第95話 長谷川真昼、宇佐山へ疾走前夜
「はぁ、はぁ……三左さーん! 今行くからね! 絶対に死なせないから!」
泥だらけの馬を夜の闇に飛ばしながら、私は祈るように叫んでいた。
宇佐山城。そこは京と岐阜を結ぶ絶対防衛線。
そこを守る森三左衛門可成さんは、私にとって織田軍の頼れるお父さんみたいな人だ。
どうか、どうか無事でいて。
……これは、私たちが絶望の撤退戦を繰り広げていた頃。
宇佐山城で起きた、一人の漢と一球の英霊ボールによる、熱くて少し切ない数日間の物語である。
***
琵琶湖の湖面が夕陽に照らされ、静かな波音を立てている。
比叡山の麓、宇佐山城の城主・森可成は、領内の見回りを兼ねて湖畔の葦原を歩いていた。
手に信長より下賜された特注の十文字金属バットが握られている。
すると突然、葦の茂みが激しくざわめき、必死に逃げ惑う気配が近づいてきた。
『ハア、ハア、ハア……!』
『逃がすな! 囲め!』
逃げる英霊ボールに、追う英霊ボールたち。
逃げているのは赤みを帯びた白球。追っているのは青や黄金の混じった三つの球体だ。
追っ手の気配は鋭く、単なる球遊びではない明確な殺気が籠もっている。
『ぐっ……ここまでか。……すまん、仇を討てそうにないわ……マユミ……』
上空から迫りくる三つの球体に囲まれ、逃げていたボールが観念して最期の刻を迎えようとした、その時――。
三左の身体が自然と動いた。
エース信長が登板する前の露払い。それが己の役目。
十文字バットが一閃する。
――カキィィィン! カキーン! カキーン!
見事な流し打ちの三連撃。
追っ手の英霊ボールたちが、金属バットの芯で捉えられ、遥か彼方へと飛翔していった。
『な、なんだこのパワーは!』
『バファローズの援軍か⁉ アッー!』
追っ手たちは夜空の星となって、キラーンと音を立てて消えていく。
「……大丈夫か?」
壮年の屈強な武将が、地面に転がった英霊ボールの前に膝をついた。
『……なんや、けったいな人間やな。喋る球体見て心配する人間なんぞ、普通おらんぞ?』
助けられたボールは、コテコテの関西弁で訝しげに明滅した。
「ハハハ! 我が主も球体を友と扱っておるゆえ、困っているか何となくわかったのでな」
『球体を友と扱う主? それに金属バット……もしやここは……』
「儂は森三左衛門可成。織田信長様の家臣にして、ここ宇佐山城の主だ」
『宇佐山……近江……織田家か。ひとまず助かった……みたいやな』
ボールの光が安堵に揺らぎ、そのまま地面にコトリと落ちた。
相当な距離を逃げてきたのだろう。疲労の色が濃い。
「おい、大丈夫か?」
三左は沈黙した英霊ボールをそっと大きな掌に包み込み、城へと戻った。
***
宇佐山城の一室。
質実剛健を好む三左らしく、飾り気のない部屋には手入れされた武具が整然と並んでいる。
『……はっ!』
畳の上に敷かれた座布団の上で、ボールが弾かれたように意識を取り戻した。
「目覚めたか。どうだ、気分は?」
愛用の十文字バットを手入れしつつ、三左は穏やかな声で尋ねた。
『悪くはないで』
「そうか。好きなだけいてくれて構わぬが、信長様が摂津から戻られたら献上することになるだろう。嫌でなければ、そうしてくれぬか?」
『やっぱ変わった男やな。今の御時世、喋る球体を血眼で探し求めている者ばかりやで? 儂を利用しようと思わんのか?』
「ハハハ。野球で己を鍛えておるからな。特に異能を求める気はない」
三左は布でバットを磨き上げ、切っ先を確認する。
彼の横顔には、武人の誇りとある種の余裕が漂っていた。
『それだけやない。主に献上すれば褒美を貰えるやろ? わざわざ球体に確認する必要ないはずや』
「儂は信長様から欲しいものはすでに頂いておるでな。信長様の出番を作らないエースの称号は欲しかったが、センイチ殿より守護神の称号を貰ったゆえ、これ以上は過分よ」
『ほう、守護神か』
かつて金山城で真昼のスカートをめくった次男・勝三をシメた後、センイチから授かった言葉。
『エース1人じゃ勝てん。信長がピンチの時の火消し役、守護神になれ』
その言葉は、三左の胸に深く、熱く刻まれている。
「それより、追われていたようだが何があったのだ? 英霊ボールたちは、主を見つけて戦っていると聞き及んでいたが?」
『……申し遅れた。儂の名はナッシー。儂を追い詰めた英霊ボールどもはテリー、ダイジロウ、モリワキ……』
「ナッシーか。いい名だな」
『三左、お主もええ名やで。そんでな、儂はオオギさんの下で、連中はトシハルさんの下で本願寺相手に共闘してたんやが、バファローズとブルーウェーブとブレーブスの呼称で揉めてな』
「共闘していたのに揉めたのか。それは負けて当然だな」
三左は呆れたように首を振った。
戦場において、名乗りや指揮系統の不一致は死を意味する。
『その通りや。同じくサダヨシさん麾下のタイガース勢共々、ツルオカ率いるホークス勢に敗れ去ったんや』
「なるほど、負けた者同士での争いになってしまったわけか」
『いや……まあ、話せば長くなるんやが……儂はツルオカに飲み込まれた親友のマユミの仇を討ちたいんや。でも、オオギさんもトシハルさんもサダヨシさんも他勢力に向かっちゃってな。ダイジロウたちに「オオギさんについていかないなら儂らとどや?」と誘われて、断ったらああなったんや』
ナッシーの光が、哀愁を帯びて揺らめく。
それは消滅した球団、合併して名前が変わってしまった故郷への複雑な想い。
純粋なバファローズであろうとする意地が、彼を孤立させていたのだ。
「ハハハ、なら儂がお節介焼く必要もなかったか。球体どもは仲が悪そうで仲がいいのだな」
『ライバルであり、戦うべき相手よ。ダイジロウたちはいい奴だが、連中が率いたバファローズと、儂の愛するバファローズは違うでな』
「色々とあるのじゃな。よければ儂が話し相手になってやるぞ? ついでに信長様に許可をいただき、ナッシーの親友とやらの救出作戦を立てようではないか」
『三左、お主はホンマいい奴やな。気に入ったわ。しばらくここで世話になるで。マユミの件の助太刀……ありがとう。主家の迷惑にならんようにせえよ』
「なあに。我が主の恋女房が英霊ボールを集めておるでな。本願寺もいずれ戦う相手なのよ」
そうしてナッシーは、可成が守る宇佐山城に棲み着いた。
城内の中庭で、元気な子供たちの声が響いている。
元服したばかりの長男、傅兵衛改め可隆は、父に似て実直に素振りを繰り返している。
そして問題児の次男・勝三は――。
「えいっ! やあっ! くそっ、なんで当たらんのじゃ!」
勝三が荒々しく振り回す金属バットを、ナッシーがひらりひらりと宙を舞って躱していた。
『甘い甘い! そんな大振りじゃただの大型扇風機やで! 腰を落として、コンパクトに振らんかい!』
「うるさい球じゃ! 真昼様との約束のために、拙者は強くならねばならんのじゃ!」
真昼にスカートめくりをしてボコボコにシメられて以来、「強い男になって真昼様を守る」という謎の誓いを立てた勝三は、ナッシーを格好の修行相手に選んでいた。
そんなドタバタ劇を、妻のえいが幼児の蘭丸と坊丸と力丸、赤子の仙千代をあやしながら微笑ましく見守っている。
「あなた、お城が賑やかになりましたね」
「ああ。勝三の相手をしてくれるとは、ナッシーも物好きよ」
三左は縁側で茶を啜りながら、目を細めた。
妻のえい、息子たち、そして転がり込んできた赤い球体。
かつて自分が守った扇の要、ホームベースのような温かさがそこにはあった。
『儂はマユミに言うたんや。なんや「男前首脳陣」って命名、ダサいやろってな』
ナッシーが懐かしそうに語る過去の栄光と、少しの愚痴。
三左はそれを聞きながら、自分たちもいつか、こんな風に戦の日々を笑って話せる日が来るのだろうかと思っていた。
短い期間の、心温まる交流。
それは、嵐の前の静けさだった。
――ゴロゴロ……。
空が急に暗くなり、ポツリ、ポツリと冷たい雨が降り出した。
城門を激しく叩く早馬の音が、宇佐山の静寂を破る。
「申し上げます! 浅井・朝倉軍が南下! さらに比叡山の僧兵どもと合流いたしました!」
宇佐山城の目と鼻の先。
比叡山延暦寺が宗教家の矜持を忘れ、中立を破って信長包囲網に加わった瞬間だった。
三左は立ち上がり、十文字バットを力強く握りしめた。
ナッシーが覚悟を決めた赤い光を放ち、三左の肩に舞い降りる。
『……行くで、三左。ここが正念場や』
「ああ。……守護神の出番よ」
一人の漢と一球の背中に、冷たい雨が容赦なく降り注ぎ始めていた。




