終章 選択と、日常
冬が、もう一度、来た。
ハーゼル村に戻ってから、一年が経っていた。
麦畑は、刈り取られて、地面が剥き出しになっていた。井戸の縁には、霜が降りていた。
あの日と、同じ景色だった。
十五年前の冬、僕がいじめられていた、あの日。
十五年前の冬、僕がレオンに「祈り手になる」と告げて、レオンが「最強コンビじゃん」と笑った、あの日。
一年半前の冬、僕とレオンが村を出発した、あの日。
毎年、冬は、同じ景色を、村に運んでくる。
同じ景色の中で、起きていることは、毎年、違っていた。
* * *
夜明け前に、僕は起きた。
寝床から出る前に、隣で寝ているレオンの顔を、しばらく見ていた。
レオンは、いつも通り、ぐっすり、寝ていた。寝つきが、いい男だった。
寝顔は、子供の頃の、棒振りをしていた頃の、レオンに似ていた。
毎朝、それを確認するのが、僕の習慣になっていた。
寝床から、抜け出した。
抜け出す時、レオンが、わずかに唸った。
唸ったけれど、起きはしなかった。
起こさないように、毛布を、レオンの肩まで引き上げた。
それから、教会の表に出た。
* * *
朝の祈りは、半年前と、同じ手順で始めた。
床を掃き、蝋燭を替え、井戸の水を汲み、清めの水盤を満たした。
祭壇の前に立った。
両手を、組んだ。
「神よ、照らし給え」
手のひらに、淡い黄色の光が灯った。
光の大きさは、村にいた頃と、同じだった。
王都にいた頃、僕の祈りは、光の量を、自由に調整できるようになっていた。けれど、村に戻ってから、僕は、村にいた頃の光の量に戻していた。
戻す理由は、いくつかあった。
ひとつは、村の祈り手として、目立たないため。
ひとつは、自分が、王都で身につけた技能を、毎日、使いたいわけではないため。
ひとつは、ロレンツ先生の、最初の教えに、戻りたかったため。
「祈りは、派手なものではない」
先生の言葉を、僕は、毎朝、心の中で繰り返していた。
光が、蝋燭に、火を移した。
教会の中が、ふわっと、明るくなった。
いつもの、朝だった。
* * *
朝食の前に、レオンが起きてきた。
一年前と、同じ、よろよろした歩き方で、井戸の方に向かった。
顔を洗って、戻ってきた。
「おはよ、リコ」
「おはよう、レオン」
レオンは、僕の隣に来て、僕がスープを温めている鍋を、覗き込んだ。
「今日も豆と根菜じゃん」
「ほかに何かあると思った?」
「ねーよなあ」
半年前、王都に出発する直前と、同じ会話だった。
同じ会話の繰り返しが、毎朝、続いていた。
繰り返しが、不思議と、苦にならなかった。
むしろ、繰り返せること自体が、ありがたかった。
ロレンツ先生が、自分の部屋から出てきた。
最近の先生は、起きるのが、また、遅くなっていた。
「先生、おはようございます」
「おはよう、リコや。レオンの坊主」
「うっす」
三人で、長椅子に並んで、朝食を食べた。
半年前と、座る位置は、ほぼ同じだった。
違うのは、僕とレオンの間の距離が、半年前より、わずかに、近くなっていたことだった。
* * *
朝食の後、レオンは、いつもの装備で、出かけていった。
最近のレオンは、村と、隣の街の中間にある、小さな駐屯地で、村の警備の仕事をしていた。
駐屯地は、村の有志と、隣の街の支援で、半年前に作られたものだった。村の警備、というより、村と街の間の街道の警備、という方が近かった。
給金は、王都の騎士団の、新人騎士の三分の一程度だった。
でも、レオンは、不満は、なかった。
「俺、剣を振れる仕事が、あればいい」
レオンは、よく、そう言った。
駐屯地までは、馬で、半日ほど。レオンは、月に二十日、駐屯地に詰めて、十日、村に戻ってくる、という生活だった。
今日は、村にいる日だった。
明日から、また、駐屯地に戻る。
* * *
午前中、僕は、村人の相談を受けた。
今日の最初の相談は、マルタおばさんの、二人目の孫の風邪だった。
孫は、まだ一歳ぐらいか。村を出る前には、まだ、生まれていなかった子だ。
僕は、孫の額に、自分の手を置いた。
心の中で、言葉を並べた。
幼い体の、軽い熱。風邪の症状。免疫の活性化を、促す。
声に、出した。
「神よ、癒し給え」
孫の熱が、引いていった。
完全に、ではない。けれど、十分、楽になる程度に、引いた。
マルタおばさんは、孫を、抱き上げて、嬉しそうに笑った。
「リコちゃん、ありがとうねえ」
「いえ」
「孫が、リコちゃんに会いたがってるようでさ」
「そうなんですか」
「うん。リコちゃんを見ると、いつも嬉しそうに笑うんだよ」
兄ちゃん、と、僕は、頭の中で繰り返した。
二十一歳になった僕は、村の四歳児にとっては、もう、兄ちゃん、だった。
時間は、確かに、経っていた。
* * *
午後、行商人のヘルムートが、村に来た。
半年に一度の、定期の訪問だった。
ヘルムートは、いつものように、村の広場に馬車を止めて、荷を広げた。
今回の彼は、僕に、特別な物を、運んできてくれた。
「リコ、これな、王都から、預かってきた」
ヘルムートは、革の鞄から、三通の手紙を取り出した。
差出人は、それぞれ違っていた。
一通目は、マリアム殿から。
二通目は、ラインハルト殿から。
三通目は、ヴィルヘルムから。
僕は、ヘルムートに礼を言って、手紙を受け取った。
* * *
その夜、僕は、教会の長椅子に座って、手紙を読んだ。
レオンも、隣に座って、僕が読み終えるのを待っていた。
マリアム殿の手紙は、簡素だった。
「リコさん。お元気でしょうか。私は、相変わらず、教会本部で、聖人候補として、過ごしています。あなたが、無事に、村に着いたと、ラインハルト殿から、聞きました。安心しました。私からの、便りは、ここまでとさせていただきます。あなたの、幸せを、願っています。マリアム」
短い手紙だった。
短いけれど、マリアム殿の優しさが、文字の隅々に、染み込んでいた。
ラインハルト殿の手紙は、もう少し、長かった。
「リコ殿。あなたの、ハーゼル村への、ご帰還を、お喜び申し上げます。教会本部の方は、あなたの脱出後、しばらく、騒ぎがありましたが、今は、落ち着いています。私の処分については、お気になさらず。私は、自分の判断で、行動しました。その判断は、間違っていなかったと、いまも、思っています。グリゴール猊下は、半年前、お辞めになりました。後任は、別の方が、務めています。教会の中の、空気は、少しだけ、変わってきています。それでも、あなたの祈りの形式が、教会の枠の中で、完全に認められるには、まだ、時間がかかります。あなたが、そこで、村の祈り手として、生きていることを、私は、心から、よかったと思っています。最後に、ロレンツ殿に、よろしくお伝えください。あの方は、わたしの、若い頃の、師でした。ラインハルト」
ラインハルト殿は、無事だった。
処分されていなかった。
よかった、と、僕は、深く、息を吐いた。
ヴィルヘルムの手紙は、いちばん、雑な書き方だった。
「レオン、お前、生きてるか。俺は生きてる。馬はあれから二日で本部にバレたが、何とか言い訳した。お前を逃がした件は、今のところ、俺は処分されていない。たぶん、団長が、見て見ぬ振りをしてくれている。お前と、お前の連れの祈り手は、村で、ちゃんと、生きろよ。リコ殿にも、よろしく。ヴィル」
レオンが、ヴィルヘルムの手紙を覗き込んでいた。
「ヴィル、生きてんな」
「うん」
「あいつ、雑な男だな、相変わらず」
「うん」
レオンは、笑った。
笑いながら、自分の目を、軽く、こすった。
* * *
手紙を、しまってから、僕は、ロレンツ先生の部屋を訪ねた。
先生は、机の前で、書物を読んでいた。
最近の先生は、目が、悪くなっていた。書物を読む時、顔を、ぐっと、近づけていた。
「先生、ラインハルト殿から、お手紙をいただきました」
「ほう」
「先生に、よろしく、と」
「うん」
「先生のことを、自分の若い頃の、師、と書いておられました」
ロレンツ先生は、書物から、顔を上げた。
僕の方を見た。
しばらく、見ていた。
見てから、ようやく、口を開いた。
「あの男も、書くようになったか」
「先生」
「うん」
「お訊きしてもいいですか」
「うん」
「先生は、なぜ、王都を、お離れになったのですか」
先生は、しばらく、答えなかった。
答えないまま、書物を閉じた。
「リコや」
「はい」
「お前が王都で見つけたものを、わしも、若い頃、見つけてしまったのじゃ」
「先生も」
「神じゃないかもしれない、という疑いが、ある程度、確信に近づきかけた時期が、あった」
心臓が、跳ねた。
「先生は、どうなさったのですか」
「わしは、ラインハルト殿たちに、それを、話してしまった」
先生は、しばらく、黙った。
黙ってから、続けた。
「あの頃のラインハルト殿は、まだ若かった。わしより、二十は下じゃった。観察評価部の、下の方の役職にいた」
「はい」
「議論になった。三日、続いた。三日目の夜、わしは、自分の言葉を、一つ一つ、撤回した」
「撤回、ですか」
「撤回した。撤回せねば、教会の中で、立っていられなかった」
「……」
「教義を否定すれば、信者の信仰が、崩れる。信仰が崩れた人は、生きづらくなる。わしには、それを、引き受ける覚悟が、なかった」
「先生は、神を、信じておられないのですか」
「いるか、いないかは、わからん」
先生は、僕の問いに、僕が王都で答えたのと、ほぼ同じ言葉で、答えた。
「ただ、信仰を、必要としている人は、確かに、おる。その人々のために、わしは、教義の中の祈り手として、生きることを、選んだ」
「先生」
「お前と、わしの選択は、似ておる」
「はい」
「お前は、神を選ばず、レオンの坊主を選んだ。わしは、神かどうかわからんものを、信仰している人々のために、教義を、保ち続ける道を選んだ」
「はい」
「どちらも、正しい選択だ。どちらも、間違いではない」
先生は、それだけ言って、また、書物を開いた。
僕は、頭を下げて、先生の部屋を出た。
出てから、長椅子のところに戻った。
レオンは、長椅子の上で、横になって、待っていた。
「リコ、何の話、してた」
「先生の、若い頃の話」
「ふーん」
「先生も、僕と、似た選択を、したらしい」
「うん」
レオンは、それ以上、訊かなかった。
訊かない代わりに、僕の手を、自分の方に引っ張った。
引っ張られて、僕は、長椅子の上に座った。座った僕の膝の上に、レオンが、自分の頭を預けた。
いつもの、雑な、しかし、慣れ親しんだ、預け方だった。
「リコ」
「うん」
「俺、最近、思うんだけどさ」
「うん」
「お前、王都でいろいろ悩んでた頃のお前と、今のお前で、別人みたいだな」
「そう?」
「うん。今のお前、なんか軽い」
「軽い、って」
「いい意味で。前は、いつも頭の中で何かを、ぐるぐるやってた。今は、ぐるぐるが少なくなった」
「うん」
たぶん、それは、本当だった。
王都にいた頃、僕は、いつも、頭の中の棚の上に、置いておくべきものを、抱えていた。
あの夜の違和感。先生の言葉。祈りの正体。レオンとの距離の意味。
それらを、全部、棚から降ろして、別の場所に置いた。
別の場所、というのは、レオンと一緒に生きるための場所だった。
レオンと一緒に生きていれば、それらは、ぐるぐる、考える必要が、なくなった。
考える必要のあるものが、減った。
減った代わりに、毎日の、当たり前の、繰り返しが、増えた。
その当たり前さが、たぶん、僕を、軽くしていた。
膝の上のレオンの頭の重みが、心地よかった。
心地よさを感じながら、僕は、レオンの髪に、片手を、軽く置いた。
いつもの、雑な手つきの、お返しだった。
レオンは、目を閉じていた。
閉じたまま、頷いた。
* * *
夜が、深くなった。
火が、小さくなっていた。
僕とレオンは、教会の隅の寝床に潜り込んだ。
寝床は、村を出る前と、同じ位置だった。
毛布も、同じだった。
毛布の縁が、重なっていた。
半年前の夜、初めて、毛布が重なった、あの夜を、僕は覚えていた。
あの時の、毛布の重なりは、わずかな、片方の縁が、もう片方に、わずかに、触れる程度のものだった。
今夜の、毛布の重なりは、二枚が、ほぼ、半分ずつ、重なる程度のものだった。
半年で、重なりの幅が、増えていた。
その幅は、たぶん、これからも、徐々に、増えていく。
僕は、目を閉じた。
隣で、レオンの呼吸の音が、聞こえていた。
火の音と、レオンの呼吸の音と、夜風の音が、混ざって、聞こえていた。
その音を聞きながら、僕は、頭の中で、最後に、ひとつのことを考えた。
神は、たぶん、いる。
いないかもしれない。
答えは、出ない。
答えが出ない問いは、いま、棚の上にも、別の場所にも、ない。
ただ、宙に、漂っていた。
漂っているまま、僕は、眠りに落ちた。
落ちる直前、頭の片隅で、最後に、思った。
明日も、レオンが、隣にいる。
明日も、ロレンツ先生が、火の前にいる。
明日も、村の人が、相談に来る。
明日も、いつもの朝が、ある。
その繰り返しが、僕の、これからの、日々だった。
その日々を、僕は、選んだ。
神を選ばずに、選んだ。
選んだ日々が、いま、始まっていた。




