンは、ようやく、僕を外套から解放した。
「ふー」
レオンは、額の汗を袖で拭った。
「悪い、急に、引っ張って」
「ううん」
「あそこ、目を付けられたら、面倒だから」
「うん」
「お前、こう、女の子みたいな顔してるじゃん。狙われるとめんどい」
レオンは、軽く笑った。
笑いながら、僕の頭を片手で、ぽんぽん、と撫でた。いつもの雑な手つきだった。
いつもの動作だった。
いつもの動作だった、はずだった。
けれど、僕の心臓は、いつもと違うリズムを、刻んでいた。
さっきの、外套の中の温度が、まだ、僕の左肩のあたりに、残っていた。
残っていた温度に、僕は、気づかない振りをした。
レオンの方も、たぶん、気づかない振りをしていた。
二人で、気づかない振りをしながら、宿の方に戻った。
宿に着くまで、僕の心臓は、完全には落ち着かなかった。
* * *
その夜、寝台に横になりながら、僕は天井を見ていた。
寝台のすぐ横に、レオンの寝台があった。
寝台と寝台の間は、人が一人ぎりぎり通れるほどの幅しかない。
暗闇の中で、レオンの呼吸の音がはっきりと聞こえていた。
レオンはもう寝ていた。寝つきが、いつもいい。一日の疲れをすぐに寝にして、回収する男だった。
僕は、寝つけなかった。
寝つけないまま、昼間のことを、頭の中で何度も反芻していた。
外套の中の、密着の感触。
革鎧の硬さ、その隙間から伝わる、レオンの体温。
心臓の鼓動が、すぐ横で、聞こえていたこと。
反芻しながら、僕は、自分の認知を、整理しようとしていた。
あれは、レオンにとっては、ただの、身を守るための動作だった。
これは、たぶん、間違いない。
レオンは、村にいた頃から、人との距離が近い。子供の頃、僕の鼻を自分の袖で拭った時の距離と、今日の外套の中の距離は、レオンの基準では、たぶん、それほど違わない。レオンにとって、近い距離は、近い距離で、ただ、それだけだ。
でも、僕にとっては、違った。
子供の頃の距離は、僕にとっても、ただの、近い距離だった。
今日の距離は、ただの、近い距離では、なかった。
いつから、違うのだろう、と、僕は、考えた。
いつから、レオンの近さが、僕にとって、ただの近さでは、なくなったのだろう。
答えは、すぐには、出なかった。
たぶん、決まった瞬間が、あったわけではない。子供の頃から、少しずつ、僕の中で、何かが、変わっていた。それを、僕が、自覚するきっかけが、必要だっただけだ。
今日、それが、自覚させられた。
自覚させられた、ということは、これからの僕は、レオンとの距離を、ただの近さとして、受け取れなくなる、ということでもあった。
それは、困ったことだった。
レオンは、これからも、平気で、僕の肩を組み、髪を撫で、頭をぐしゃぐしゃに、するだろう。
その動作のたびに、僕は、いちいち、心臓の鼓動が、上がるかもしれない。
上がった鼓動を、レオンに、気づかれないようにしないと、いけない。
気づかれたら、何が、まずいのか。
僕は、そこまで、考えて、止まった。
考えるのが、怖い気が、した。
考えるのを、棚の上に、置いておくことに、した。
最近、僕の頭の中の棚は、置いておくものが、多くなっていた。
あの夜の違和感、ロレンツ先生の意味深な言葉、自分の祈りの正体、そして、レオンとの距離の意味。
全部、棚の上に、置いてある。
いつか、降ろして、整理しなければ、ならない。
いつか、というのが、いつなのかは、僕には、まだ、わからなかった。
わからないまま、僕は、目を、閉じた。
閉じても、しばらくは、寝つけなかった。
レオンの寝息の音が、すぐ横で、規則的に、続いていた。
その音を聞きながら、僕は、いつの間にか眠っていた。
* * *
四日目の朝、僕とレオンは、宿の前で別行動を始めた。
別行動、と言っても、夕方には宿で再合流する予定だった。
レオンは、騎士団の入団試験の情報収集に行くことにしていた。試験は来週の後半に予定されていた。それまでに、試験会場と、試験の内容と、必要な装備を確認しておきたい、と、レオンは言っていた。
僕は、教会本部の職探しに行くことにしていた。
行く、と決めていたけれど、本当のところ、僕は教会本部に近づくのが怖かった。
ロレンツ先生が、王都に行ったほうがいい、と言ったのは、僕の祈りの正体を知るためだった。教会本部に行けば、何かわかるかもしれない。けれどわかった結果が、僕にとって、いいことなのか、悪いことなのか、判じかねた。
判じかねるけれど、行かないわけにもいかなかった。
レオンの稼ぎだけで、二人分の生活費をまかなうのは、無理だった。レオンが騎士団に入っても、新人の給金はたかが知れている。僕が教会本部で、何らかの仕事を得る必要があった。
「リコ」
別れる前に、レオンが僕の方を見た。
「うん」
「気をつけろ」
「何に?」
「教会のやつら、お前のこと、すげえ評価する可能性がある」
レオンはいつもの軽さの中に、少し別の重さを混ぜていた。
「お前の祈り、たぶんふつうじゃない。ふつうじゃないやつを、教会は放っておかない気がする」
「うん」
「だから、警戒しろ。すぐに、何か約束したり、しないでいい。困ったら、宿に戻ってこい」
「うん」
「それと」
レオンは、少し口ごもった。
「最強コンビは、解散しないからな」
言ってから、レオンは軽く僕の頭を片手で撫でた。
いつもの動作だった。
いつもの動作だったけれど、僕の心臓は、また、いつもと違うリズムを刻んだ。
刻んだことを、レオンに気づかれないように、僕は笑った。
「うん。行ってくる」
「おう」
二人は、別々の方向に歩き出した。
歩き出してから、僕は振り返った。
レオンも、振り返っていた。
目が、合った。
レオンが、片手を上げた。
僕も、片手を上げた。
それから、二人は別の方向に歩き出した。
今度は、振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん足が止まる気がしたから。
王都の朝の、雑多な区画の通りを、僕は一人で歩いていた。
頭の中で、これから訪れる、教会本部のことを考えようとした。
考えようとして、できなかった。
頭の中の半分以上が、まだレオンのことで占められていた。
最強コンビは、解散しない、と、レオンは、言った。
その言葉を、僕は、何度も、頭の中で、繰り返した。
繰り返すたびに、足が、少しだけ、軽くなっていく気がした。
教会本部の、白い塔が、雑多な区画の屋根の向こうに見えた。
その塔に向かって、僕は歩き続けた。




