第十章 秘密の、共有
ダンジョンから戻った夜、僕はレオンを部屋に呼んだ。
共同宿舎に夜の訪問は、本当は認められていない。けれど、僕の階の見回り役の聖職者は、すでに引き上げていた。深夜の数時間は、誰にも見つからない時間帯だった。
扉を叩く音がした。
開けると、レオンが立っていた。
訓練の汗の匂いが、まだ少し残っていた。
「呼んだだろ」
「うん。話したいことがある」
レオンは、何も訊かず、部屋に入った。机の前の椅子に、ふつうに腰を下ろした。
僕は、扉の鍵をかけた。
寝台の縁に、座った。
二人で、向かい合う形になった。
* * *
「全部、話す」
僕は、言った。
「うん」
「最初から。順番に」
「うん」
僕は、話し始めた。
あの夜のレオンの傷を塞いだ時から。神への呼びかけが効かないと、初めて気づいた瞬間。両手を組むのを解いて、傷口に直接、触れた瞬間。「誰でもいい、レオンの出血を、止めてくれ」と漏れ出た瞬間。出血が、止まった瞬間。
話している途中、レオンは、何も言わなかった。
ただ、聞いていた。
白い塔での評価、祈祷書への記録、グリゴール猊下との対面、ダンジョンでの五人目の患者で形式を捨てた瞬間まで、僕は、順番に話した。
話の最後に、僕は、自分の仮説を告げた。
「神は、たぶん、僕の祈りに、応えていない」
「うん」
「応えているのは、たぶん、神じゃない」
「じゃあ、何だ」
「わからない。けれど、言葉の具体性で、効きが変わる。形式で、効きが変わる。神への呼びかけは、効きを、わずかに弱める」
「うん」
「観察として、確実なのは、それだけ」
レオンは、しばらく、黙っていた。
黙ってから、口を開いた。
「で、お前は、それを、どうしたい」
「知りたい」
「うん」
「祈りの正体を、知りたい。神じゃないなら、何が、僕の祈りに応えているのか。それを、知りたい」
「教会本部で、調べる気か」
「うん。慎重に」
レオンは、頷いた。
頷いてから、机の上の祈祷書を見た。
「それに、書いてんのか」
「うん」
「読んでいいか」
「……読んでも、たぶん、わからないと思う」
「いいから」
僕は、祈祷書をレオンに差し出した。
レオンは、最後の数頁を、じっと見た。
読んでいるのか、字面を眺めているだけなのか、判断できなかった。
長く見ていた。
長く見てから、レオンは、祈祷書を閉じた。
「半分くらい、わからん」
「うん」
「でも、お前が、慎重に、観察してることは、わかった」
「うん」
「で、これ、誰かに見られたら、まずいんだろ」
「うん。たぶん、処分される」
処分、という言葉に、レオンは、わずかに目を細めた。
「処分って、追放か、それとも」
「わからない。ラインハルト殿は、最悪の言葉として使った」
「うん」
レオンは、また、しばらく黙った。
黙ってから、寝台の縁に座っていた僕の方に、椅子を寄せてきた。
椅子と寝台が、ほとんどくっつくほどの距離になった。
レオンの膝が、僕の膝に触れた。
「リコ」
「うん」
「お前、ひとりで抱えるな」
「うん」
「俺、半分わかんないけど、半分、わかった部分は、抱える」
レオンは、片手を、僕の膝の上に置いた。
膝の上の、僕の手の甲に、レオンの手のひらが、重なった。
重ねたまま、レオンは、低く、続けた。
「お前が、危なくなったら、俺は、騎士団でも、何でも、捨てる」
「えっ」
「お前を守るほうが、優先だ。最強コンビなんだから」
心臓が、跳ねた。
跳ねた心臓を、レオンに、気づかれているかは、わからなかった。
手の甲のレオンの手のひらの感触が、街道の野営地の毛布越しの手や、貧民街の外套の中の密着とも、また違う質感だった。
もっと、確かな、重さがあった。
「君は、騎士になりたい」
「うん」
「捨てないで」
「捨てる必要があるかどうかは、その時、判断する」
レオンは、頷いた。
「とにかく、俺は、お前の側に立つ。そう決めただけだ」
僕は、頷いた。
頷きながら、自分の手の甲のレオンの手の重みを、感じていた。
* * *
その夜、レオンは、結局、そのまま僕の部屋で寝た。
共同宿舎の規則違反だった。
寝台は、一つしかなかった。
レオンが、自分から、寝台の壁側に横になった。
「お前、こっち」
「えっ」
「壁側、温い。寒い側、お前にやらない」
レオンの言い方は、いつもの軽さに戻っていた。
僕は、寝台の手前側に横になった。
寝台は、二人で寝るには、明らかに狭かった。レオンの背中と、僕の背中が、ぴったり、くっついた。
レオンの体温が、布越しに、伝わってきた。
息の音が、すぐ近くで、聞こえた。
「リコ」
「うん」
「俺、お前のこと、結構、好きみたいだわ」
心臓が、止まりそうになった。
「結構、ってどのくらい」
「結構、ってくらい」
「曖昧だな」
「うるさい」
レオンは、笑った。
笑いながら、それきり、何も言わなかった。
しばらくして、レオンの呼吸が、深くなった。
寝ついたのだ。
僕は、寝つけなかった。
レオンの背中の温度を、背中越しに感じながら、目を開けていた。
レオンの「結構、好きみたいだわ」を、頭の中で、何度も繰り返した。
繰り返しながら、それが、どの種類の好きなのかは、たぶん、レオン自身も、まだ、わかっていない、と思った。
わかっていないまま、レオンは、口にした。
口にしたものを、僕は、受け取った。
受け取った、という事実だけが、確かだった。
* * *
翌朝、レオンは、夜明け前に、僕の部屋を出ていった。
誰にも見つからずに、戻れたかどうかは、わからない。
僕は、しばらく、寝台の上の、レオンが寝ていた側の、まだ温かい場所に、手を置いていた。
置いていた手のひらが、徐々に冷えていった。
冷えきった頃、僕は、起き上がって、朝の準備を始めた。
* * *
その後の日々は、表面上、平穏だった。
僕は、教会本部で、聖人候補としての日課を続けた。地下の訓練室での癒しの実習。図書室での書物の閲覧。マリアム殿との会話。
マリアム殿は、ダンジョン後の僕に、特別、何も訊かなかった。
訊かないことが、たぶん、マリアム殿の優しさだった。
ただ、ある日、控え室で二人きりになった時、ぽつりと言った。
「リコさん。あなた、ダンジョンで、また、何かしたの」
「……」
「答えなくていい。私が、訊いたのが、間違い」
「いえ」
「ただ、グリゴール猊下が、再び、あなたの祈りについて、報告書を求めている、と、噂で聞いたの」
心臓が、跳ねた。
「報告書、ですか」
「ええ。ダンジョン現場の、医療班の動きの、詳細な記録。ティモ殿と、ベルント殿にも、聴取が入った、と」
「……」
「ラインハルト殿が、観察評価部の側で、報告書をまとめて、対抗しているそうよ。教会の中で、また、揺れが、起きている」
マリアム殿は、それだけ言った。
言ってから、いつものように、自分の机に戻った。
僕は、控え室で、しばらく、座っていた。
座って、頭の中で整理した。
形式を捨てた瞬間が、目撃されている。記録されている。報告書になる。
その記録が、どの程度の正確さで、グリゴール猊下のもとに、届いているか。
ティモ殿は、僕の祈りを「効きが速かった」と褒めてくれた。けれど、聴取の場で、僕が「神への呼びかけ」を、つけたか、つけなかったか、を、訊かれたら、ティモ殿は、正直に答えるかもしれない。
ベルント殿は、寡黙だが、観察は鋭い。たぶん、五人目の時の、僕の発語を聞いていた。聞いていたとしたら、聴取で、それを、隠してくれるかは、わからない。
不安は、増した。
増した不安を、僕は、祈祷書に書かなかった。書く価値のある観察ではなかった。
書く代わりに、レオンに伝えた。
夜、レオンが、僕の部屋に来た時、その日の出来事を、すべて話した。
レオンは、頷いた。
「で、どうする」
「観察を、続ける。ただ、形式は、教会本部の中では、絶対に、捨てない」
「現場では」
「現場では、命を、優先する」
「うん。それでいい」
レオンは、それで納得した。
* * *
研究は、進んでいた。
僕は、地下の訓練室で、いくつかの試行を続けた。
神への呼びかけを、つけた時と、つけなかった時の、効きの差。具体性の度合いと、効きの相関。物理的接触の有無による、効きの変化。
全部、こっそりと試した。
試した結果を、祈祷書に書き留めた。
書き留めながら、僕は、ある仮説に近づいていった。
仮説は、こうだった。
僕の祈りは、神に届いていない。
届いているのは、別の何かだった。
その「別の何か」は、僕の言葉を、命令として受け取っている。命令の精度が高いほど、効果が、強い。形式は、命令の精度を、わずかに、下げる。
神への呼びかけは、命令ではないからだ。
神への呼びかけは、命令の前置きとしての、形式だった。前置きが長いほど、本体の命令が、薄まる。
仮説は、教会の教義に、真っ向から、反していた。
教会の教義では、祈りは「神に願う形式」が本体だった。具体性は、神への信頼の薄さ、として、むしろ、教義違反に近かった。
神への信頼が、薄いほど、効きが、強い。
これは、危険な仮説だった。
危険な仮説を、僕は、祈祷書に書き残した。
書き残しながら、これは、絶対に、誰にも、見られてはならない、と、自分に言い聞かせた。
誰にも、というのは、レオンと、ロレンツ先生は、別だった。
* * *
ある夜、僕とレオンは、共同宿舎の僕の部屋で、いつもの時間を過ごしていた。
レオンは、寝台の縁に座って、剣を磨いていた。
僕は、机の前で、祈祷書に書き加えていた。
部屋の中は、静かだった。蝋燭の火が、ぱちぱち、と爆ぜる音だけが、聞こえていた。
「リコ」
レオンが、剣を磨きながら言った。
「うん」
「お前、最近、表情、柔らかくなったな」
「えっ」
「教会本部に来た最初の頃、お前、すげえ、緊張してた。今は、違う」
「うん」
「よかった、と、思う」
レオンは、剣を磨く手を止めなかった。
止めないまま、続けた。
「ただな」
「うん」
「俺、最近補欠から、本隊に繰り上がる話が出てる」
心臓が、跳ねた。
「マジで?」
「マジで」
「いつ」
「来週か、再来週か」
本隊への繰り上がりは、つまり、レオンが正式な騎士団員になる、ということだった。
給金が、上がる。訓練の内容も、変わる。
そして、たぶん、遠征に、出される頻度も、上がる。
僕は、頷いた。
頷きながら、レオンが、王都を留守にする時間が、これから増えていく、ということを、頭の中で整理した。
「おめでとう」
「まだ、内定だけだ」
「うん」
「リコ」
「うん」
「俺、お前を残して、遠征に出るのは、嫌だ」
「……」
「でも、行く。行って、戻ってくる」
「うん」
「お前は、俺が戻るまでに、自分の祈りの正体を、見つけ続けてろ」
レオンは、剣を、鞘に納めた。
納めて、僕の方を見た。
レオンの目は、軽さの中に、確かな重さを混ぜていた。
入団試験当日の朝、緊張で剣を磨いていた時の、あの目に、似ていた。
「最強コンビ、忘れんなよ」
「忘れない」
僕は、頷いた。
頷きながら、レオンの本隊繰り上がりが、二人の関係に、新しい局面を、もたらすことを、感じていた。
それが、いつ来るのかは、まだ、わからなかった。
わからないまま、僕は、机の上の灰色の小石を握った。
石は、いつもの温度に、戻っていた。




