第122話 長谷川真昼、涙の引退試合を演出する
夏の日差しが照りつける琵琶湖の湖面を、巨大な影が進んでいく。
先月完成したばかりの、百挺の櫓を備えた織田家の新造戦艦だ。
甲板で風に吹かれながら、私は呆れたように前方の景色を眺めていった。
「うわぁ……。対岸の坂本城の人たちが豆粒みたいに見えるよ」
「フン。あれを見よ真昼。公家どもが腰を抜かしておるわ」
隣で信長様が金属バットを望遠鏡のように構えて笑う。
なんで船に乗っているかというと、義昭様がまた挙兵しちゃったのだ。
どうも真木島昭光っていう幕府の名家の人に唆され、毛利が味方すれば状況を覆せると意気軒昂しちゃって、毛利の返答を待たずに、これで勝てると思い込んだようだ。
けれど、毛利輝元は義昭様を拒絶した。
情報を聞いた私たちは、この巨大戦艦で琵琶湖を渡り、そのまま上洛して妙覚寺に着陣。
行軍速度と、湖上に現れたバケモノ船のインパクトに、京の公家衆は完全に戦意喪失。
「我々は将軍とは無関係! 勘弁してください!」
と、即座に織田家を全面的に支持した。
「さて、残るは宇治に引きこもった上様のみ」
半兵衛君が扇子を開き、涼やかに宣言する。
「義昭様は槇島城に籠城中。宇治川と巨椋池という天然の水流に守られた要害ですが……彼はまだ気づいてないようですね」
「何に?」
私が訊ねると、半兵衛君はクスッと笑った。
「もう、敗北していることに」
***
宇治川のほとりは連日の雨で増水した激流が、轟音を立てて流れている。
普通の神経なら渡河なんて考えないレベルの濁流だ。
対岸の槇島城からは「渡れるものなら渡ってみろ!」という油断しきった空気が漂っている。
けれど半兵衛君は余裕。
諸将を集め、作戦の下知が飛ぶ。
「軍を二手に分けます。平等院の北東から稲葉一鉄、斎藤利治、氏家直通(長島で戦死した直元さんの息子さん)ら美濃衆。五ヶ庄からは佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、長谷川真昼、木下秀吉、荒木村重ら主力部隊」
半兵衛君の采配が飛ぶ。
まさに織田家オールスター布陣。一軍のレギュラー全員投入だ。
って、しれっと私の名を混ぜるなよ。
私は織田軍の部将職じゃないぞ?
「いくぞ! プレイボール!」
信長様の号令と共に、織田軍が躊躇なく激流へ馬を乗り入れた。
泥だらけのクロスプレーのような渡河作戦。
真夏の太陽の下、水飛沫を上げて突っ込んでくる数万の軍勢に、槇島城の守備兵は度肝を抜かれたようだ。
「ひ、怯むな! 撃て! 撃てえ!」
驚愕状態で撃ってくる弓矢や火縄銃なんて威力半減。
金属バットで防御して、どんどん弾き返していく。
「バケモノだ! 逃げろぉぉぉ!」
巳の刻(午前10時頃)。
四方八方からの強襲を受け、難攻不落を誇っていた槇島城は、あっけなく陥落した。
ドカカカッ! と襖が蹴破られ、金属バットを担いだ信長様が槇島城内の本丸に突入成功。
鬼の形相をした柴田勝家さんと冷徹な目の明智光秀さんに、私と秀吉さん、秀長も一緒だ。
「よお、上様。朝飯か? 優雅なもんだな」
まだ朝食の途中だった足利義昭様は、箸を持ったまま震えていた。
「えっ……? 嘘じゃ……本願寺は? 久秀はどうしたあああああああ!」
信長様がバットの先端を義昭様の鼻先に突きつける。
義昭様は「ひっ!」と悲鳴を上げ、高価な茶碗を取り落とした。
「の、信長……! よ、余は将軍ぞ! 征夷大将軍ぞ! 貴様、主君を殺せば逆賊として末代まで……」
「殺しはせんよ」
信長様は冷たく言い放ち、バットを下ろした。
「殺す価値もない。……貴様は戦力外だ。自由契約として追放する」
「な……戦力、外……?」
「これにより足利幕府は解散する。貴様はどこへなりとも消えるがいい」
『世話になったな将軍。これより我ら織田ドラゴンズは、オーナーなしで運営する』
センイチがとどめを刺す。
それは死よりも残酷な宣告だった。
将軍としての権威、プライド、未来の全てを剥奪された瞬間だった。
***
槇島城を追い出された義昭様は、河内国の若江城――妹婿である三好義継さんの元へ護送されることになった。
警護役を任されたのは、秀吉さん、秀長、それに私だ。
道中、義昭様はまだ豪華な羽織を着て、金銀財宝を積んだ籠に乗っていた。
往生際が悪いというか、まだ将軍であることにしがみついている。
「ええい、揺らすな! 駕籠かきども! 余を誰だと思っている!」
義昭様が喚き散らしていると、沿道の草むらから殺気立った集団が飛び出してきた。
野盗化した農民たちだ。
「おい、ありゃ将軍じゃねぇか?」
「お宝持ってんぞ!」
「ひっぺがせ!」
彼らに将軍への敬意なんてない。あるのは剥き出しの欲望だけ。
「ひぃぃ! 無礼者! 余は公方ぞ!」
義昭様の叫びも虚しく、石礫が飛んでくる。
「危ない!」
私が金属バットで石を弾き飛ばす。
秀長が猿の俊敏さで賊の足を払い、秀吉さんもバットで威嚇する。
「無礼者! 我らの旗印が見えぬか! 織田に歯向かう報いを受けるつもりか!」
「ウキー! ウキー!」
秀吉さんと秀長が一喝するが――
「な~にが木下小一郎秀長じゃ! 田舎もんの名前に価値なんぞないわ!」
と言う賊のひと言にショックを受ける秀長。
てか、なんで秀長の言葉がわかるんだよ。
あっ、秀長め、紙に書いて指さしていたわ。
そんな一幕がありつつも、私たちは何とか賊を追い払った。
でも、乱闘の中で義昭様の籠はひっくり返り、大切な茶器や着物は奪われてしまっていた。
残ったのは泥だらけの薄汚れた小袖一枚と、自分の身一つ。
若江城に近い河原で、私たちは休憩を取った。
夕暮れの川面が、赤く染まっている。
義昭様は石の上に座り込み、膝を抱えて大粒の涙を流していた。
「うぅ……うぅ……。余の宝が……余の威厳が……」
子供のように泣きじゃくる姿に、秀吉さんが冷ややかに、でも憐れむような視線を投げかける。
「……上様。なぜ信長様を裏切ったのです? 素直に信長様の神輿に乗っていれば、安泰でしたのに」
秀吉さんの問いに義昭様は顔を上げ、嗚咽混じりに叫んだ。
「余が……余が将軍なんじゃ……! 天下を統べるのはこの足利義昭じゃ……! なのに信長は、余をただの飾り物にした! 意見書ばかり送りつけて、余の面目を潰した! 裏切ったのは信長じゃ……!」
それは、プライドだけで生きてきた男の魂の叫び。
自分が自分でいられなくなる恐怖。
誰かの操り人形として生きる屈辱。
私は手ぬぐいを水で濡らし、義昭様の泥だらけの顔を拭いてあげた。
「……義昭様」
「なんじゃ……小娘……。お主も余を笑うのか……」
「信長様は、義昭様を裏切ってませんよ」
私は優しく告げた。
「義昭様という権威があったからこそ、信長様はここまで早く畿内に平和を取り戻せたんです。それは紛れもない事実です」
「……利用されただけじゃ! 余の血筋を!」
「ええ、利用しました。でも、そのおかげで助かった民も多いんです。貴方が京にいたからこそ、都は戦火から守られていました。……貴方は間違いなく、平和の象徴だったんですよ」
義昭様の動きが止まった。
「平和……そうか、余の権威で平和になったのか……」
彼は力なく笑いだす。
「じゃが……その平和の輪に、余は入れないのか。余だけが、蚊帳の外か」
義昭様の孤独が痛いほど伝わってくる。
彼はただ、認められたかっただけなんだ。
信長様という巨大な才能の隣で、自分も何かを成し遂げたかっただけなんだ。
「……義昭様。命があるんです」
私は義昭様の肩に手を置いた。
「これからは将軍という重荷を下ろして……亡命先で野球でもどうですか?」
「……やきゅう?」
「はい。身体を動かすと、嫌なことも忘れますよ。ボールを打つ瞬間だけは、誰だって主役になれるんです」
義昭様は涙を袖で拭い、夕焼け空を見上げた。
「野球……か。……信長が熱狂する、あの球遊びか」
彼はポツリと呟く。
「……余にも、打てるかのう」
「打てますよ。私がコーチしますから」
義昭様は小さく頷いた。
もう背中は、かつての威張り散らしていた将軍ではなく、重い鎧を脱ぎ捨てて疲れ果てた、ただの人間、足利義昭のものだった。
こうして、237年続いた室町幕府は滅亡した。




