第119話 長谷川真昼、包囲網の再点火を確認する
武田信玄という巨星が墜ちた三河の雪原を背にして、私たちは岐阜への帰路についていた。
すると道中、国境の峠道で男が雪景色に溶け込むように立っていた。
備前の怪物、宇喜多直家だ。
「やあ、信長様、真昼殿。……賭けは、貴殿らの勝ちのようですね」
直家は優雅な仕草で、袋からジャラジャラと英霊ボールを取り出した。
ミズハラ、スギウラ、コウジ……。信玄との決戦前に、信長様が担保として預けていたボールたちだ。
「ほっ……! 欠けてない! 毒も塗られてない!」
私は慌ててボールを回収し、一つ一つ確認して安堵の息を漏らす。
直家は、私が渡した黄金のボール――信玄から受け継いだシゲオを愛おしそうに指で撫で回していた。
「……素晴らしい。これほど純粋な光は、私のような裏切りと暗殺で汚れた手には眩しすぎる。……だからこそ、汚したくなりますな」
直家の瞳の奥に、ドス黒い粘着質な欲望が渦巻いているのが見えた。
うわぁ……この人、根っからの危ない人だ。
綺麗なものを汚したくなるタイプのアブない人だ。
信長様は直家の視線を正面から受け止め、冷ややかに告げた。
「直家。約束通りシゲオは貴様に預ける。……だが、太陽を使いこなせねば、すぐにでも首を獲りに行くぞ」
「クックック。……肝に銘じておきましょう。では、備前でお待ちしております。私は信長様が裏切らない限り、裏切りません。ええ、きっと」
直家は恭しく一礼すると、吹雪の中へと消えていった。
私はブルリと身震いした。
「……二度と関わりたくないタイプだね。あの人、歩くハザードマップだよ」
「フン。毒も使いようよ。……さて真昼、急ぐぞ。東の怪物が消えても、西の阿呆が騒ぎ出す頃だ」
***
岐阜城に帰還した私たちを待っていたのは、火鉢の効いた暖かい部屋と、氷のように冷徹な竹中半兵衛君の報告だった。
「お帰りなさいませ。……早速ですが、盤面の整理を」
半兵衛君が広げた地図には、赤い✕印と、青い矢印が無数に書き込まれている。
「まず三方ヶ原の惨敗について。家康殿は辛くも生還されましたが、徳川軍は物理的・精神的に崩壊状態です」
「家康さんは?」
「浜松城に引きこもり、ノムサンと共に『なんで武田はあんな動きをしたんや』『データにない野球しやがって』とボヤき続けているそうです。……まあ、再起には時間がかかるでしょう」
あのタヌキも、さすがに心が折れたか。
でも生きててよかったって思わないとね。
「問題はこちらです。将軍・足利義昭様」
半兵衛君が扇子で京を叩く。
「三方ヶ原での信玄の勝利という報せを受け、義昭様は完全に気が大きくなられました。全国の大名に対し、打倒信長の御内書を乱発しております」
「……まだ信玄が死んだこと、知らないんだね」
「はい。武田軍は喪を伏せて甲斐へ撤退中ですから。義昭様は『信玄が勝った! 信長は終わった! 今こそ余が天下を取り戻す時じゃ!』と、勝利を確信してベンチで鼻歌を歌っている監督のようなものです。……もう逆転の種が蒔かれたことも知らずに」
半兵衛君の目が笑っていない。
私たちが信玄と戦ってる間、摂津で荒木村重さんに追放された国人衆や、丹波の波多野氏らが義昭様に呼応して挙兵。
さらに石山本願寺の顕如、大和の松永久秀さん、河内の三好義継さんが呼応した。
「包囲網の再点火、か」
信長様が嘆息する。
「ええ。ですが、火元である将軍様さえ鎮火すれば、後は勝手に消えるボヤ騒ぎです」
「ええ……久秀さんって、めっちゃ義昭様と仲が悪かったのに」
私が囁くと、半兵衛君がクスッと笑う。
「上様は信長様を排除し、武田の神輿になりたい。久秀殿は織田家が滅亡すると計算した。ただ、それだけですよ」
家康さんの三方ヶ原大敗で起きた波紋。
普通なら、このまま織田家滅亡だったのだろう。
……武田信玄が突如死亡するなんて、想像できるわけないもんね。
でも、これは天運じゃない。運命でもない。無論、計算でもない。
信長様が、足掻いて足掻いて足掻きまくった結果なのだから。
「武田軍の動きの遅さに、一番ヤキモキしているのが浅井家です。当然ですね、現状で窮地に陥ってるわけですから。武田軍に向けて、草を何度も放っております」
「長政さん……お市ちゃん。今頃、何を考えてるんだろ?」
私はそっと、北近江の小谷城がある方角を見つめた。
「岩村はどうだ?」
信長様の問いに、半兵衛君が赤い✕印を指さす。
「秋山虎繁は動きませんね。恐らく、武田軍が尾張に侵攻すると同時に動く腹づもりなのでしょう」
「その危険は去ったか」
「はい。……現状、岩村を攻略する余力はこちらにありませんが、虎繁もまた、単体で侵攻すれば我らに負けると見積もっています。暫く睨み合いが続くことになります」
岩村城の秋山虎繁と織田家を裏切ったおつやさん夫婦。
こっちもまた、長政さんお市ちゃん夫婦と同じく頭が痛い問題だ。
「なら今のうちよ! 義昭を黙らせるぞ!」
信長様の決意に、半兵衛君と私は大きく頷いた。




