第十四章 脱出と、告白
面会の四日後の夜、僕の居室の扉が、深夜に、軽く叩かれた。
規則的な音だった。三回、ためを置いて、二回。
誰かの合図だった。
僕は、ベッドから起き上がった。起き上がる前に、すでに、服を着ていた。寝間着には、着替えていなかった。
いつ来るか、わからなかったから、毎晩、服のまま、横になっていた。
扉の前に立った。
扉は、外から鍵がかかっていた。けれど、その鍵が、内側で開く音がした。
扉が、開いた。
マリアム殿が、立っていた。
暗い廊下の灯りに、半分照らされていた。
「リコさん、来て」
声を、最低限の音量で、押し殺していた。
僕は、頷いた。
頷いて、机の引き出しから、祈祷書と、灰色の小石を取り出した。革袋に押し込んだ。革袋を、肩にかけた。
他の私物は、何も、持たなかった。
居室を、出た。
マリアム殿が、僕の腕をつかんで、廊下を急いだ。
* * *
白い塔の階段は、夜は、灯りがほとんどなかった。
壁に、わずかな常夜灯が、間隔をおいて、灯っているだけだった。
マリアム殿は、僕より、一歩前を歩いていた。
僕は、足音をできるだけ消した。
階段を、四階から、三階、二階、一階へと降りていった。
一階の広間に辿り着いた時、別の人影が、僕たちを待っていた。
ラインハルト殿だった。
「ご無事で」
ラインハルト殿は、低く言った。
「はい」
「裏口から、出ます。塔の北側、東屋の脇に、馬が繋いであります。あなたを待っているのは、レオン殿です」
「はい」
「マリアム殿、あなたは、ここまでで結構です。私が、リコ殿を、裏口まで送ります」
「私も、行きますわ」
「いえ、あなたは、戻ってください。あなたが、明日朝の発覚時に、不審な動きをしていたと、見られないように」
マリアム殿は、しばらく考えてから、頷いた。
頷いて、僕の方を見た。
「リコさん」
「はい」
「お元気で。お幸せに」
マリアム殿は、それだけ言って、僕の肩に、軽く、片手を置いた。
置いた手を、すぐに離した。
離してから、別の階段の方に、消えた。
僕は、マリアム殿の去った方を、しばらく、見ていた。
「リコ殿、参りましょう」
ラインハルト殿が、急かした。
僕は、頷いて、ラインハルト殿の後について歩き出した。
* * *
白い塔の北側の、裏口の扉を、ラインハルト殿は、自分の鍵で開けた。
「ラインハルト殿」
「はい」
「あなたは、なぜ、僕を、逃がしてくれるのですか」
扉を開ける手を、ラインハルト殿は止めた。
止めてから、僕の方を見た。
暗闇の中で、ラインハルト殿の目は、初めて評価室で会った時の、深い青と、同じだった。
「私は、教会の聖職者です。教会の規則を、守る立場です」
「はい」
「ただし、私は、それと同時に、観察評価部の責任者です。希少な技能を持つ祈り手を、教会のためでなく、世界のために、生かす役目を、担っています」
「世界のため」
「はい。あなたの祈りは、教会の枠の中では、活かせません。教会の枠の外で、もっと多くの命を救うために、使うべきだと、私は判断しました」
ラインハルト殿は、淡々と続けた。
「これは、私個人の判断です。教会の決定では、ありません。発覚すれば、私も、処分の対象になります」
「ありがとうございます」
僕は、頭を下げた。
「お礼は、結構です」
ラインハルト殿は、扉を開けた。
「行きなさい。ハーゼル村へ。ロレンツ殿に、よろしくお伝えください」
ロレンツ殿に。
ラインハルト殿は、ロレンツ先生を、知っていた。
知っているのに、最初に評価していただいた時、それを、口にしなかった。
ロレンツ先生と、ラインハルト殿の間に、何かの関係があるのかもしれない。
わからないまま、僕は、もう一度、頭を下げた。
下げてから、扉の外に出た。
* * *
扉の外は、教会本部の敷地の、北側の庭だった。
月が、出ていた。
月の光の下、庭の東屋の脇に、二頭の馬が繋がれていた。
一頭の脇に、レオンが立っていた。
革鎧をまとっていた。腰に、剣を提げていた。
目が、合った。
レオンは、何も言わなかった。
ただ、片手を、こちらに伸ばした。
僕は、その手の方に走った。
走って、レオンの胸に、ぶつかるように抱きついた。
レオンの腕が、僕の背中に回った。
強く、抱きしめられた。
革鎧の硬さが、胸に刺さった。
刺さっても、構わなかった。
「リコ」
「うん」
「無事か」
「うん」
レオンの腕の力が、わずかに、緩んだ。
緩んだ腕の中で、僕は、顔を上げた。
月の光の下で、レオンの顔は、いつもより、痩せて見えた。
六日間で、痩せた。
たぶん、僕も、同じくらい、痩せていた。
「行こう」
レオンは、低く言った。
「うん」
レオンは、僕を抱きしめていた腕を離した。
離してから、僕の手をつかんだ。
手を繋いだまま、馬の方に引っ張っていった。
馬は、二頭とも、騎士団の馬だった。鞍に、騎士団の徽章が入っていた。
「ヴィルヘルム殿に、頼んだ」
レオンは、説明しながら、僕を、馬に乗せた。
「持ち出しが、ばれないように、二頭、別の任務名義で、引き出した」
「そう」
「お前、馬は、乗れるか」
「乗ったことは、ない」
「俺の前に、乗れ。俺が、操る」
レオンは、僕を、自分の馬の前に乗せた。
僕は、鞍の前に座った。
レオンが、後ろから、僕を抱えるように、鞍に跨った。
レオンの胸が、僕の背中に密着した。
「揺れるぞ。掴まれ」
「うん」
レオンが、馬の腹を、踵で押した。
馬が、走り出した。
* * *
王都の北門までの道は、夜の街路だった。
深夜のため、人通りは、ほとんどなかった。
走る馬の音だけが、石畳に響いた。
レオンは、僕の腰を、左腕でしっかりと固定していた。右手で、手綱を握っていた。
風が、僕の顔に、強く当たった。
革袋が、肩から揺れていた。中の、祈祷書と、小石が、わずかに音を立てていた。
北門に、近づいた。
北門は、夜は、閉まっている。
閉まっていたら、出られない、はずだった。
「マジで開けてくれてんのか、これ」
レオンが、低くつぶやいた。
北門の手前に来た。
北門の脇の、小さな潜戸が、開いていた。
潜戸の脇に、ヴィルヘルムが立っていた。
ヴィルヘルムは、黙って、僕とレオンを見ていた。
黙って、頷いた。
レオンは、馬の速度を、わずかに緩めて、潜戸を抜けた。
抜ける瞬間、ヴィルヘルムが、ぽつりと言った。
「気をつけろ、レオン。お前の道、ちゃんと、行け」
「うん。ありがとう、ヴィル」
レオンは、それだけ返した。
潜戸の外に、出た。
王都の城壁の、外だった。
* * *
城壁の外は、街道だった。
街道を、北に向かって、馬は走り続けた。
レオンは、馬の速度を上げた。
半年前に歩いた、街道の景色が、暗闇の中を流れていった。
夜風が、強く、僕の頬を打った。
頬に、何かが流れていた。
涙だった。
いつから流れていたのか、わからなかった。
たぶん、レオンに抱きついた瞬間から、流れていた。
涙を、拭いていなかった。
風で、勝手に、横に流れていた。
「リコ」
レオンが、後ろから、低く言った。
「うん」
「泣いてんのか」
「うん」
「いいぞ。泣け」
レオンの声に、いつもの軽さは、なかった。
深い、確かな、声だった。
僕は、頷いた。
頷いて、しばらく、声を出さずに泣いた。
* * *
夜明けが、近かった。
空の東の端が、わずかに、白み始めていた。
街道は、王都から、十里ほど離れた、平野の真ん中を走っていた。
追っ手が、来ているかどうかは、わからなかった。
来ているとしたら、たぶん、教会本部の発覚時、つまり朝の食事を運びに来た聖職者が、僕の不在に気づく時間からだった。それは、もうすぐ来る。
「あと一里、走ったら、休む」
レオンが、言った。
「うん」
「お前、寒いか」
「平気」
「俺の外套、貸す」
レオンは、自分の外套を外して、僕の肩にかけてくれた。
外套には、レオンの体温が、まだ残っていた。
温かかった。
* * *
一里走った後、レオンは、街道脇の、小さな林の中に馬を進めた。
林の奥の、小さな空き地で、馬を止めた。
降りる前に、レオンは、僕の腰を、両腕で支えて、地面に降ろしてくれた。
地面に降りた瞬間、僕の足が、わずかにふらついた。
馬の振動で、体が、揺れていたせいだった。
レオンが、僕の肩をつかんで、支えてくれた。
支えながら、続けた。
「リコ」
「うん」
「ちゃんと、声で、言いたい」
「うん」
レオンは、僕の前に立った。
月の光が、街道脇から、わずかに、林の中に、差し込んでいた。
その光の下で、レオンの顔は、汚れていて、汗で、湿っていた。
でも、目は、まっすぐ、僕を見ていた。
「リコ。お前が、好きだ」
夜明け前の、林の空気が、止まった。
「友達としても、好きだ。兄弟としても、好きだ。それと、別のものとしても、好きだ」
「うん」
「最後の『別のもの』が、たぶん、いちばん、強い」
「うん」
「子供の頃から、だったかは、わからない。でも、王都に来てから、はっきりしてきた。お前のこと、ふつうの好き、じゃない」
レオンは、続けた。
「お前の、頭の使い方も、好きだ。観察するとことか。物事を、棚に置く言い方とか。俺、似てるとこ、あんまりないけど、お前のそういうとこ、見てて、好きだ」
「うん」
「それに、お前の、声が好きだ。話す時の、ちょっと、ためる感じとか、それが好きだ」
「うん」
「だから、この先、何があっても、お前の側に、いる」
レオンは、それだけ言って、僕を見ていた。
僕は、しばらく、答えられなかった。
答えるべき言葉を、頭の中で、探していた。
探しても、なかなか、出てこなかった。
出てこない代わりに、別のものが、出てきた。
涙だった。
さっき、馬の上で、流していた涙とは、別の種類の涙だった。
馬の上で流していたのは、解放の涙だった。
いまの涙は、たぶん、嬉しさの涙だった。
嬉しさが、強すぎて、言葉に、ならなかった。
言葉にならない代わりに、僕は、レオンに近づいた。
近づいて、両腕を、レオンの腰に回した。
回して、レオンの胸に、頭を預けた。
革鎧の上に、頭を、預けたから、痛かった。
痛くても、構わなかった。
「僕も」
ようやく、声を出した。
「僕も、君が、好きだ」
「うん」
「友達としても、兄弟としても、別のものとしても」
「うん」
「最後の『別のもの』が、たぶん、いちばん、強い」
レオンの腕が、僕の背中に回った。
「子供の頃から、だったかは、わからない」
「うん」
「でも、王都に来てから、はっきりした」
「うん」
「君と、生きたい」
「うん」
レオンは、それきり、何も言わなかった。
しばらく、二人で、林の空き地に立っていた。
夜明け前の風が、僕たちの周りを、ゆっくりと流れていた。
* * *
しばらくして、レオンが、僕の頭の上に、自分の頭を、軽く預けた。
「リコ」
「うん」
「これから、どうする」
「ハーゼル村」
「うん」
「ロレンツ先生のところに、戻る」
「うん」
「先生、僕たちのこと、迎えてくれるかな」
「迎えるだろ」
「先生は、僕を、王都に、送り出した。送り出した僕が、戻ったら、がっかりしないかな」
「先生、お前が王都で、何かを見つけて、戻ってこいって、思ってたんじゃないかな」
レオンの言葉に、僕は頷いた。
「うん」
「お前、何か、見つけたか」
「見つけた」
「何」
「祈りの、本当の意味」
僕は、答えた。
答えながら、火災の夜に、すべてを「別の場所に置いた」時の感覚を、思い出した。
その「別の場所」は、いま、はっきりと、名前を持っていた。
レオンと一緒に生きるための場所だった。
研究も、観察も、仮説も、全部、そこにあった。
全部、レオンと一緒に生きるための材料だった。
神への信仰も、その「別の場所」の隅に、置いていた。
信仰を、捨てたわけではなかった。
信仰を、レオンと生きることの、下に、置いただけだった。
神を、選ばなかった。
レオンを、選んだ。
神は、たぶん、いる。
いないかもしれない。
その判断は、まだ、ついていなかった。
ついていなくても、選ぶことは、できた。
* * *
夜明けが、近かった。
空が、徐々に、白み始めていた。
レオンは、僕の頭から、自分の頭を離した。
離してから、僕の額に、自分の額を、軽く合わせた。
合わせた額が、温かかった。
「行こう、リコ」
「うん」
「先生のところに、戻ろう」
「うん」
額を、離した。
離れた後の、額の温度が、まだ残っていた。
僕は、その温度を感じながら、馬の方に向かった。
革袋を、肩にかけ直した。
革袋の中の、祈祷書と、灰色の小石が、わずかに音を立てた。
石は、もう、いつもより、ずっと温かかった。
レオンの体温と、僕の体温と、二つが混ざって、温まっていた。
馬の鞍に、レオンが、僕を乗せてくれた。
乗せてから、自分も、後ろに跨った。
馬は、また、走り出した。
夜明けの街道を、馬は、北に向かって走り続けた。
ハーゼル村まで、八日。
長い道のりだった。
長い道のりを、僕とレオンは、二人で戻る。
もう、別れる必要は、なかった。
二度と、別れる必要は、なかった。




