第130話 長谷川真昼、お市ちゃんとの決着に向かう
越前朝倉家を滅ぼした私たちは、休む間もなく北近江へと戻ってきた。
虎御前山に着陣した織田信長様の本陣からは、眼下に小谷城が指呼の距離に見下ろせる。
琵琶湖に私たちが造った巨大戦艦が不気味な影を落とし、逃げ道を完全に塞いでいた。
「……いよいよだね」
私はバットを握りしめ、小谷城を見つめた。
あの中に、お市ちゃんと長政さんがいる。
かつての仲間。でも今は、倒さなければならない敵。
「……行くぞ真昼、秀吉が動く」
信長様の言葉と同時、小谷城の方角から轟音が響いた。
***
小谷城、本丸の奥御殿は外から聞こえる鉄砲の音や兵士の怒号など、まるで別世界の出来事のように、お市の方は鏡台に向かっていた。
「うふふ……。紅はもう少し濃い方がいいかしら。真昼は情熱的な色が似合うと言ってくれたもの」
お市は恐怖など微塵も感じていなかった。
むしろ、胸を満たすのは甘美な高揚感。
邪魔なお兄様、信長をこの城に誘い込み、殺して、ようやく真昼を独り占めできる――その妄想だけで、彼女の身体は熱く疼いていた。
ドガァァァァン!
突如、城全体が揺れるほどの衝撃が走った。
お市がゆっくりと窓を開けると、小谷城の要衝である京極丸から黒煙が上がっているのが見えた。
「申し上げます! 京極丸、陥落! 羽柴秀吉隊が清水谷の崖を駆け上がり、奇襲をかけました!」
侍女が悲鳴を上げて報告に来る。
京極丸が落ちたということは、本丸にいる長政・お市と、小丸にいる父・久政との連絡が完全に遮断されたことを意味する。
城は分断され、組織的な抵抗が不可能になったのだ。
それでも、お市は燃え盛る京極丸を見て、うっとりと頬を染めた。
「あら、帰蝶お姉様ったら。……私のために、余計なゴミを掃除してくれたのね」
「え……?」
「久政義父様は口うるさかったもの。これで長政様と私、そして真昼だけの静かな愛の巣が作れるわ」
常軌を逸した解釈に、侍女は言葉を失い、後ずさりした。
***
孤立した小丸の曲輪で浅井久政は、迫りくる織田軍の声を背に白装束へと着替えを済ませた。
「……長政よ。お主は、お市殿という魔物に魅入られたか……」
久政は嘆息した。
あの日、長政を信長から裏切らせたのは自分だ。けれど、その後の浅井家のお市を中心とした狂気に、もはや久政の手綱など届かなかった。
「浅井の家名はここで尽きる。……が、我が魂までは魔道に堕ちぬ!」
久政は短刀を自らの腹に突き立て、48年の生涯を閉じた。
***
浅井久政自刃の報が入った織田本陣、そこですかさず信長様の弟の信包様が進み出てくる。
「兄上、降伏勧告の使者をそれがしに命じてくだされ」
「ふむ。まあよかろう」
「条件は?」
「三十郎(信包)の好きにしていいぞ」
「承知!」
「私も行きましょうか?」
速攻で私も挙手する。お市ちゃんと長政さんを説得するチャンスなんて、これが最後だろうから。
「いえ、今回はそれがしのみで行きます。……真昼殿が行けばややこしくなりそうなので」
ボソッと呟く信包様。
「真昼が行ったら、浅井家はこれが最期の時と自決するだろう。ここは三十郎に任せよ」
「信長様! それってどういう意味⁉」
私のツッコミをスルーし、信長様は小谷城を見つめた。
***
家臣たちが我先にと逃亡する中、長政は粛々と筆を走らせていた。
残っているのは、海赤雨三将の海北善右衛門、赤尾孫三郎、雨森弥兵衛や、片桐直貞らごく少数の忠臣だけ。
長政は上座で英霊ボール『フミオ』を傍らに置き、彼らに感状を手渡していく。
「皆が織田家に寝返る中、其の方らの忠節、比類なし。……フミオ殿も『最後までグラウンドに立つ者こそが真の猛虎』と申しておる」
『おうよ! ゲームセットまで、何が起きるかわからんのが野球じゃ! 最後まで観戦しないで帰るファンなど銀傘に刺しとけ!』
マツキが倒され、呪縛から解き放たれたフミオが赤黒く明滅し、長政を鼓舞する。
長政は感状を渡し終えると、おもむろに袴を捲り上げた。
手には愛用の毛抜きが握られている。
「……さて。お市殿と共に死ぬのだ。美しい夫であり続けねばならん」
プチッ、プチッ。
長政は真剣な眼差しで、脛毛を一本一本、丁寧に抜き始める。
城が落ちようとしているのに。
外では殺し合いが続いているのに。
なのに長政の姿は輝くほどの愛に満ちていた。
「殿……」
赤尾孫三郎が涙を流して平伏する。
「それがしたちもお供仕ります」
ブチッ、ブチッ。
毛抜きの音が長政の部屋に響き渡る。
「御免! 長政様、織田家より降伏勧告の使者が……」
そこへ、織田家の使者が単身で乗り込んできた報告が届く。
織田信長の弟であり、お市の兄でもある織田信包だ。
彼は武装を解き、丸腰で小谷を訪れてきた。
長政は市に報せ、夫婦揃って会うことを決意する。
「市よ! 長政殿! 兄上の温情だ!」
小谷評定の間、姿を表した妹夫婦に信包は必死に叫ぶ。
「降伏せよ! 兄上は『市と子供たちは助ける。長政も命までは取らぬ』と仰せだ! 城を明け渡し、織田家に戻れ!」
長政は腕を組んで沈黙を保つ。
信長にしては破格の条件である。
妹への情けか、それともこれ以上の犠牲を避けるためか。
はたまた信包の虚言か。
思案する長政に対し、お市のほうは氷のような冷笑を浮かべ、信包を見下ろしていく。
「降伏? お断りよ」
「な、なぜだ市! 死ぬ気か! 親父殿(信秀)の元へ行くにはまだ早すぎるわ!」
必死の説得をする信包だったが、お市は一蹴する。
「……どうせお兄様のことだわ。私を真昼から引き離し、脛毛の手入れもしない無骨な髭もじゃ男の慰み者にするつもりでしょう? 死んでも嫌よ」
「……は?」
脛毛? 何の話だ? 信包が混乱する中、お市は妖艶に微笑み、扇子を開いた。
「それにね、信包兄様。……もう手遅れなの」
お市が扇子を振ると、部屋の襖が一斉に開け放たれる。
「な……ッ⁉」
信包は戦慄した。
部屋の周囲、廊下、いたるところに黒い粉が撒き散らされ、火薬樽が山積みにされていたのだ。
堺や雑賀から取り寄せた、城一つを吹き飛ばせるほどの大量の火薬。
さらに信包を凍りつかせたのは、その火薬の中で遊ぶ幼い三姉妹の姿だった。
「わあ、さらさらしてて黒い雪みたーい!」
長女の茶々が、火薬を手ですくって空中に撒いている。
「お母様、これで悪い叔父様たちをドカンするの?」
次女の初が、導火線をおもちゃのように振り回す。
「キャッキャッ!」
三女の江が、火薬樽を太鼓のように叩いている。
「ひ、ひぃぃぃ……!」
信包は腰を抜かした。
これはヤバい。元々織田家一族で激ヤバな性格の市のリトルコピーが、3体もいたのだ。
「この城は巨大な爆弾よ」
お市は恍惚とした表情で宣言した。
「織田軍が雪崩れ込んできた瞬間、真昼を抱きしめて……全員諸共、あの世へのハネムーンに旅立つの。ロマンチックでしょう?」
これは説得不可だ。
信包はガタガタと震え、「この馬鹿妹が……!」と呟き、逃げるように部屋を飛び出した。
城門まで信包を見送りに来た長政。
彼の懐にある『フミオ』は、赤黒く、しかしどこか悲しげに明滅している。
「……信包義兄上。頼みがある」
長政が信包の袖を掴む顔に、先程までの脛毛を抜くのと同じ、武人としての覚悟が宿っていた。
「な、なんだ長政殿。なぜ火薬を調達した! お主なら市がどう動くか分かっていたはずだろ!」
「……妻の望みを叶えるのが夫の務め。お市殿が地獄へ行くなら、私が先導せねばなりますまい」
「……最初から死ぬ気か。残念だ。兄上はお主を高く評価していたのに」
長政は寂しげに微笑むと、周囲を憚るように声を潜め、信包の耳元で囁いた。
「それがしは死ぬ道しかありますまい。義兄信長の期待を裏切った報いとして。……ですが、子供たちと市だけは……どんな手を使っても助けてほしい」
「長政殿……?」
「あの火薬に火をつける前に、どうか……織田の手で連れ出してくだされ。それがしはここで、フミオ殿と散る覚悟ゆえ」
長政は深く一礼した。
そして、ツルツルに剃り上げた自分の脛を愛おしそうに撫でた。
「それがしができる、最後のご奉公でござる。……あの方の愛した美しい夫のまま、盾となって散りましょう」
信包は言葉を失い、ただ頷くことしかできなかった。
長政のあまりにも深く、悲しい愛の囁きに。
信包が去った後、長政はお市の元へ戻った。
火薬の匂いが充満する部屋で、お市は満面の笑みで長政を迎えた。
「長政様、準備はいい? もうすぐ真昼が……私の愛しい真昼が、ここに来るわ」
長政はお市を優しく抱きしめた。
「ああ、お市殿。貴女の望むままに」
小谷城を取り囲む織田軍の鬨の声が強まっていく。
最終決戦の幕が上がる。
愛と狂気と火薬に彩られた、浅井家の最期が始まろうとしていた。




