第十二章 致命の、夜
レオンの遠征は、九日で終わった。
予定より二日早かった。廃鉱跡の魔物は、想定より少なく、制圧は順調に進んだとのことだった。
戻った夜、レオンは、いつものように僕の部屋に来た。
扉を開けると、レオンの顔が、いつもより、少しだけ、引き締まっていた。
「リコ」
「うん。お帰り」
「お前、変わりねえか」
「変わりない」
「そうか」
レオンは、机の前の椅子に座った。
座って、しばらく、黙っていた。
黙っているレオンは、めずらしかった。話しかけるのを、ためらった。
「リコ」
「うん」
「俺、お前に、ちゃんと言いたいことが、ある」
心臓が、跳ねた。
「うん」
「でも、今日は、よす」
「えっ」
「言うなら、ちゃんとした場所で言いたい。今日じゃない」
レオンは、それだけ言って立ち上がった。
立ち上がって、僕の頭の上に、片手を、置いた。
いつもの、雑な手つきだった。
いつもの動作だけれど、置かれた時間が、いつもより、長かった。
手が離れた後、レオンは、扉の方に向かった。
「明日、また来る」
「うん」
「おやすみ、リコ」
「おやすみ」
扉が、閉まった。
扉が閉まった後、僕は、しばらく、机の前の椅子に座っていた。
頭の中で、レオンの「ちゃんと言いたいこと」が、何なのかを考えた。
考えても、答えは、いくつかあった。
レオンの遠征中の、何かの出来事に関すること。
あるいは、先日の夜の「結構、好きみたいだわ」の続きに関すること。
あるいは、それ以外の、僕には予想もつかないこと。
答えは、明日、聞ける。
明日、聞けるなら、それまで、待てばいい。
そう思って、僕は、その夜、寝床についた。
* * *
明日は、来なかった。
翌日の昼前、教会本部の白い塔に、伝令が走り込んできた。
王都の南、商人街で、火災が発生したとの報告だった。火の手は、複数の建物に広がり、負傷者が、多数出ている。教会本部から、医療班の派遣が要請された。
マリアム殿、ティモ殿、ベルント殿、僕。四人の聖人候補と、ラインハルト殿が、現場に向かった。
* * *
商人街は、混乱の中にあった。
数軒の建物が、火に包まれていた。煙が、空一面を、灰色に染めていた。
騎士団も、現場に出ていた。
火を消す者、瓦礫から人を引き出す者、負傷者を後方に運ぶ者。それぞれが、それぞれの仕事をしていた。
医療班は、火災現場の外側、広場に簡易の救護所を設置した。
負傷者が、次々と運ばれてきた。
軽傷から重傷まで、状態は様々だった。火傷、打撲、骨折、煙の吸い込み。
僕は、自分の天幕で、運ばれてくる負傷者を、片端から癒した。
神への呼びかけは、つけた。
形式と内容の両立を、続けた。
* * *
夕方近く、騎士団の隊列の中に、レオンの姿が見えた。
火災現場から、別の負傷者を担いで運んできていた。
僕は、自分の天幕から、レオンを目で追った。
レオンは、負傷者を医療班に引き渡してから、すぐに、また現場の方に戻っていった。
戻る時、目が、合った。
レオンは、片手を、軽く、上げた。
僕も、上げた。
それで、別れた。
その時の僕には、レオンの背中が、いつもより少しだけ、急いでいるように見えた。
なぜ急いでいたのかは、後でわかった。
燃えている建物の、最も奥に、まだ、子供が取り残されていたからだった。
* * *
その建物が、崩れた音を、僕は、はっきりと聞いた。
遠くから、轟音と、悲鳴と、煙の噴き上がる音が、混ざって、響いた。
救護所の、別の聖職者が叫んだ。
「レオンが、中にいたぞ!」
その声を、僕は、聞いた。
聞いた瞬間、僕の頭の中の、すべての言葉が、一度、消えた。
消えてから、戻ってきた言葉は、ひとつだけだった。
「行く」
僕は、立ち上がった。
マリアム殿が、僕の腕をつかんだ。
「リコさん、待って」
「離してください」
「現場は、まだ、危ない。火が」
「離してください」
マリアム殿の手を、振り払った。
振り払ったことに、後で、後悔するかもしれない、と、頭の片隅で思った。
思ったけれど、止まれなかった。
救護所を、出た。
火災現場の方に、走った。
走りながら、頭の中で整理した。
崩れた建物の、レオンの位置。瓦礫の下。生死は、不明。生きていれば、致命傷の可能性が高い。
走った。
全力で、走った。
* * *
崩れた建物の前に、騎士団の兵士たちが、瓦礫を退けていた。
その作業の真ん中に、ヴィルヘルムが、いた。
ヴィルヘルムが、僕に気づいた。
「お前、リコか」
「はい」
「レオンが、中にいる。子供を、抱えて、出ようとした、その瞬間に、崩れた」
「子供は」
「子供は、レオンが、押し出してくれた。無事だ。レオンは、間に合わなかった」
僕は、瓦礫の山を見た。
兵士たちが、必死に退けていた。
退いた瓦礫の下から、誰かの足が見えた。
革靴の足だった。
レオンの足だった。
「そこを、もう少し、退けてください」
僕は、頼んだ。
兵士たちが、瓦礫を退けた。
レオンの体が、半分、見えた。
半分、というのは、上半身が、瓦礫の下から出ていた、という意味だった。下半身は、まだ、瓦礫の下に埋まっていた。
顔は、煤と血で、汚れていた。
目は、閉じていた。
胸が、わずかに、動いていた。
息は、まだ、あった。
まだ、あった。
* * *
僕は、レオンの脇にしゃがんだ。
しゃがんで、レオンの上半身を観察した。
頭部に、深い裂傷。額から、こめかみにかけて、皮膚が、剥がれていた。
胸部に、大きな打撲。瓦礫の重みで、肋骨が、複数、折れている可能性。
左腕が、不自然な角度で、曲がっていた。骨折。
下半身は、瓦礫の下で、状態は、見えなかった。
息が、浅かった。
肺に、何か、来ている。
あの夜のレオンの傷の、何倍も、深い損傷だった。
ダンジョンでの、肺に届く寸前の刺し傷の、何倍も、深い損傷だった。
致命傷だった。
ふつうの祈り手なら、間に合わない。
ふつうの聖人候補でも、間に合わない。
間に合うのは、たぶん、僕だけだった。
僕だけ、というのは、自惚れではなかった。
僕だけしか、このやり方を、知らなかった。
神への呼びかけを、捨てて、具体的指示を、極限まで上げる、このやり方を。
* * *
ヴィルヘルムが、僕の隣にしゃがんだ。
「リコ、頼む。お前、できるんだろ」
「はい」
「形式とか、いらない。やってくれ」
ヴィルヘルムは、たぶん、レオンから、僕の祈りについて、何かを聞いていた。
聞いていた上で、現場で、僕に、形式を捨てる許可を、与えた。
誰かの聞いている前で、僕は、形式を、捨てた。
神への呼びかけを、つけなかった。
両手を、レオンの上半身の、傷の集中している場所に置いた。
頭部の裂傷の上に、左手。胸部の打撲の上に、右手。
心の中で、言葉を、並べた。
頭部の裂傷、深さ二センチ、頭蓋骨は無事、皮膚と皮下組織を、修復。胸部の肋骨、複数本骨折、内部の出血あり、肺に到達寸前、すべて元通り。左腕、骨折、関節の損傷あり、修復。下半身、状態不明、外部出血あり、内部の損傷も、修復対象。
声に、出した。
「レオンの、すべての損傷を、塞いでくれ。骨も、肉も、内臓も、すべて、元通りに」
効き始めた。
効き始めたけれど、いつもより、効きが、遅かった。
深すぎる損傷を、一度に、塞ごうとしているからだ。
別の、何かへの、と、僕は、頭の中で、一瞬、思った。
それを、頭の中から、すぐに、追い出した。
追い出して、もう一度、声を出した。
今度は、もっと、具体的に。
「肋骨の、左から三本目と、四本目と、五本目の、骨折を、繋いで。同時に、肺の、左下葉の、出血を、止めて。同時に、頭部の、皮下血腫を、吸収して。同時に、左腕の、上腕骨の、骨折を、繋いで」
全部、同時に。
いっぺんに、指示した。
効き始めた。
今度は、明らかに、強く、効いた。
レオンの体の中で、複数の、修復が、同時に、起き始めるのが、僕の手のひらに、伝わってきた。
数秒、十数秒、二十秒。
時間の感覚が、わからなくなった。
わからないまま、僕は、声を、出し続けた。
「下半身の、骨折と、出血を、すべて、修復」
「内臓の、損傷を、すべて、修復」
「血液の、循環を、回復」
「呼吸の、機能を、回復」
いくつもの指示を、僕は、出し続けた。
* * *
どのくらいの時間が経ったのかは、覚えていない。
たぶん、一分か、二分か。
体感では、もっと、長かった。
最後の指示の後、僕は、両手を、レオンの体から離した。
離した瞬間、目の前が、揺れた。
頭が、軽くなりすぎていた。
立ち上がろうとしたら、足に、力が入らなかった。
その場に、座り込んだ。
ヴィルヘルムが、僕を支えてくれた。
「リコ、お前」
「レオンは」
「息が、戻ってる。脈も、しっかりしてる」
僕は、レオンの顔を見た。
顔の煤は、まだ、残っていた。
でも、皮膚の傷は、塞がっていた。胸の動きが、規則的になっていた。
息が、戻っていた。
助かった。
助かった、と、頭の中で、確認した瞬間、僕の視界が、暗くなった。
暗くなる前に、もう一度、レオンの顔を、見ようとした。
見えたかどうかは、覚えていない。
そのまま、僕は、意識を失った。
* * *
目が覚めたのは、教会本部の医務室だった。
夜だった。
窓の外が、暗かった。
ベッドの脇に、マリアム殿が座っていた。
目を覚ました僕に、マリアム殿が気づいた。
「リコさん」
「レオンは」
「無事よ。同じ部屋の、隣のベッドに寝てる」
マリアム殿は、隣のベッドの方を指さした。
レオンが、寝ていた。
顔の煤は、誰かが拭ってくれていた。包帯も巻かれていた。
レオンは、ぐっすり、眠っていた。胸が、規則的に上下していた。
「あなたが、塞いだのよ」
マリアム殿は、低く言った。
「マリアム殿」
「目撃者が、何人もいたわ。ヴィルヘルム殿、騎士団の兵士、医療班のラインハルト殿。あなたが、神への呼びかけを、つけずに、たくさんの指示を、立て続けに出して、レオンの体の、複数の損傷を、同時に塞いだ」
「……」
「教会本部に、報告が上がる」
僕は、目を閉じた。
閉じてから、もう一度、開いた。
マリアム殿の顔は、心配の色で満ちていた。
「リコさん、あなた、今すぐ、逃げないとならないかもしれない」
「逃げる、って」
「教会本部から。いえ、王都から」
「……」
「グリゴール猊下が、明日にも、あなたを聖典審査部に呼び出す可能性がある。今度は、警告じゃ済まない」
「……」
「処分の可能性が、現実に、なる」
処分。
ラインハルト殿の言葉が、ようやく、現実の重みを、持った。
僕は、隣のベッドの、レオンを見た。
レオンは、まだ寝ていた。
寝ているレオンを見ながら、僕は、思った。
逃げるなら、レオンと、一緒に。
逃げないなら、ここで、運命を、受け入れる。
どちらかを、選ばないといけない。
選ぶための時間が、いつまであるかは、わからなかった。
* * *
マリアム殿が、立ち上がった。
「私は、これで、戻るわ。何かあったら、すぐに、私を呼んで」
「マリアム殿」
「うん」
「ありがとうございます」
「私のしたことは、報告書を遅らせる程度よ。それ以上は、できない」
「それでも、ありがとうございます」
マリアム殿は、頷いて、医務室を出ていった。
* * *
医務室には、僕とレオンの二人きりになった。
レオンは、相変わらず、ぐっすり眠っていた。
僕は、自分のベッドから、ゆっくりと起き上がった。
起き上がって、レオンのベッドの脇に行った。
しゃがんで、レオンの顔を見た。
近くで見ると、額の傷の跡が、わずかに残っていた。皮膚は塞がっているけれど、薄い、線のような跡が、こめかみまで、続いていた。
僕の祈りは、完全には、跡を消せなかったらしい。
跡が残ったのは、僕の祈りの限界だった。
限界があるけれど、命は、繋がった。
それで、十分だった。
レオンの手が、毛布の外に出ていた。
その手を、僕は、両手で包んだ。
手は、温かかった。
温かい手の中で、僕は、決めた。
逃げよう。
レオンと一緒に。
決めた瞬間、心の中の、何かが、軽くなった。
軽くなったのは、たぶん、これまでずっと棚の上に置いてあった、いくつかのものを、一度に、降ろしたからだった。
観察も、仮説も、研究も。
全部、棚から降ろして、机の上にも、引き出しの中にも、置かなかった。
別の場所に、置いた。
その別の場所は、僕の中で、まだ、名前が、ついていない場所だった。
名前のない場所に、僕は、すべてを、置いた。
置いた後の僕の中には、ひとつのことだけが、残った。
レオンを、生かす。
レオンと一緒に、生きる。
それだけだった。




