第131話 長谷川真昼、小谷に潜入する
まだ薄暗い夜明け前。
北近江・小谷城の奥御殿に、ツンとした火薬の匂いがむせ返るように充満していた。
部屋の隅には山積みにされた火薬樽の真ん中で、お市の方と茶々、初、江の幼い三姉妹が、まるで春の陽だまりにいるかのような安らかな寝息を立てている。
浅井長政は、愛する妻の美しい寝顔を壊れ物を扱うように愛おしそうに見つめながら鎧の緒を締めた。
「……お市殿。貴女の望む『美しい夫』として、私は最後まで戦い抜きましょう」
長政は小さく呟いた。
妻の野望を叶える夢は潰えた。
それでも悔いはない。
あの信長を、あと一歩まで追い詰めたのだから。
「……楽しかったぞ、お市殿。ただ、私はお市殿に生きていてほしい。そこに私もいたかったが、責任は取らねばならぬ」
長政は懐から、愛用の毛抜きを取り出した。
袴の裾をわずかにまくり上げ、ふくらはぎに残っていた最後の一本の脛毛を、真剣な眼差しで挟む。
――プチッ。
「……よし。これで、完璧なツルツルだ」
一分の隙もない、美しく滑らかな足を再び袴に隠し、長政は決意を固めて立ち上がった。
城庭に出ると、そこに最後まで彼に付き従う忠臣たちの姿が見える。
海北善右衛門、赤尾孫三郎、雨森弥兵衛。浅井家が誇る海赤雨三将である。
悲壮な覚悟を秘めた死出の旅路前、彼らは一言も発さず、ただ真顔のまま、膝に手を当てて上半身をグルグルと回す準備運動をしていた。
「皆の者。付き合わせてすまぬ」
「何をおっしゃいますか長政様!」
「我らの忠義、長政様があってのもの!」
「長政様の夢を叶えるのが我らの役目!」
「「「我らの引退試合、徹底的に使い潰してくだされ!」」」
三将はピタリと回転を止め、真顔のまま力強く応えた。
長政は懐の英霊ボール『フミオ』を強く握りしめる。
フミオが、赤黒い闘志のオーラを不気味に放ち始めた。
「……行くぞ、フミオ殿。これが、私の最後の打席だ」
『ああ……女子供は守らなあかん。それが漢の役目や!』
ギギギギギ……と、小谷城の城門が開く。
浅井長政率いる少数精鋭の決死隊が、織田軍の包囲網へと躍り出た。
長政と海赤雨三将は、脇目も振らずに一直線に信長の本陣を目指して特攻していった。
フミオの力を得た長政の長槍は、まさに伝説の物干し竿の打棒の如し。
フルスイングするたびに暴風が巻き起こり、織田の雑兵たちを次々と天高く薙ぎ払っていく。
「義兄上ぇぇぇ! 覚悟ぉぉぉ!」
猛攻する長政だったが、織田軍の分厚い中堅守備陣が本陣の手前で前に立ちはだかる。
軍師・竹中半兵衛が扇子を開き、涼しい顔で織田諸将に指示を飛ばす。
「……長政殿の突進ルート、完璧にデータ通りです。成政殿、利家殿、恒興殿。確実にアウトを取ってください」
「任せとけ! 狂った野郎の相手は俺の得意分野だ!」
前田利家が、特大の金属バットをブンと振り回す。
「俺のレーザービームで、進軍を止めてやる!」
佐々成政が、剛速球の石礫を雨あられと投げつける。
「横の動きなら誰にも負けぬ! 抜かせはせんぞ!」
池田恒興が、美しいカニ歩きで長政の進路を塞ぐ。
強肩、強打、いぶし銀の守備。完璧な連携が、浅井軍の特攻を阻む。
長政に迫る利家の金属バットと成政の剛速球。
海赤雨三将が長政の前に壁となって立ち塞がった。
「殿! ここは我らが!」
「浅井の誇り、見せつけてやりましょう!」
彼らは成政の石礫を胸に受け、利家のバットに吹き飛ばされながらも、決して真顔を崩さなかった。
「お市様の見合いで、外野フライを処理していたあんたら、最高に輝いていたぜ。また、したかったな」
利家の一撃が海北善右衛門を捉えた。
「……ああ、地獄で練習して待ってるぞ」
海北の死を無駄にしまいと、赤尾孫三郎がくぐり抜けるように突進するも、石礫が全身に直撃してしまう。
「見事だ。佐々成政、次は掻い潜ってみせる……」
「……ハッ! 次も俺が刺すさ……」
孫三郎の死体の上を、雨森弥兵衛が跳躍する。
……も、恒興の横っ飛びで阻まれ、そこへ無数のバットが振り下ろされていった。
「……遠いですな、恒興殿。ヒットコースは」
「悪くありませんでしたよ。……次の勝負を楽しみにしてますね」
こうして浅井家が誇る海赤雨三将は、最期の瞬間まで果敢に戦い、織田軍を翻弄しながら壮絶に散っていったのだった。
「海北! 赤尾! 雨森! ……すまぬ!」
忠臣たちを失い、全身血まみれになりながらも長政は止まらない。
フミオの燃え盛る闘魂だけを頼りに、前へと進み続けた。
満身創痍の長政が、ついに信長の本陣手前まで辿り着く。
荒い息を吐き、槍を杖代わりにして立つ長政の前に、半兵衛がそっと進み出る。
横に精密機器のように回転する英霊ボール『モリミチ』が浮遊している。
半兵衛は、血に濡れた長政に向かって深々と一礼した。
「長政殿。……一時期、浪人の身であった僕を、浅井家で客将として厚遇してくださった御恩、決して忘れてはおりません」
半兵衛の両瞳に潤みが溜まる。
「……貴殿はまごうことなき名将にして、浅井家の誇りでした」
半兵衛の言葉に、長政も苦しげに目を細め、視界が滲む。
そこへズシンと重い足音を響かせて、金属バットを肩に担いだ信長が姿を現した。
傍らに真っ赤に燃え盛る英霊ボール『センイチ』が浮かんでいる。
『フミオさん……。最後までグラウンドに立ち続けるアンタの闘魂、このセンイチが、しかと見届けさせてもらうぞ!』
『おう、見とけ! 球場のファン全部、儂らに魅了されるのをなあ!』
『……うううう! フミオさん! 儂らの世代、全員あんたのファンじゃったぞ』
センイチもまた、偉大な大先輩であるフミオの姿に、複雑な感情を抱きつつも闘志を燃やしていた。
信長は冷たいが、どこか哀悼の念を込めた声で長政に問う。
「……自ら腹を切るのではなく、あくまで前を向いて討ち死にを選ぶか、長政」
長政は息も絶え絶えに、フッと微笑んだ。
「……義兄上。お市殿を、頼みます」
それは天下を争う武将としてではなく、一人の不器用な夫としての最期の願い。
「お市殿の罪は夫である私の罪……!」
悲痛な長政の吐露に、半兵衛がすかさず答える。
「ご安心を、長政殿。真昼殿と秀吉殿なら、すでに信包様の案内で小谷城の奥へ向かっております。……あの火薬に火がつく前に、必ずお市様と子供たちをお救いするでしょう」
――真昼が向かっている。
そう聞いた瞬間、長政の顔から、今まで張り詰めていた糸がプツリと切れた。
憑き物が落ちたように、フッと、この世のものとは思えないほど美しく、優しい笑みが浮かぶ。
「……そうか。ならば、もう何も思い残すことはない」
長政は血に濡れた長槍をゆっくりと構え直した。
フミオボールが極大の赤黒いオーラを放ち、長政の全身を炎のように包み込む。
「行くぞ、フミオ殿! 代打の神様などいらぬ!」
『そうとも! 生涯現役! 己の力一振りで運命を切り拓けえええええ!』
長政とフミオの絶叫が、夜明けの空に響き渡る。
「私は最後まで、浅井の4番打者だああああああ!」
凄まじい気迫と共に、長政は信長へ向かって最後の突撃を敢行した。
迎え撃つ信長もまた、バットを力強く構え、咆哮を上げる。
「来い! 長政ァァァァァ!」
長政の物干し竿と、信長の金属バットが激突すると火花が弾け飛び、凄まじい衝撃波が本陣を吹き飛ばした――
***
――その頃、私は。
「急いで! 秀吉さん、秀長、信包様! 間に合わなくなっちゃう!」
私は金属バットを片手に、小谷城の裏手にある急な斜面を、息を切らしながら駆け上がっていた。
信包様の案内で、手薄になった裏道から本丸の奥御殿を目指しているのだ。
「真昼、足元に気をつけろ! 火薬の匂いが濃くなっている!」
秀吉さんの声にも焦りが滲む。
すると背後の麓の方から、空気を震わせるような激しい金属音と、信長様の咆哮が聞こえた。
長政さん……。
私は溢れそうになる涙をグッと堪え、前だけを向いた。
お市ちゃんの狂気を止めるのは私しかいない。
爆弾心中なんてふざけたゲームセット、絶対にさせてたまるもんか!
「……お市ちゃん、決着の時だよ」
私は泥だらけのローファーで地面を蹴り、火薬庫と化した小谷城の最深部へと飛び込んでいった。




