序章 祈りと、誓い
本作は割とホモですので、誤って踏み入ってしまった人はお引き取りを・・・
「やーい、ひよわー」
「親無しー」
子供の声というのは、どうしてこうも容赦がないのだろうか。
ハーゼル村の外れ、収穫を終えたあとの麦畑の脇道で、僕は地面に転がっていた。突き飛ばされたのだ。砂利が頬に食い込んで痛い。けれど痛いと声に出したらもっとやられる気がして、僕はただ目を閉じて待った。
六歳の冬の話だ。
いじめられているという自覚は、たぶんあった。けれどそれが「いじめ」という名前を持っているということを、当時の僕は知らなかった。村の子供たちのなかで、いちばん背が低くて、いちばん細くて、両親がいないというのは、僕がたまたま引いてしまったカードのようなものだった。配られた手札が悪い時には、しゃがんで嵐をやり過ごすしかない。そう思っていた。
今思えばたぶん間違っていた。けれど当時の六歳児にほかの選択肢があったのかと言われると、僕には答えられない。
「おい、やめろよ」
声は、僕の頭上を越えて飛んできた。
目を開けると、僕の前に誰かが立っていた。逆光になっていて顔はよく見えなかったけれど、立ち姿でもう誰だかわかった。
レオンだった。
「五人がかりで一人かよ。お前ら、それでも男かよ」
声変わり前のまだ高い声だった。それでもレオンの声はよく通った。
いじめっ子のリーダー格──マルクスだったと思う──が、ちっと舌打ちをした。
「関係ねえだろ、レオン」
「あるんだよ。リコは俺の友達だ」
その一言で、空気が変わった。
マルクスたちは何かぶつぶつ言いながら、それでも結局は引き下がっていった。レオンは村の年少組のなかで、頭一つ抜けて背が高くて、走るのも早くて、力も強かった。レオンを敵に回すのは、村のどんな子供にとっても、得策ではなかった。
彼らの足音が遠ざかってから、レオンは僕の前にしゃがみ込んだ。
「リコ、立てるか? あ、ほっぺすり剥いてんじゃん」
レオンの指が僕の頬の砂利をはらった。雑な手つきだった。痛かった。けれど痛いと言ったらレオンが気にする気がして、僕はただ頷いた。
「平気」
「平気じゃねえだろ。鼻血出てるぞ」
言われて初めて、自分の鼻から温かいものが垂れていることに気づいた。指で拭うと、赤かった。
レオンが自分の上着の袖で、僕の鼻を拭った。
「ばっか、汚れる」
「いーよ。あとで井戸で洗う」
その言い方があんまりにも当たり前みたいだったので、僕は何も言えなかった。
レオンは、僕と同じだった。
両親はいなかった。教会の隅で、ロレンツ先生に育てられていた。僕より三つ年上で、僕がこの村に預けられた時には、もう先生のもとにいた。
だから、いじめっ子たちが叫んだ「親無しー」は本当はレオンにも当てはまる言葉だった。けれどレオンには誰もそれを言わなかった。レオンは強かったから誰も言えなかったのだ。
僕にできることがレオンにできないということは、たぶんない。けれどレオンにできることで僕にできないことは、無数にあった。レオンはそれを当たり前のように、僕に分けてくれた。今日に始まったことではなかった。
* * *
その夜、僕は教会の片隅で自分の鼻のあたりをそっと触っていた。
血はもう止まっていた。けれど、感触は、残っていた。
教会と呼ばれてはいるけれど、実態は村の集会所の半分ほどの石造りの建物だ。屋根の半分は藁葺きで、雨が降ると一部が湿る。そこに村の祈り手のロレンツ先生がひとりで住んでいて、孤児の僕とレオンはその隅っこを間借りさせてもらっていた。
ロレンツ先生はいつも言葉が少なかった。けれどその夜はめずらしく、僕に声をかけてきた。
「リコや。今日は、また、やられたか」
先生は「わし」と言う。村の年寄りの言い方だった。
「うん」
「レオンの坊主が、止めてくれたか」
「うん」
「そうか」
それだけ言って、先生はまた黙った。鍋から立ちのぼる湯気が、屋根の梁のあたりで揺れていた。豆と、根菜と、塩だけのスープだったと思う。村ではそれが普通だった。
レオンは、夕食の前に出ていって、まだ戻っていなかった。納屋の裏で、また棒切れを振っているのだろうと思う。
僕は、火を見ながら、なんとなく、考えていた。
レオンは、強い。だから、僕を守れる。
じゃあ、僕は?
守られている。それはたしかに有難いことだった。けれど有難いと思うたびに心のどこかがしゅんと音を立てて沈むのを、僕は感じていた。
六歳児なりに、それが何なのかはわかっていた気がする。たぶんあれは、悔しさというものだった。
* * *
翌日から、僕は密かに、強くなる練習を始めた。
密かに、というのはレオンに見つからないようにということだ。レオンは僕が何かを始めたら絶対に「俺もやる」と言うに決まっていて、そうなると僕がレオンに追いつけないことが二人の前ではっきりしてしまう。それは耐えられない気がした。
まずは、腕立て伏せ。教会の裏の、誰にも見えない場所で、地面に手をついて、体を持ち上げようとした。
持ち上がらなかった。
一回も、上がらなかった。
次に、走り込み。村のはずれの道を、息が切れるまで走ろうとした。三十歩で息が切れた。
次に、剣の真似事。落ちている枝を拾って、見えない敵に向かって振った。三回振ったところで、肩が痛くなって、手が痺れた。
全部、駄目だった。
駄目、というのが悲しかったわけではない。たぶんそうではなかった。ただ、現実というのはこうなのか、と思っただけだった。生まれた時から細かった僕の体は、僕がどう望んでもそう簡単には変わってくれないらしかった。
その夜、僕はもう一度、教会の隅で、火を見ていた。
ロレンツ先生が、向かいで、麦の粉をこねていた。
「リコ」
先生が、こねる手を止めずに、言った。
「お前、今日、何かしておったな」
心臓が、跳ねた。
「えっと、その」
「言いたくなければ、よい。ただ、肩が、こう、上がっておる」
言われて、自分の肩を見た。たしかに、おかしな具合に、力が入っていた。さっき枝を振った時の癖が、抜けていなかった。
僕は、しばらく迷ってから、ぼそぼそと、白状した。
強くなりたいのだ、ということ。
けれど、何をやっても、駄目だったということ。
話している途中で、自分の声が震えていることに気づいた。けれど止まらなかった。一度こぼれた言葉は最後までこぼれきってしまわないと、収まらないものらしかった。
話し終えると、しばらく、沈黙があった。
ロレンツ先生はこねていた粉から手を離して、布で指先を拭った。それから僕の方を見た。
「リコや」
「うん」
「強くなる方法は、一つではないぞ」
最初、何を言われたのか、よくわからなかった。
先生は、ゆっくりと続けた。
「腕の力で強くなる者がおる。剣で強くなる者がおる。それが、一番わかりやすい強さだ。じゃが、それだけが強さではない」
「うん」
「強い者を、支える、という強さも、ある」
僕は、火を見つめたまま、その言葉を、頭の中で、何度か繰り返した。
強い者を、支える。
それは、つまり、レオンを、ということだろうか。
「お前は、自分が、レオンの坊主に、追いつけぬと、思うとるだろう」
「……うん」
「追いつかんでよい。追いつくのが、お前の役目ではない」
ロレンツ先生の声は相変わらず淡々としていた。けれどその淡々とした調子のなかに、何か確かなものがあった。
「あの坊主が、お前を守る時、あの坊主自身は、傷つく。流す血もあろう。折れる骨もあろう。その傷を、癒す者がおらねば、いずれ、あの坊主は立てなくなる」
「……」
「腕力で守るのは、あの坊主の役目だ。傷を癒すのは、別の者の役目だ。役目は、違うが、一つの仕事を、二人で分けておる、ということだ」
火がぱちんと小さく爆ぜた。
僕は息を、ゆっくりと吸ってゆっくりと吐いた。
そういうことだったのか、と思った。
強くなるというのは、レオンと同じものを目指すということではないのだ。レオンが持っているのとは別のものを僕が持って、二人で一つにすればいい。そう考えると急に、何かが軽くなった気がした。
軽くなったというのは、たぶん正確ではない。重さの種類が変わった、と言ったほうが近かったかもしれない。
持てない種類の重さを、僕は、これまでずっと、無理に持とうとしていたのだ。
* * *
翌朝、僕はロレンツ先生に、頭を下げた。
「祈りを、教えてください」
先生は、目を、ほんの少しだけ、細めた。笑ったのかもしれないし、笑っていなかったのかもしれない。よくわからない、そういう表情だった。
「よかろう。ただし、約束を一つ、せよ」
「はい」
「祈りは、派手なものではない。誰かを驚かせるためのものでも、誰かに自慢するためのものでもない。声を、小さく、心を、静かに、神と、自分にだけ届くように、唱えなさい」
「はい」
「これは、最初に、覚えなさい」
先生はその日から、僕に祈りの最初の言葉を教えてくれた。
光の祈りというものだった。「神よ、照らし給え」と、小さく心の中で唱える。すると、手のひらに、ふっと、淡い明かりが灯る。それだけのことだった。
最初は、灯らなかった。
二日目も、灯らなかった。
三日目に、ほんの一瞬、僕の指の影が、地面に落ちた気がした。たぶん、本当に灯ったのは、五日目か、六日目だったと思う。手のひらの上に、蛍ほどの大きさの、薄い黄色い光が浮かんで、すぐに消えた。
消えたあと、僕はしばらく自分の手のひらを見つめていた。
今、僕の手のひらに、光が、あった。
それは、レオンの腕にある力とは違うものだった。違うけれどたしかに、僕の中から出てきた、僕のものだった。
その時、僕は生まれて初めて、自分のことがほんの少しだけ誇らしいような気がした。
* * *
その日のうちに、僕はレオンに、報告した。
報告したのは、たぶん自慢したかったのだといま振り返ると思う。けれど当時の僕は、単に「言わなければならない気がした」というぐらいの感覚だった。
レオンは、村の井戸の脇で、棒を振っていた。
最近のレオンは教会の裏手の薪割り場から長い棒切れを持ち出してきて、それを剣の代わりに毎日振っていた。一度何をしているのかと尋ねたら、「俺、騎士になる」とこともなげに言われた。
冗談ではないらしい、ということは、毎日続けているのを見れば、わかった。
たぶん、レオンは、村の外に出たいのだ。
そう、僕は何となくわかっていた。村にいる限り、僕たちはずっと教会の隅で、先生のスープを分けてもらう子供のままだ。レオンはそれを嫌だとは言わなかった。けれど嫌ではないとも言わなかった。
「レオン」
「おっ、リコじゃん。どした」
レオンは棒を止めて、額の汗を袖で拭った。冬だというのに、汗をかいていた。
「あのね、僕、決めたんだ」
「ん?」
「祈り手になる」
レオンは、一拍だけ、黙った。
「祈り手、って、ロレンツ先生みたいなやつ?」
「うん」
「えっと、それって、何するやつだっけ」
「神様にお祈りして、傷を治したり、明かりをつけたり、する」
「ふーん」
レオンはそう言って、棒を地面の上に立てかけた。それから僕の方に向き直った。
その目が、思いのほか、真剣だった。
「なんでだ?」
「えっ?」
「なんで、祈り手なんだ?」
僕は、口ごもった。
本当の理由をそのまま言うのは、なんだか気恥ずかしかった。けれどレオンの目がまっすぐすぎて、はぐらかすこともできなかった。
「君を、支えるためだよ」
「……は?」
「君が騎士になって、戦って、傷ついた時に、僕が、君を、治す。そういう役目になる」
レオンが、ぽかんとした顔をした。
こういう顔をするレオンは、めずらしかった。レオンはたいてい何を言われてもすぐに何か返してくる。それがすぐには返ってこなかった。
返ってきたのは、たっぷり数秒、置いてからだった。
「……お前、それ本気で言ってんのか」
「うん」
「俺のために、祈り手になるって?」
「うん」
レオンがどん、と一歩僕に近づいてきた。それから両手で、僕の肩を掴んだ。
力が強かった。痛いほどではなかったけれど、強かった。
「リコ、お前」
レオンの顔が近かった。鼻と鼻がぶつかりそうな距離だった。
レオンの目は笑っているのか怒っているのか、よくわからなかった。たぶんその両方だった。
「俺たち、最強コンビじゃん」
最強コンビ、と、レオンは言った。
じゃん、というのがレオンのいつもの口癖で、たぶん本人はそんなに重い意味を込めて言ったのではないと思う。けれどその言葉は、僕のなかで思っていたよりもずっと重く響いた。
最強。
コンビ。
二人で、一つ。
ロレンツ先生が言っていた「役目を二人で分ける」というのは、たぶんこういうことだ。言葉が違うだけで、同じことをレオンはもうわかっていた。
もしかしたら、僕より先に、わかっていたのかもしれない。
「うん」
僕が頷くと、レオンは僕の肩を掴んでいた手をそのまま僕の頭の上に持ってきて、ぐしゃぐしゃと髪を撫でた。雑な手つきだった。痛かった。
「いってえ」
「あはは、悪い」
レオンは、笑った。少しも悪びれていなかった。
冬の、よく晴れた日の午後だった。井戸の縁に霜が残っていて、それが傾きかけた陽の光を反射して細かく光っていた。
僕には、レオンしかいなかった。
レオンには、たぶん、僕しかいなかった。
その日のことを、僕はその後、何度も繰り返し思い出すことになる。




