第一章 奇跡と、違和
あれから、十四年が経った。
僕は、二十歳になった。
ハーゼル村の祈り手の見習いとして、教会でロレンツ先生の補佐をしている。レオンは二十三歳になった。冒険者として、近隣の森で魔物を狩り、魔石や素材を村に持ち帰る生活をしている。
二人ともまだ教会で寝起きしている。先生のスープを相変わらず三人で分け合って食べている。
幼い頃に二人で誓った「最強コンビ」という言葉は、それきり口に出していない。お互い覚えているはずだとは思っている。けれどわざわざ確かめあったことはない。確かめなくてもわかる気がしていた。
いや、それは、僕の側の感覚だ。
レオンの側がどう思っているのかは、本当のところはわからない。
わからないまま、僕たちはそれぞれの役目を、それぞれのやり方で続けてきた。
* * *
朝の祈りは、夜明け前に始まる。
僕はロレンツ先生より先に起きて、教会の中を整える。床を箒で掃き、祭壇の蝋燭を新しいものに替え、井戸から水を汲んで清めの水盤を満たす。冬の井戸の水は、手の感覚が消えるほどに冷たい。けれどこれも祈り手の修行のうちだと、先生に教わった。
水盤の水が静かになったら、祭壇の前に立つ。
両手を胸の前で組む。
「神よ、照らし給え」
手のひらに、淡い黄色の光が浮かぶ。
六歳のあの日、五日かけてようやく灯した光と、本質的には同じものだ。違うのは、慣れたということだけ。今は唱えればすぐに灯るし、消そうと思えばすぐに消える。光の大きさも、自分の意思でいくらか調整できる。
この光で、祭壇の蝋燭に、火を移す。
厳密に言えば、蝋燭は別に火打ち石でも点くし、台所の竈の火を移してきても点く。けれど祈り手の朝の務めとして、自分の祈りで点した光から蝋燭の火に移す、ということになっている。儀式というのは、たぶんそういうものだ。効率の問題ではなく、形を守ることに意味がある。
蝋燭に火が灯ると、教会の中がふわっと明るくなる。
ここからが、本来の朝の祈りだ。
祭壇に向かって、頭を下げる。
「神よ、感謝いたします。今日も村に、光を、健康を、平穏を、お与えください」
声に出す。けれど、小さく。神と、自分にだけ届くように。ロレンツ先生が最初に教えてくれた約束だ。
唱え終わると、僕はしばらく目を閉じている。
神様が本当に聞いているのかどうかは、僕にはわからない。誰も見たことはない。けれど聞いていてくれているということにしておく。それが祈り手というものなのだろうと、僕は思っている。
目を開けると、教会の外はもう白み始めている。
* * *
朝食の前に、レオンが起きてくる。
起きてくる、というよりは寝ぼけたまま、教会の隅からよろよろと出てくる、と言ったほうが正確かもしれない。
「おはよ、リコ」
「おはよう、レオン」
レオンは短く欠伸をしながら井戸の方に行って、水で顔を洗う。それから僕の隣に来て、僕がスープを温めている鍋を覗き込む。
「今日も豆と根菜じゃん」
「ほかに何かあると思った?」
「ねーよなあ」
レオンはそれでも不満そうではない。豆と根菜のスープが、僕たちにとっての朝食であり、夕食であり、ほぼ全部だ。たまにレオンが森から獲ってきた肉が、夕食に乗ることがある。それは、特別な日ということになる。
ロレンツ先生はいつも、僕たちより遅れて起きてくる。最近は夜明けの祈りも、僕に任せきりになっていた。
「先生、調子どうなんだろうな」
レオンがぽつりと言った。
「最近、起きるのますます遅くなったよな」
「うん」
僕は頷いた。それ以上、何も言わなかった。先生のことを二人で言葉にすると、なんとなく形が決まってしまう気がして、それが嫌だった。
ロレンツ先生はもう、ずいぶん歳をとっている。具体的に何歳なのか、僕は知らない。たぶんレオンも知らない。先生自身もたぶん、正確には覚えていない。村の年寄りというのはそういうものだ。
最近、先生の祈りは明らかに力が落ちていた。手のひらの光は、僕のものより薄い。傷を癒す祈りも、深い傷だと効きが悪い。
それでも村の祈り手は、ロレンツ先生だ。先生が「もう務まらん」と言わない限り、それは変わらない。
僕は、見習いだ。あくまで、補佐だ。
* * *
朝食を終えると、村の人がぽつぽつと教会にやってくる。
祈り手の仕事の半分は、村人の相談に乗ることだ。傷を診てほしい、子供の熱が下がらない、畑の作物の調子が悪い、夢見が悪い、結婚を考えている相手のことで悩んでいる──そういうありとあらゆる村人の生活の悩みが、教会に運ばれてくる。
今日の最初の客は、隣の家のマルタおばさんだった。
「リコちゃん、ちょっとこれ見てくれない?」
おばさんが差し出したのは、左手の親指だった。指の腹に深さ一センチほどの切り傷ができていた。
「鎌で芋をむいてたら滑ってしまってねえ。ロレンツ先生、いる?」
「先生は、まだ起きておられないんです。僕でよければ」
「ああ、リコちゃんでも全然いいよ。むしろ、リコちゃんのほうがいいくらいだよ」
おばさんはにこにこと笑った。
村の人たちは、僕の祈りをわりと信頼してくれている。理由はたぶん二つある。一つは、僕が若いから先生よりしゃきしゃきと動けるという、現実的な理由。もう一つは、僕が子供の頃からこの村で育って村の人たちに顔を知られているから、という情緒的な理由。
祈りの効きそのものは、本当のところ僕は、先生よりむしろ低いのではないかと思っている。
心象を描くのが、苦手なのだ。
ロレンツ先生に最初に祈りを習った時、先生はこう言った。「治したい、と思う傷の様子を、頭の中に、ありありと思い描きなさい。傷が塞がる様子を、絵のように、思い描きなさい。それから、聖句を唱えるのだ」
僕は、そのとおりにしようとした。けれど、できなかった。
頭の中に、絵が、浮かばないのだ。
絵を浮かべよう、と意識しても、僕の頭の中には絵の代わりに言葉が並ぶ。「傷の場所は左手の親指」「深さは一センチ」「出血は少量」「塞がるべき」──そういう言葉の羅列が、頭の中を埋める。絵では、ない。
最初は、自分のやり方が間違っているのだと思った。何度も練習して絵を浮かべようとした。けれど何年やっても、絵は浮かばなかった。
ある時、僕はそれが「できない」のではなく「もともとそういう種類の頭ではない」のだ、と気づいた。誰かに教わったわけではない。自分で観察して、結論した。人によって、頭の中の景色というのは違うものらしい。
それをロレンツ先生に相談したことはない。なんとなく、相談すべきではない気がしていた。先生は心象を描く前提で、祈りを教えている。それができないと言うのは、祈り手として欠陥があると申告するようなものだ。
だから、僕は、自分なりの方法で、祈ることにした。
絵の代わりに、言葉を、並べる。傷の場所、深さ、塞がってほしい状態。それを心の中で、できるだけ細かく言葉にする。それから聖句を唱える。
そうすると、祈りは一応、効いた。
効いた、けれど先生のかつての祈りより、たぶん効きは弱かった。先生が若い頃どれほどの祈り手だったか、僕は直接見たことはない。けれど村の年寄りの話を聞くと、ずいぶんと評判の祈り手だったらしい。
僕はそこまでには、たぶん届いていない。
届かないまま、それでも村の小さな怪我には十分に間に合っている。だから誰もそれを問題にしない。僕も問題にしないことにしていた。
「リコちゃん?」
おばさんが僕の手の中の自分の親指を、不思議そうに見ていた。考え事をして、止まっていたらしい。
「すみません、おばさん。今、やります」
僕はおばさんの親指の傷に、自分の手を軽く添えた。
心の中で、言葉を並べる。
左手親指の腹、深さ一センチの切り傷、出血は少量、塞がるべき。表皮、真皮、毛細血管、すべて元の状態に戻すべき。
それから、声に出す。小さく。
「神よ、癒し給え」
おばさんの傷がゆっくりと塞がっていく。
完全に塞がるまでに二十秒ほどかかった。村のほかの祈り手──いまは先生しかいないけれど──ならたぶんもっと早いだろう。それでも塞がりはした。
「ありがとう、リコちゃん。助かったよ」
「よかったです」
「いつもありがとうねえ。あんたが祈り手で、村は本当に助かってるんだから」
おばさんは、頭を下げて、教会を出ていった。
僕は戸口まで見送った。それから教会に戻って、祭壇の前でもう一度頭を下げた。
神様、ありがとうございます。
心の中で、唱えた。
唱えながら、僕はぼんやりと考えていた。
神様は本当に、聞いてくれているのだろうか。
今の傷は塞がった。けれど塞いだのは、本当に神様だろうか。それとも神様の代わりに、何か別のものが僕の言葉に応えたのだろうか。
考えても、答えは出なかった。
答えが出ないことを考え続けるのは、よくない。それはロレンツ先生にも、何度か言われたことだった。考えても答えが出ないことは、神様に預けて自分は目の前のことをやれ、と。
僕はその言葉に従って、考えるのをやめた。
次の患者の準備を始めた。
* * *
午前中、僕は四人の村人を診た。
マルタおばさんの切り傷、トマス爺さんの腰の痛み、子供の熱、産み月の近い若い女性の腹の張り。最後のひとつは、僕には判断がつかなくて、ロレンツ先生に起きてきてもらった。先生は若い女性の腹を、しわくちゃの手でしばらく触ってから、「大丈夫じゃ。陣痛の準備が始まっておる、それだけじゃ」と言った。女性は安心したように、息を吐いた。
先生はそれから、自分の部屋に戻ってしまった。
「リコや」
戻る前に、先生は僕を呼んだ。
「はい」
「お前、最近、よくやっておる」
「いえ、まだ、未熟です」
「未熟は、誰でも、未熟じゃ。大事なのは、目の前の人を、きちんと見ることじゃ。お前は、見ておる」
「ありがとうございます」
「ただな」
先生はそこで、一拍置いた。
「お前の祈りには、何かが、ある」
僕は先生の顔を見上げた。
先生は僕を見ていなかった。教会の戸口の方を、ぼんやりと見ていた。
「気を、つけなさい」
それだけ言って、先生は自分の部屋に入っていった。
僕はしばらく戸口を見ていた。
何かが、ある。
何のことだろう、と思った。
先生はふだん、こういう曖昧な言い方はしない。「肩が上がっておる」とか「絵を描けるか」とか、いつも具体的に言う人だ。
その先生が「何かがある」とだけ、言った。
言いたいことがはっきりしているのに、言葉にしないでいる、という感じだった。
気をつけなさい、というのも、何に気をつけるのか、わからない。
わからないまま、僕はその日の午後の仕事に戻った。
先生の言葉は、忘れることにした。忘れるというより、棚の上に、置いておくことにした。今すぐに、答えが出る話ではない、ような気がしたから。
* * *
その日の夕方、レオンが出発の支度を始めた。
森へ、行くのだ。
最近のレオンはひと月に二度ほど、森に入る。一度の遠征で、五日から七日ほど村を空ける。狩った魔物の魔石や素材を、村の商人に売って生活費にしている。残りは貯めている。何のために貯めているのかは、レオンははっきりとは言わない。けれど僕は、わかっている気がした。
レオンは、いつか、村を出たいのだ。
幼い頃から、レオンは騎士になりたいと言っていた。村にいる限り、騎士にはなれない。騎士団は王都にある。王都に行くには、装備も、紹介状も、いる。装備は自分で稼いで揃えるしかない。
だから、レオンは稼いでいる。
僕はそれを、止めない。止めないというか、止められない。レオンが自分の道を、自分で歩こうとしているのを、僕が止める権利はない。
ただ、レオンが森に行くたびに、僕は少しだけ心臓のあたりが重くなる。
帰ってこなかったら、どうしよう。
その想像を、僕は毎回ちゃんと振り払っている。振り払わないと、見送れない。
「行ってくる、リコ」
レオンは教会の戸口で、剣の鞘を革紐で背中に固定しながら言った。
大ぶりの剣だ。村の鍛冶屋に何度か直してもらいながら、もう二年ほど使っている。剣の柄頭が、ところどころすり減っていた。
「気をつけて」
「いつも気をつけてるって」
「いつも傷だらけで帰ってくるくせに」
「あー、それな。最近減ってきてるじゃん」
レオンはにやっと笑った。
「腕、上がってきてるってことだろ」
たしかに、そうかもしれなかった。最近のレオンは、戻ってくる時の傷が確かに以前より少なくなっていた。三年前は、もっとひどかった。手足のあちこちに浅い切り傷を作って、僕がそれを片端から塞いでいた。最近は、せいぜい一つか二つあるかないかだ。
だから、今回もたぶん、大丈夫なのだろう。
たぶん。
「いつ戻る?」
「七日後ぐらい。長くて十日」
「分かった」
「あ、リコ」
レオンが戸口を出かけて、振り返った。
「今回、ちょっといいやつ狙うわ」
「いいやつ?」
「中位の魔物。ワーウルフ系の単独行動するやつ。素材が高く売れる」
僕は少し、息を止めた。
「危なくない?」
「だから、ちゃんと用心するって。逃げる準備して行くから。無理だったらすぐ引く」
「……うん」
「じゃあな」
レオンは片手を上げて、教会を出ていった。
僕は戸口に立って、レオンの背中を見送った。
レオンの背中は大きかった。子供の頃から比べたら、もう別の生き物のように大きくなっていた。背丈は、僕よりたぶん頭一つ分高い。肩幅も、まったく違う。
その大きな背中が、村の道を進んで、麦畑の脇を抜けて、森の方に向かって、小さくなっていく。
完全に見えなくなるまで、僕は戸口に立っていた。
いつものように、心臓のあたりが少し重かった。
いつものように、それを振り払った。
* * *
六日が過ぎた。
いつもなら、まだレオンが戻る時期ではない。最短で七日と、本人が言っていた。だから六日目までは、僕は特別なことを考えなかった。
考えなかった、というのは嘘かもしれない。考えないように努めた、というのが正確なところだろう。
七日目になった。
夕方になっても、レオンは戻らなかった。
帰ってくる日には、いつもレオンは夕方までに、村に着く。森から村までの道のりは、レオンの足なら半日かからない。朝、森の野営地を出れば昼過ぎには着く。日が暮れるまでに着かない、というのは不自然だった。
不自然、けれど、まだ「長くて十日」のうちだった。
僕は自分にそう言い聞かせて、夕食を食べた。スープに、レオンの分をよそった。手をつけずに、置いておいた。
ロレンツ先生はレオンの分のスープをちらりと見たけれど、何も言わなかった。
その夜、僕はなかなか眠れなかった。
* * *
八日目。
戻らなかった。
九日目。
戻らなかった。
十日目になった。
朝の祈りを終えてから、僕は教会の戸口に何度も立った。村の道の先を見ては、教会に戻り、また少し経つと戸口に立つ、ということを繰り返した。
戸口から見える麦畑の道は、空っぽだった。
昼過ぎになって、僕は戸口に立つのをやめた。やめないと、仕事にならなかった。村の人がまた相談に来ていたのだ。今日のお客は、子供の熱と、老人の咳と、若い男の手の打撲、合わせて三人。一人ずつ丁寧に診た。
診ながら、頭の片隅でずっとレオンのことを考えていた。
考えるな、と、自分に言い聞かせた。
言い聞かせるのに、失敗していた。
夕方近く、教会の戸口の方から、騒がしい足音が聞こえてきた。
複数の足音だった。誰かを運んでいる、ような音だった。
僕は診ていた老人の咳の祈りを、途中で止めた。
止めて、戸口に走った。
* * *
戸口の外に、四人の村人がいた。
四人で、一人を、運んでいた。
四人の腕の中に、レオンが、いた。
最初の一秒、僕はそれがレオンだと、認識できなかった。
顔が、半分、血で、覆われていた。額のどこかが、深く切れているらしかった。それだけではない。胸から腹にかけて、革鎧が、ずたずたに裂かれていた。裂け目から、血が、にじみ出ていた。にじむ、というよりは、滴っている。地面に、ぽつぽつと、赤い点が、続いていた。
左の上腕も、切れていた。骨まで届いているのか、判別できなかった。袖が血で黒く、重そうに垂れていた。
息は、していた。
していた、けれど、浅かった。
運んできた村人の一人が、息を切らしながら、言った。
「リコちゃん、リコ……っ、村の入口のすぐそこで倒れてた、これっ、自分で歩いて戻ってきたみたいでっ」
「先生っ」
僕は、教会の中に、叫んだ。
「先生、レオンがっ」
ロレンツ先生はもう、戸口に来ていた。先生はレオンを一目見て、目を細めた。それから低い声で言った。
「中に、運べ」
四人の村人はレオンを、教会の長椅子の上に運んだ。
長椅子は普段、説教の時に村人が座るためのものだった。今、その上にレオンが横たえられた。革鎧の裂け目から、血が椅子の木目に滲んでいくのが見えた。
ロレンツ先生は革鎧の留め具を、外し始めた。手が震えていた。
「鎧、剥がせ。リコ、傷の場所を確認しろ」
僕は言われたとおりに、鎧を剥がしにかかった。
剥がしながら、僕の頭の中で、何かが麻痺しているのがわかった。
たぶん、これが、ショックというものだ。
ショックでも、手は動いた。手だけは、動いてくれた。
* * *
革鎧を完全に剥がし終えると、レオンの胸と腹の傷が、はっきり見えた。
獣の爪痕だった。
四本の太い爪痕が、左肩から右脇腹にかけて、斜めに走っていた。深い。一番深い部分は、肋骨が覗いていた。出血は止まっていなかった。傷の縁から、絶え間なく血が押し出されていた。
レオンが本当に、自分の足でここまで歩いてきたのが信じられなかった。
額の傷もひどかった。頭蓋骨はたぶん無事だった。けれど頭皮が深く切れていた。頭の傷は、見た目よりずっと出血する。レオンの髪が血で固まっていた。
左の上腕の傷は、骨までは届いていなかった。けれど筋肉が深く切れていた。腕を動かせるかどうか、わからなかった。
「リコ、まず止血じゃ」
ロレンツ先生が僕の隣で言った。
「腹の傷から。胸はその次。頭はその後でいい」
「はい」
僕はレオンの腹の傷の、いちばん深い部分の上に、両手を組んだ。
心の中で、言葉を並べる。
胸から腹にかけての爪痕、深さ最大五センチ、出血多量、塞がるべき、肋骨が露出している部分は元通りに、内臓に届いている可能性は、ある。表皮、真皮、筋肉、すべて、元通りに、戻すべき。
それから、声に出した。
「神よ、癒し給え」
いつもより、強く、唱えた。声を、大きくした、わけではない。けれど、心の中の集中を、最大に、した。
効かなかった。
傷が、塞がる気配が、なかった。
血は、変わらず、押し出され続けていた。
もう一度、唱えた。
「神よ、癒し給え」
効かなかった。
もう一度。
「神よ、癒し給え」
効かなかった。
ロレンツ先生も、僕の隣で、唱えていた。先生の手のひらに、薄い光が、灯っていた。けれど、その光は震えていた。力が足りていない。先生の祈りも、効いていなかった。
二人で、何度、唱えても、傷は、塞がらなかった。
* * *
僕は、唱えるのを、止めた。
止めた、というよりは、声が、出なくなった。
頭の中が、白くなっていた。
神様、と、心の中で、呼んでみた。
神様、お願いです、レオンを助けてください。
返事は、なかった。
返事は、たぶん、ずっと、なかったのだ。
今までの、何百回の祈りの、その全部、返事は、なかったのだ。塞がっていた傷は、塞がっていた。けれど、それは、神様が塞いでくれたのではないのかもしれない。神様は、もしかして、いなかったのかもしれない。
いや、それは、いま、考えることではない。
いま、考えるべきは、レオンを、助けることだ。
神様が、いるか、いないか、ではない。
目の前の血を、止める方法だ。
僕は、両手の組みを、解いた。
組みを解いた両手を、レオンの腹の傷の上に、直接、置いた。
血が、僕の手のひらに、温かく、滴った。
肉の感触があった。骨の感触があった。傷の縁が、僕の指に、触れた。
触れながら、僕は、心の中で、強く、強く、思った。
神様、お願いします、レオンを助けてください。
効かなかった。
もう一度。
神様、どうか、レオンの出血を、止めてください。
効かなかった。
効かない、効かない、効かない。
神様は、聞いていない。聞いていないのか、いないのか、どちらかだ。
どちらでも、いい。
いま、神様は、いない。
いないのなら、誰かに、頼むしかない。
誰でも、いい。
僕は、レオンの傷口に、両手を、強く、押し当てた。
押し当てながら、声を、出した。
声は、小さかった。けれど、これまでのどの祈りより、はっきりと、具体的に、僕は、言葉を、組み立てた。
「誰でもいい、レオンの出血を、止めてくれ」
何かが、変わった。
僕の手のひらの下で、何かが、動いた。
血が、止まっていく感覚が、僕の指先に、伝わってきた。傷の縁が、ほんの少しずつ、寄っていく。塞がっていく。それは、いつもの祈りの効きとは、まったく、違う、はっきりとした、強い感覚だった。
数秒で、いちばん深い爪痕の出血が、止まった。
僕は、息を、止めていた。
止めていたことに、その時、気づいた。
* * *
ロレンツ先生も、僕の隣で、息を呑んだのがわかった。
先生は、何も言わなかった。何も言わずに、僕の手と、レオンの傷を、じっと見ていた。
僕は、続けた。
胸の爪痕にも、両手を移した。同じように押し当てた。同じように声に出した。
「胸の出血も、止めてくれ」
止まった。
左の上腕の傷にも、移した。
「腕の傷も、塞いでくれ」
塞がった。完全に、ではない。けれど、出血は止まった。傷口の縁は、寄っていた。
額の傷にも、移した。
「額の傷も、止めてくれ」
止まった。
四つの傷、全部の出血が止まった頃には、僕はぐっしょりと汗をかいていた。冬だというのに、汗がこめかみから顎の先まで流れていた。
レオンの呼吸は、まだ、浅かった。
けれど、止まりそうではなかった。
まだ、生きていた。
* * *
教会の中が、静かだった。
四人の村人が、戸口の近くに立ったまま、僕を見ていた。誰も言葉を発しなかった。たぶん、何を言っていいのか、わからないのだ。
最初に口を開いたのは、運んできた村人の一人、年配の女性だった。
「リコちゃん」
声が、震えていた。
「いま、いまの……奇跡だよ」
「奇跡だ」
別の村人が、繰り返した。
「先生とリコちゃんの祈りで、助かった」
先生と、リコちゃんの祈り。
その言葉に、僕は何も答えなかった。
答えるべき言葉が、見つからなかった。
「神様、ありがとうございます」
誰かが、言った。
それから、四人の村人は次々と、祭壇に向かって頭を下げ始めた。涙を流している人もいた。
レオンが助かった。
神様が、応えてくれた。
村人たちにとっては、それですべて、説明がついていた。説明がついていない部分があることに、誰も気づいていなかった。
ロレンツ先生は、頭を下げる村人たちを、ぼんやりと見ていた。
先生は、頭を、下げなかった。
ただ、僕の方を、ちらりと、見た。
僕と目が合った。
先生の目は、何かを知っているような目だった。けれど、何かを言うつもりはない、という目でもあった。
先生はすぐに、視線をレオンの方に戻した。
* * *
その夜、レオンは教会の長椅子の上で眠っていた。
呼吸は、まだ少し浅かった。けれど規則的になっていた。出血は、完全に止まっていた。傷は完全には塞がっていなかったけれど、命に関わる状態ではなくなっていた。
ロレンツ先生は先に、自分の部屋に下がっていた。村人たちもそれぞれの家に帰っていた。
教会の中には、僕と、眠っているレオンだけが、残った。
僕は長椅子のそばの、低い丸椅子に座っていた。座って、レオンの顔を見ていた。
血で固まっていた髪を、僕はぬるま湯でゆっくりと洗った。額の傷の周りも、丁寧に拭いた。レオンの顔から、血の汚れが徐々に消えていった。
レオンの顔は、子供の頃からあまり変わっていなかった。
大人になって、輪郭は少ししっかりした。顎のあたりに、薄く髭が生えていた。けれど寝顔は、子供の頃の、棒を振っていた頃のレオンのままだった。
僕は、レオンの額に、自分の手のひらを、軽く、置いた。
熱は、なかった。
よかった、と、思った。
よかった、と思いながら、僕の頭の中では、別の問いがぐるぐると回り続けていた。
あれは、何だったんだろう。
通常の聖句が、効かなかった。
神様、お願いします、と祈りの形で願っても、効かなかった。
祈りの形を捨てて、「誰でもいい、出血を止めてくれ」と具体的に言葉にした、その瞬間に、効いた。
触れていた。両手を、傷口に、押し当てていた。離れていた時には、効かなかった。
言葉が、具体的だった。「癒し給え」ではなく、「出血を止めてくれ」と、何を、どうしてほしいか、はっきり、言葉にしていた。
これらの観察を、僕は、頭の中に、並べた。並べたまま、結論を、出さずに、置いておいた。
結論を出すのは、危ない、と、本能的に感じていた。
もしも、僕の祈りが、神様への祈りではなく、別の何かへの、別のやり方の働きかけなのだとしたら、それは、教会の教えから、外れている。教会の教えから外れているということは、ロレンツ先生の教えから、外れているということだ。
先生は、今日、僕の祈りを見ていた。何かに、気づいていた。けれど、何も、言わなかった。
たぶん、先生は、僕に、自分で気づいてほしいのだ。気づいて、それから、自分で判断してほしいのだ。
あるいは、気づかないでいてほしいのかもしれない。
どちらか、わからない。
わからないまま、僕は、結論を、出さないでおく。
いまは、レオンが、生きている。
それで、十分だった。
* * *
夜が深くなって、教会の蝋燭がほとんど燃え尽きそうになった頃、レオンがわずかに呻いた。
目は、覚まさなかった。けれど口元が少し動いた。
僕はレオンの顔の方に、身を屈めた。
レオンの口元から、小さな声が漏れた。
「……リコ」
僕の名前だった。
目を覚ましているわけではない。たぶん、夢の中で呼んでいた。
僕は、レオンの手を握った。
握ってから、これは、レオンが起きていたら、たぶん、絶対に、僕がやらないことだ、と、気づいた。
握ったまま、僕はしばらく座っていた。
レオンの手は、大きかった。剣だこができていて、ところどころが固かった。爪は短く、不揃いだった。指の関節のあたりに、古い傷の跡がいくつかあった。
レオンの手は、僕の手より、ずっと、温かかった。
いつもそうだ、と、僕は、思った。
レオンは、いつも、僕より、体温が高い。子供の頃から、そうだった。冬に教会で寝る時、レオンの隣の方が、暖かかった。
その手を握りながら、僕は、決めた。
決めたのは、二つのことだった。
一つ目は、今日のことを、誰にも言わない、ということ。村人にも、ロレンツ先生にも、レオンにも。観察したことは、自分の中で、抱えておく。気づいたとしても、誰にも、共有しない。それが、安全だ、と、僕の本能は、言っていた。
二つ目は──。
二つ目は、まだ、はっきり、言葉になっていなかった。
ただ、レオンが、また森に行く日が来たら、僕は、たぶん、これまでよりも、強く、その背中を、見送るのが、辛くなるだろうな、と思った。
今日のような傷を負って、もしも、もっと深い傷で、もしも、間に合わなかったら。
その想像を、僕はこれまで何度も振り払ってきた。
今日は、振り払えなかった。
今日は、想像が現実になりかけた日だったから。
レオンが、また、行く。
その時、僕は、どうするのだろう。
答えは、出なかった。
答えが出ないまま、僕は、レオンの手を、握り続けていた。
教会の蝋燭が、最後に、ぱちんと、爆ぜて、消えた。
暗闇の中で、レオンの呼吸の音だけが、ゆっくりと、続いていた。




