第三章 道と、道連れ
出発の朝は、よく晴れていた。
冬の朝の空気の冷たさが、肺の奥まで届く。けれど空は雲一つなく、地平線の手前まで青が広がっていた。
教会の戸口に、村人たちが集まっていた。
マルタおばさん、トマス爺さん、子供たち、若い夫婦、行商人のヘルムートも、まだ残って見送りに来ていた。誰もが何かひと言ずつ、僕とレオンに声をかけてくれた。
「気をつけて行くんだよ」
「無理しちゃ駄目だよ」
「便りをくれよ」
「いつでも、戻ってきていいんだからね」
僕は頭を下げて礼を言うばかりだった。レオンはいつも通りの軽い口調で「うっす」「ありがとな」「飯くらい食って戻ってくる」と返していた。
ロレンツ先生は、戸口の中に立っていた。
外には、出てこなかった。
手を、振りもしなかった。
ただ、僕とレオンの、それぞれの顔を、一度ずつ、しっかりと、見た。
それで、十分だった。
長く別れの言葉を交わすことを、先生は好まない。先生にとっては、見送るというのは目で確認する、それだけのことだった。
「行ってきます」
僕は、頭を下げた。
「行ってきます」
レオンも、頭を下げた。
「行ってこい」
先生は、それだけ言った。
僕たちは、村を、出た。
* * *
村の外れまでは、麦畑の脇道を進む。
子供の頃、僕がいじめられて転がっていた、あの道だった。
あの時の砂利は、いまは霜でところどころ白く凍っていた。脇の枯れ草が霜で覆われて、朝日の中で細かく光っていた。
「ここ、覚えてる」
レオンが隣を歩きながら言った。
「うん」
「あの時のお前、すげえ細かったよな」
「今も細い」
「今は、まあ、細いけど、立てる」
「うん」
子供の頃の話を、レオンが自分からするのはめずらしかった。レオンは過去の話をあまりしない。終わったことは終わったこと、という感覚で生きているように見えた。
ただ、こうして道を歩いていると、自然と過去のことが思い出されるのだろう。
歩きながら、レオンの背中の剣の柄が、歩調に合わせてゆらゆらと揺れていた。
革鎧は、新しいものだった。村の鍛冶屋が急ぎで仕立ててくれた。前のものより少し革が硬くて、レオンは肩のあたりを何度かぐっと回していた。
「馴染ませないと」
「平気?」
「数日歩けば、馴染む」
その言い方は、本当に平気そうだった。胸と腹の傷は、まだ完全には塞がっていなかった。けれど歩く分には、支障はないらしい。
村が、背中の方で小さくなっていった。
振り返らないことに、僕は決めていた。決めたわけではないが、振り返ったらたぶん足が止まる気がした。レオンも振り返らなかった。
二人で、前だけを見て歩いた。
* * *
街道に出ると、世界が急に広くなった。
村の道は、せいぜい馬車一台分の幅しかない。街道は馬車が二台並んで通れる幅があった。両側に低い土塁があって、その先に見渡す限り平野が広がっていた。
遠くに、丘が見えた。さらに遠くに、別の丘が霞んで見えた。
空が、村にいた時より広く感じられた。
僕はしばらく、何も言わずに歩いていた。
頭の中で、見たものを言葉にしようとしていた。
空の色は、村で見ていた空の色と同じはずだった。けれど地平線の輪郭がこんなに広く見えるのは、平野が広いからだ。村は森に囲まれていたから、空も切り取られていた。今、初めて切り取られていない空を、見ている。
「リコ」
レオンが声をかけてきた。
「お前、また、頭の中で、ぐるぐる、やってるだろ」
「えっ」
「黙って歩いてる時の、お前の顔、わかるんだよ。なんかこう、字を書いてる時の顔っていうか」
レオンは僕の顔を覗き込んで笑った。
「なんか、見てるんだろ。それを頭の中で文字にしてんだろ」
「……うん」
返事をしながら、少し驚いた。
レオンが僕のことを、そんなふうに観察しているとは思っていなかった。
レオンは軽い口調で続けた。
「お前のそういうとこ、子供の頃から変わんねえよな。じっと見てて、何も言わない時、頭ん中ですげえ忙しい」
「忙しくは、ないよ」
「いや、忙しいだろ。今みたいに、空、見てる時とか」
「ただ、見てるだけだよ」
「ふーん」
レオンはそれ以上、追及しなかった。
追及しないけれど、たぶんわかっていた。
レオンは軽そうに見えて、よく見ている男だった。子供の頃から、そうだった。
* * *
二日目の昼、街道の脇の林で、レオンが急に立ち止まった。
立ち止まって、片手を僕に向けて、手のひらを突き出した。動くな、という合図だった。
「リコ、後ろに下がれ」
声を低く落として、レオンは言った。
僕は言われた通り、ゆっくりと後ろに二歩下がった。下がりながら、林の方を見た。
林の奥に、何か低い影が動いていた。
二つ。三つ。
犬のような、しかし犬ではない、何かだった。
体が、犬よりひと回り大きい。毛の色は、灰色がかった土色。歩き方が四足歩行と二足歩行の中間のような、奇妙な姿勢だった。前足が長く、地面に届いている。
「コボルト」
レオンが言った。
「群れだな。三、四匹はいる」
「逃げる?」
「いや、もう気づかれてる。逃げると、追ってくる。やっつけたほうが早い」
レオンは背中の剣を抜いた。
剣を抜く動作は、とても滑らかだった。鞘から刃が出る音は、ほとんどしなかった。
「リコ、お前は後ろにいろ。動くな」
「うん」
言われて、僕は街道の真ん中に立っていた。
立っているだけで、何もできなかった。何かしようとしても、僕には剣を持つ力もない。祈りで戦闘の補助はできる。けれど混乱の中でレオンに祈りをかけるのは、難しい。間違えると、レオンの動きを邪魔してしまう。
だから、僕はただ立って見ていた。
レオンが、林に向かって踏み込んだ。
踏み込む足音は、僕の知っているレオンの足音とは違っていた。
いつものレオンの足音は、雑で、軽い。家の中を歩いている時のレオンの足音は、いつでも、ぱたぱた、ぱたぱた、とリズムを刻んでいる。
今のレオンの足音は、ぱたぱた、ではなかった。とん、とん、と地面を確実に捉えていた。重心が、低かった。
別の生き物の足音、のようだった。
最初のコボルトが、レオンに向かって飛びかかってきた。
レオンの剣が横に振られた。
横に振られた剣は、コボルトの首の根元に入った。コボルトの動きが止まった。地面に落ちた。
二匹目が、左から来た。
レオンは振った剣をそのまま引き戻すような形で、左から来た二匹目の胴を薙いだ。
二匹目も、地面に落ちた。
三匹目は、レオンの背後から回り込もうとしていた。
レオンは振り向きざまに、剣の柄頭で三匹目の頭を強く打った。コボルトの頭蓋が鈍い音を立てた。三匹目も動かなくなった。
全部で、たぶん五秒ほどの出来事だった。
四匹目はいなかった。三匹で群れの全部だったらしい。
レオンは剣を地面に突き立てて、息を整えていた。
息は、それほど上がっていなかった。
僕は立ったまま、見ていた。
言葉が出てこなかった。
レオンが戦うところを、僕は初めて、間近で見たのだ。
子供の頃、棒を振っていたレオンを、僕は何度も見ていた。あの棒振りの動作の延長線上に、いまの剣の動作があった。けれど、棒振りといまの剣は別物だった。
棒振りは、形を覚える動作だった。
いまの剣は、命を奪う動作だった。
奪う動作のレオンは、いつものレオンと別人だった。
どちらもレオンだ、と、僕は考えた。
考えながら、僕の頭の中では、別の観察が並んでいた。
レオンの動きは、たぶん人間の通常の動作の速度を超えていた。剣を振る速度、足を運ぶ速度、振り向く速度。どれも僕が見たことのある、村の若い男たちの動きより速かった。
ロレンツ先生が以前教えてくれたことが、頭の中で繋がった。冒険者は戦闘中の集中状態で、祈りの力による身体強化を無自覚に使う。レオンはたぶん、それをいま使っていた。本人はたぶん、意識していない。
レオンの体は、レオン自身が思っているよりも、ずっと特別だ。
その観察を、僕は頭の中の棚に置いた。
いつか、考えるべきこと、として。
「リコ、平気か」
レオンが剣を拭いて鞘に納めながら、僕を振り返った。
「うん」
「驚いた?」
「うん」
「言うほど、すごくないぞ。コボルトは、弱い」
「……」
「ワーウルフは、これの十倍くらい強い」
レオンが軽く笑った。
笑いながら、自分の腹のあたりを軽く叩いた。傷の場所だった。
「だから、油断すると、ああなる」
「うん」
僕は頷いた。
頷きながら、僕は、レオンの腹のあたりに、自分の手を、重ねたい、と、思った。傷の上に自分の手を置いて、塞ぎきっていない傷の縁を、もう一度、確かめたかった。
けれど、街道の真ん中では、それを、しなかった。
レオンも、僕の視線に気づいた様子はなかった。
* * *
その夜、街道脇の小さな空き地で、野営をした。
冒険者なら街道の宿場に泊まるところだが、僕たちはそこまでの余裕がなかった。先生から渡された貯えと、レオン自身の貯えは、王都到着後の生活のために、極力減らしたくなかった。
幸い、街道沿いには、こうして野営できる空き地が定期的に整備されていた。商人や冒険者が何代も使ってきた跡地だ。地面が踏み固められていて、焚き火の跡も残っていた。
レオンが、火を起こした。
僕はレオンが起こした火に、教会から持ってきた、僕自身の祈りで明かりを添えた。手のひらの上に淡い黄色の光を灯して、レオンが薪を組む様子を照らした。
「便利だな、お前のそれ」
「うん」
「俺、火打ち石なくしたら詰むけど、お前はなくならないもんな」
「火打ち石も、持ってきたほうが、いいよ」
「持ってる、持ってる」
レオンは笑いながら火を大きくしていった。
乾いた枝が、次々と火に投げ込まれていった。
火が安定すると、レオンは自分の毛布を地面に広げた。広げてから、僕の毛布も広げた。
毛布の位置が、僕の予想より近かった。
二枚の毛布の縁が、わずかに重なる位置に、レオンは僕の毛布を敷いた。
「近くない?」
「夜は冷えるんだぜ。離して敷いたら、凍える」
「そう」
「不満か」
「いや」
「じゃあ、そう」
レオンはそれで話を打ち切った。
打ち切ってから、毛布の上に腰を下ろして、革袋から夕食用のパンと、干した肉を取り出した。
僕も自分の革袋から同じものを取り出して、レオンの隣に座った。
肩と肩の間が、握りこぶし一つ分ほどの距離だった。
火が、ぱちぱちと爆ぜていた。
しばらくは、二人とも無言でパンを噛み、肉を噛んでいた。
しゃべるより食べることのほうが、優先だった。一日中歩いた後の腹は、想像以上に空いていた。
食べ終わってから、レオンが口を開いた。
「リコ、お前さ」
「うん」
「俺がコボルトと戦ってる時、なんかすげえ見てたよな」
「うん」
「どんな顔してたか、知ってるか」
「知らない」
「めっちゃ真剣だった」
レオンは笑った。
「お前のそういう顔、初めて見た」
「……そう」
「なんか、いいな、と思った」
いいな、と思った、というレオンの言い方が、ふだんの軽さの中に、少しだけ別の重さを混ぜていた。
僕はその重さを、素直に受け取れなかった。受け取ろうとすると、自分の顔が熱くなりそうな気がした。
だから、別のことを言った。
「君のほうが、すごく、見ていられた」
「俺?」
「うん。剣を、振っているところ。子供の頃の、棒振りと、繋がっていた」
「あー、棒振り、覚えてんのか」
「覚えてるよ」
「あれ、本当はすげえ恥ずかしかったんだぞ」
「えっ」
「だって、棒だぜ。剣じゃなくて、棒だぞ。一人で振ってる、ガキだぞ」
「みんな、すごいって、言ってた」
「あれは、お前が俺をかばって言ってくれてたんだろ」
「えっ」
「マルタおばさんとかにさ、レオン、剣士みたいだね、って言ってもらうたびに、お前、横ですごく満足そうだったろ。あれ、お前が、おばさんに頼んでたんだろ」
心臓が、跳ねた。
レオンに、気づかれていた。
子供の頃、僕は、本当に、村のおばさんたちに、こっそり、頼んでいたのだ。レオンが棒を振っているのを見たら、褒めてあげてください、と。レオンは、棒振りを、本当は、恥ずかしがっていることに、僕は、気づいていた。だから、村中を巻き込んで、レオンが、恥ずかしくない仕組みを、作っていた。
そのことを、レオンは、知っていた。
いつから、知っていたのだろう。
「いつから、知ってたの」
「最初から」
レオンはこともなげに言った。
「マルタおばさんが、お前に頼まれた、って、その日のうちに俺にばらしたから」
「えっ」
「リコちゃんが、レオン、棒振り、すごい、すごい、って言って、って頼んできたよ、って」
僕は、口を、開けた。
開けたまま、何も、言えなかった。
マルタおばさん、と、心の中で、呟いた。
あの、にこにこ笑いながら卵をくれる、おばさん。
知っていたのか。
ばらされていたのか。
全部、ばれていたのか。
「お前、いま、すげえ間抜けな顔してる」
レオンは声を出して笑った。
声を出して笑うレオンは、めずらしかった。子供の頃から、レオンは笑う時、大体、にやっと片頬で笑う。声を出して笑うのは、よほど楽しい時だけだ。
レオンの笑いが収まってから、レオンは続けた。
「あの時、俺、すげえ嬉しかったんだよ」
「うん?」
「お前が、そんなことしてくれてるって、知って」
「……」
「だから、棒振り、もっと続けようって思った。続けたから、剣を、振れるようになった。お前が、俺を、剣士にしてくれたんだよ」
「それは、違う」
「違うけど、俺の中ではそう」
レオンは、火を、見ていた。
火に照らされたレオンの横顔は、いつもの軽い口調のレオンとは別の表情をしていた。
僕は、何も言えなかった。
言えないまま、レオンの隣で、火を見ていた。
レオンが、僕を、剣士にしてくれた、と、言った。
僕は、レオンを、剣士にしてくれた、と、レオンは、言った。
たぶん、これは、同じことだ、と、僕は、思った。
ロレンツ先生が、子供の頃に言っていた、「役目を二人で分ける」という言葉の、本当の意味は、こういうことだったのかもしれない。
* * *
夜が、深くなった。
火が小さくなっていた。レオンは自分の毛布の中に潜り込んでいた。僕も自分の毛布に潜り込んだ。
毛布の縁が、重なっていた。
毛布越しに、レオンの体温が伝わってきた。
寒くは、なかった。
冬の夜の、屋外なのに、寒くなかった。
火のせいだけでは、なかった。
「リコ」
レオンが目を閉じたまま言った。
「うん」
「お前、寝るとき、いつもすげえ静かだな」
「うん」
「呼吸の音が、ほとんど、しない」
「そう?」
「うん。だから、たまに心配になる。お前、ちゃんと生きてるかなって」
「生きてるよ」
「知ってる」
レオンはそれから、自分の手を毛布から出した。
出した手を、僕の毛布の上に軽く置いた。
僕の腕の、肘のあたりだった。
毛布越しの、軽い重みだった。
「これで、生きてる、確認できる」
「……うん」
「これで、寝るわ」
レオンはそれきり、何も言わなかった。
しばらくすると、レオンの呼吸が深くなった。寝ついたのだ。
僕は、寝つけなかった。
レオンの手が、僕の腕の上に、置かれたままだった。
毛布越しなのに、レオンの手の重みがはっきりと感じられた。レオンの手は、僕の腕の、ちょうど肘から少し下のあたりに、安定して置かれていた。
動かしたら、レオンが起きるかもしれない。
起きたら、気まずいかもしれない。
動かさないことに、した。
動かさないでいると、僕の腕の、毛布越しの一点だけが、レオンの体温で、温かかった。残りの部分は、夜の冷気で、冷えていた。
その温度差を、僕は、観察していた。
観察しながら、別のことも、考えていた。
今夜、レオンが、僕の腕に、手を置いた。
偶然か、意図か。
レオンはふだんから、人との距離が近い。子供の頃から、平気で僕の肩を組み、髪を撫で、頭をぐしゃぐしゃにする男だった。だから毛布越しに手を置くぐらいは、レオンにとっては何でもない動作だ。
でも、今日は、戦闘の後だった。
ワーウルフに、本当に死にかけた、その傷の療養が、まだ続いている。
そういう日に、レオンが、僕の腕に、手を置いて、「生きてる、確認できる」と、言った。
たぶん、レオンも、確認したかったのだ。
僕が、生きていることを。
あるいは、自分が、生きていることを、僕の温度で、確認したかったのかもしれない。
どちらでも、よかった。
どちらでも、結局、同じことだった。
僕はしばらく、目を開けていた。
レオンの呼吸の音と、火の爆ぜる音と、夜風の音が、混ざって聞こえていた。
それらの音を聞きながら、僕はいつの間にか眠っていた。
* * *
六日間、僕たちは街道を歩き続けた。
毎日、同じような平野の景色が続いた。地形が、ほとんど変わらなかった。
ただ、人が、増えた。
最初の二日間は、街道でほとんど誰にも会わなかった。三日目から、行商人や徒歩の旅人とすれ違うようになった。五日目には、馬車が頻繁に通り過ぎるようになった。
すれ違う人の数が増えるにつれて、僕は見たことのない服装の人をたくさん見るようになった。
村では見たこともない、色鮮やかな布。きらきら光る、金属の留め具。革の靴の、複雑な形。馬具の、金細工。
全部、見たことのないものだった。
見るたびに、僕は頭の中でそれを言葉にした。色、形、質感、大きさ、用途の推測。
観察することが、楽しかった。
ただ、楽しいばかりでは、なかった。
見たことのない服装の人とすれ違うたびに、僕は自分の服装を意識した。
僕は、村で着ていた、灰色の毛織のローブを着ていた。袖と、裾がすり切れていた。色は、洗いすぎてもう薄くなっていた。
すれ違う人たちが僕をちらりと見て、目を逸らす。逸らした視線の先には、たぶん軽い軽蔑があった。あるいは、無関心があった。
その視線に、慣れていなかった。
村では、僕はロレンツ先生の弟子で、村の祈り手で、村人みんなが知っているリコだった。視線を向けられても、それは知っている人の視線だった。
今は、知らない人の視線を、初めてたくさん浴びていた。
知らない人の視線は、知っている人の視線とは、別の重さだった。
「気にすんな」
レオンが隣でぽつりと言った。
「えっ」
「服のこと、気にしてんだろ」
「……うん」
「王都に着いたら、新しいやつ買えばいいんだ。先生から預かった金、そのためのもんだろ」
「そうだね」
「俺の革鎧、新品だぞ。お前のローブだけそのままだったら、変だろ」
レオンは笑った。
「リコちゃんに、似合うやつ買おうな」
その「リコちゃん」という呼び方は、村のおばさんたちの呼び方だった。レオンがそれを真似て言ったのだ。
僕は、笑った。
笑うつもりはなかったのに、笑ってしまった。
「やめてよ、その呼び方」
「いいじゃん、リコちゃん」
「やめて」
「リコちゃーん」
「やめろ」
レオンはげらげら笑っていた。
笑いながら、僕の肩に肘をぐりぐりと押し付けてきた。
肘の硬さが、僕の肩に刺さった。痛かった。
痛かったけれど、振り払う気にはならなかった。
* * *
八日目の昼前、街道の緩やかな丘を登りきった。
登りきった瞬間、世界が開けた。
僕は、立ち止まった。
息を、止めた。
眼下に、王都があった。
城壁が、あった。高さが、村の教会の十倍ほどはありそうな、灰色の石の壁が、見渡す限りの距離を囲んでいた。城壁の中は、無数の建物の屋根が密集していた。屋根の色は、赤、茶、灰色が混ざっていた。家々の間を、白い煙がいくつも立ち上っていた。それぞれの家の、暖炉の煙だ。
城壁の中央、僕の立っている場所からまっすぐ進んだ先に、巨大な門があった。
門は、開いていた。
門の周りには、人と馬車が密集していた。城壁の外まで、列が続いていた。
城壁のずっと奥の、王都の中心と思しき場所に、白い建物がいくつか聳えていた。その中で一番高いのが、たぶん王宮だった。隣にもう一つ、塔のような形の建物が見えた。たぶん、教会の本部だった。
全部が、僕の知っている世界の規模を超えていた。
レオンも、隣で立ち止まっていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「でけえな」
最初に口を開いたのは、レオンだった。
「うん」
「想像してたより、十倍はでかい」
「うん」
「ここに、入るのか」
「うん」
「マジか」
「マジで」
言いながら、僕は、自分の足が、わずかに、震えていることに、気づいた。
怖い、ということでは、なかった。
圧倒されている、ということだった。
規模に、自分の認識が、追いついていなかった。
頭の中の言葉が、ついていかなかった。城壁の高さを、言葉にしようとして、比較対象が、見つからなかった。建物の数を、言葉にしようとして、数えきれなかった。屋根の色を、言葉にしようとして、種類が、多すぎた。
言葉が追いつかない世界に、僕は、初めて、入ろうとしていた。
レオンが、僕の肩を、掴んだ。
「リコ、行くぞ」
「うん」
「俺らはここで、騎士になるんだ。お前はここで、お前の祈りの正体を見つけるんだ」
「うん」
「最強コンビで、行くんだろ」
最強コンビ、と、レオンは、また、言った。
僕は、頷いた。
頷きながら、自分の足が、動き出すのを、感じた。
震えは、止まっていなかった。
止まっていなかったけれど、足は、動いた。
レオンの手が、僕の肩から、離れた。
離れた手の温度が、まだ、肩に、残っていた。
二人で、丘を、降り始めた。
王都の門が、近づいてきた。
近づくにつれて、城壁が、見上げる角度を、急にしていった。
第一歩は、踏み出された。
あとは、進むだけだった。




