第十五章 帰路と、再会
馬は、途中で、二度、休ませた。
最初の休息は、王都を出て三日目。北の街道沿いの、寂れた宿場町だった。
追っ手の気配は、なかった。教会本部からの追手も、騎士団からも。
ヴィルヘルムが、レオンの馬を、別の任務名義で引き出してくれていたから、騎士団の方では、すぐには、馬の不在に気づかない。教会本部からの追手は、距離がある。
追われる速度より、僕たちの速度の方が、速かった。
宿場で、馬と僕たちは、ひと晩、休んだ。
次の日、また、走った。
二度目の休息は、街道の中継地。
その夜、レオンと僕は、安宿の二人部屋で、ひとつの寝台に、二人で寝た。
寝台は、二人で寝るには、明らかに、狭かった。
レオンが、自分の腕を、僕の頭の下に敷いてくれた。腕枕、というやつだった。
最初は、ぎこちなかった。レオンの腕の硬さに、頭が、しっくり来なかった。
硬いだけではなかった。レオンの腕には、火災現場の傷跡が、まだ、わずかに、残っていた。塞いだ跡の、薄い線が、僕の耳の下のあたりに、触れていた。
その線を、僕は指でなぞった。
「リコ」
「うん」
「くすぐったい」
「ごめん」
「いや、いい」
レオンは、それきり、何も言わなかった。
なぞる指を、僕は、止めなかった。止めるべきだったのかもしれない。けれど、なぞっていることが、確かめることに、なっていた。
レオンが、生きていることを。
あの夜、僕の祈りが、間に合ったことを。
なぞりながら、僕は、レオンの呼吸の音を、近くで聞いていた。
いつの間にか、寝ていた。
* * *
八日目の朝、ハーゼル村の麦畑が見えた。
冬で、麦畑は、刈り取られた後の、地面が、剥き出しになっていた。
半年前の出発の朝、霜で凍りついていた、あの麦畑の道だった。
いま、また、霜が降りていた。
あれから、半年ほどが経っていた。
半年で、僕とレオンは、村を出て、王都に行って、騎士団に入って、教会本部に入って、特別観察聖人候補に昇格して、隔離されて、脱出して、戻ってきた。
書き出してみると、すごいことだった。
体感では、もっと長かった。何年にも、感じられた。
馬の歩みは、自然と、ゆっくりになった。
レオンも、急かさなかった。
二人とも、村に近づくのを、惜しんでいた。
惜しんでいたのは、村が、嫌だからではなかった。
村に着くと、王都での日々が、終わってしまうから、惜しんでいた。
その日々の中の、辛いことも、苦しいことも、含めて、二人で、生きてきた時間だった。
戻ってきた、というより、卒業してきた、と言うほうが、近かった。
* * *
村の入り口に近づいた時、最初に、僕たちに気づいたのは、マルタおばさんだった。
道の脇で、何か、洗濯物のようなものを、抱えていた。
馬で近づく僕たちを、最初は、商人かと、思ったらしい。
ふと、馬の上の、僕の顔を見た。
次に、その後ろの、レオンの顔を見た。
目が、ゆっくり、見開かれた。
「リコちゃん? レオン?」
マルタおばさんの声が、震えていた。
「ただいま、おばさん」
僕は、頷いた。
マルタおばさんは、抱えていた洗濯物を、地面に落とした。
落としたまま、僕たちの方に走ってきた。
「あんたたち、戻ってきたのかい!」
「うん」
「あらあら、あらあら! ロレンツ先生に、すぐ、知らせなきゃ!」
マルタおばさんは、走って、村の方に消えていった。
残された僕とレオンは、馬の上で、顔を見合わせた。
「変わってねえな、おばさん」
「うん」
「半年で、村は、変わってないらしい」
「うん」
僕とレオンは、笑った。
半年ぶりの、村の人だった。
* * *
教会の前に、馬を止めた。
降りる前に、レオンは、僕を、馬から降ろしてくれた。
降ろされた地面が、村の、いつもの、踏み固められた土だった。
懐かしい、土の感触だった。
教会の戸口に、ロレンツ先生が立っていた。
マルタおばさんが、もう、知らせていたのだろう。
先生は、戸口の中に入ったまま、僕とレオンを見ていた。
先生の姿は、半年前と、ほぼ変わっていなかった。
ほぼ、というのは、わずかに、また、痩せていた、ように見えた。
それと、髪が、また少し、白くなっていた。
先生は、何も、言わなかった。
ただ、目で、僕とレオンを追っていた。
僕は、レオンと、目を合わせた。
レオンは、頷いた。
二人で、教会の戸口の方に歩いていった。
戸口の前に立った。
「ただいま、ロレンツ先生」
僕は、頭を下げた。
「ただいま、先生」
レオンも、頭を下げた。
ロレンツ先生は、しばらく、僕たちを見ていた。
見てから、ようやく、口を開いた。
「お帰り」
それだけだった。
半年前、出発の朝、先生が「行ってこい」と言った時と、同じ、淡々とした声だった。
僕とレオンは、頷いた。
「中に、入りなさい」
先生は、戸口を空けてくれた。
僕たちは、教会の中に入った。
* * *
教会の中は、半年前と、ほとんど、変わっていなかった。
長椅子。祭壇。鍋。火の跡。藁葺きの屋根の、雨漏りの跡。
全部、同じだった。
僕とレオンは、長椅子に並んで座った。
ロレンツ先生は、向かいの椅子に腰を下ろした。
しばらく、誰も、話さなかった。
火の音だけが、聞こえていた。
「ご飯を、食べていきなさい」
先生が、ようやく言った。
「はい」
先生は、立ち上がって、鍋の方に向かった。
いつもの、豆と根菜のスープを、温め始めた。
その様子を、僕とレオンは、長椅子に座って見ていた。
見ながら、レオンが、ぽつりと言った。
「先生、なんか、訊かないんだな」
「うん」
「なんで、戻ってきた、とか、王都で、何があった、とか」
「うん」
「先生、あんま、訊かないだろうな、たぶん」
「うん」
ロレンツ先生は、訊かない人だった。
訊かないけれど、見ていた。
* * *
夜、ご飯を食べた後、レオンが、村の鍛冶屋に、馬を、預けに行った。
厩舎は、村の鍛冶屋の隣にあった。馬を、預けるには、許可が要る。レオンが、説明して、預けてくる、と言った。
レオンが、出ていった後、教会の中には、僕とロレンツ先生だけが残った。
火が、ぱちぱち、と、爆ぜていた。
「リコや」
ロレンツ先生が、口を開いた。
「はい」
「お前の、王都での話を、少しだけ、聞かせなさい」
「はい」
僕は、王都での出来事を、ロレンツ先生に話した。
王都に着いてからの最初の数日。教会本部での評価。聖人候補としての日々。グリゴール猊下との対面。ダンジョン現場のこと。自分の祈りについての研究。火災現場での致命傷救命。隔離。脱出。
全部、話した。
先生は、何も言わずに聞いていた。
話している途中、何度か、火の薪を、足してくれた。それ以外は、ずっと、僕の方を見ていた。
話し終わった時、夜は、もう、深くなっていた。
先生は、しばらく、黙っていた。
黙ってから、ようやく、口を開いた。
「お前の祈祷書は、持って帰ったか」
「はい」
「中身は、書き残せたか」
「はい。書き残しました」
「それで、よい」
先生は、頷いた。
頷いてから、続けた。
「お前は、王都で、何を、見つけた」
「祈りの、本当の意味、らしきものを」
「神は、いたか」
その問いに、僕は、答えに迷った。
迷ってから、答えた。
「いるか、いないか、わかりません」
「うん」
「ただ、僕の祈りは、効きました。神への呼びかけが、なくても、効きました」
「うん」
「それは、神じゃない、別の何かが、応えているからかもしれない、と、一瞬、思いました。けれど、確信は、ありません」
「うん」
「その答えを、出すことは、僕には、できないと思いました。出さない方が、僕にとっては、生きやすい、と」
「そうか」
先生は、頷いた。
頷いて、続けた。
「ラインハルト殿は、お元気か」
心臓が、跳ねた。
先生は、ラインハルト殿の名前を知っていた。
脱出の夜、ラインハルト殿が、僕を逃がしてくれた時、「ロレンツ殿に、よろしくお伝えください」と言っていた。
ラインハルト殿と、ロレンツ先生は、知り合いだった。
「お元気でした」
「あの男、相変わらず、頑固か」
「頑固、ですか」
「自分の信念で、教会を、動かそうとする男じゃ。若い頃から、変わらん」
先生は、初めて、わずかに、笑った。
笑ったというより、口元が、わずかに、緩んだ、という程度だった。
でも、それは、僕が知っている、先生の笑いだった。
「先生は、ラインハルト殿と、どういうご関係なのですか」
僕は、訊いた。
先生は、答えに、しばらく、迷った。
迷ってから、答えた。
「わしも、若い頃、王都の教会本部にいた」
「えっ」
「あそこで、ラインハルト殿の、上司だった」
驚いた。
ロレンツ先生は、村の祈り手として、僕の知る範囲では、最初から最後まで、村にいた人だった。
「なぜ、村に、戻られたのですか」
「いろいろ、あった」
「いろいろ、というのは」
「いつか、お前にも、わかる時が、来るかもしれん。来んかもしれん。今は、訊かんでよい」
先生は、それきり、過去のことは話さなかった。
話さない代わりに、別のことを言った。
「お前と、レオンの坊主は、村で、暮らせばよい」
「はい」
「教会の、わしの後を、お前が、継げばよい。レオンの坊主の、仕事は、村のために、何かをすることじゃ。村は、剣士を、必要としておる時もある」
「はい」
「お前たちは、ここで、生きていけるじゃろう」
先生の声は、いつもの、淡々とした声だった。
でも、その声の中に、何かが混じっていた。
たぶん、温かさだった。
先生は、温かさを、表に出さない人だった。
でも、わずかに、出ていた。
* * *
その夜、レオンが、馬を預けて戻ってきた。
戻ってきた時、教会の中は、もう、静かになっていた。
ロレンツ先生は、自分の部屋に戻っていた。
僕は、長椅子の上に座って、火を見ていた。
レオンは、僕の隣に座った。
「先生と、話したか」
「うん」
「何を、話した」
「いろんなこと」
「ふーん」
レオンは、それ以上訊かなかった。
訊かない代わりに、僕の肩に、自分の頭を、軽く、預けてきた。
いつもの、雑な、しかし、慣れ親しんだ、預け方だった。
「リコ」
「うん」
「俺たち、ここで、生きるのか」
「うん」
「先生、いいって」
「うん」
「やったな」
レオンは、笑った。
僕も、笑った。
笑いながら、火の音を聞いていた。
火は、いつもの、ぱちぱち、という音を立てていた。
半年前と、同じ音だった。
でも、火を見る僕の隣に、いま、レオンの頭が、預けられていた。
半年前には、なかった、新しい光景だった。
* * *
深夜、僕とレオンは、教会の隅の、自分たちの寝床に潜り込んだ。
寝床は、半年前と、同じ場所だった。
毛布も、同じだった。
二枚の毛布が、隣り合って、敷かれていた。
半年前と、違うことが、ひとつ、あった。
二枚の毛布の間隔が、半年前は、ある程度、空いていた。
今夜は、二枚の縁が、重なっていた。
レオンが、自分から、毛布を、僕の方に寄せていた。
「リコ」
「うん」
「明日から、村の生活、始めるか」
「うん」
「俺、何するかな」
「君は、剣士だから、村の警備とか、森の魔物討伐とか」
「あー、それな。村の警備って、ちゃんと、給金、出るのかな」
「先生に、相談しよう」
「うん」
しばらく、毛布の中で、二人で話した。
他愛のない、明日のことの、話だった。
話しながら、僕は、ずっと、感じていた。
毛布越しに、レオンの体温が、ずっと、伝わってきていた。
その温度の中で、僕は、ゆっくりと、眠りに落ちた。
眠りの直前、頭の片隅で、最後に、思った。
今夜から、毎晩、これだ。
毎晩、レオンの体温が、隣にある。
今夜だけじゃない。明日も、明後日も、その次も。
その当たり前さが、僕の中で、ゆっくりと、形を持っていった。
形を持った何かが、僕の中の、別の場所に、置いてあった、すべてのものを、覆っていった。
観察も、研究も、神への信仰も。
全部、レオンの体温の下に、収まっていった。
収まったまま、僕は、眠った。
* * *
翌朝、僕とレオンは、夜明けと共に起きた。
外で、村の鶏が、鳴いていた。
ハーゼル村の、いつもの朝が、始まっていた。
長椅子の隅に、僕は、ロレンツ先生から渡された祈祷書を出した。
最後の頁に、僕は、書き加えた。
「神を、選ばなかった」
書いてから、その文字を、しばらく、見ていた。
もう一行、書き加えた。
「レオンを、選んだ」
二行を、見比べた。
二行は、同じ重さで、同じ意味だった。
書き終えてから、祈祷書を閉じた。
閉じてから、ロレンツ先生から渡された、灰色の小石を、机の上に出した。
レオンは、自分の小石を、別の場所に出していた。
二つの石が、別々の場所に置かれていた。
別々に、置かれていても、二つの石は、対のものだった。
対のものは、どこに置かれていても、対のままだった。
窓の外で、村の朝の光が、強くなっていった。
僕は、立ち上がって、教会の中を、いつもの手順で整え始めた。
ロレンツ先生の補佐としての、村の祈り手の見習いとしての、いつもの朝の業務だった。
その業務を、これから、毎日、続けていく。
毎日、レオンの体温が、隣にある朝、続けていく。
それが、僕の選んだ、生き方だった。




