第118話 長谷川真昼、武田信玄を看取る
『アウト。ピッチャーライナー』
ヒロオカの冷徹なコールが、凍りついた空間に響き渡った。
信長様はグラブの中で暴れるセンイチボールを猛獣を鎮めるように強く握りしめたまま、フゥーッと長く白い息を吐いた。
グラブからは摩擦熱で煙が上がっている。
「……手が痺れて感覚がない。まさに、火の玉のような打球だ」
信長様が苦笑いしながら、そう呟く。
バッターボックスの信玄は、振り切ったバットをゆっくりと下ろした。
表情に悔恨の色はない。むしろ憑き物が落ちたような、清々しい表情を浮かべていた。
「……完敗だ。わしとシゲオの本能が、あの内角高めを打てと命じた。打った感触は最高だった。……だが、そこに貴様がいた」
信玄の胸元で、黄金のシゲオボールが夕陽のような優しいオレンジ色に輝きを変える。
『……あはは、やられたねえ。僕の特等席のコース。一番気持ちよくバットが出る場所。……でも、センちゃんは知ってたんだね。僕がそこを打つと』
信長様の手の中で、センイチが赤く明滅し、少し誇らしげに答える。
『当たり前じゃ! ワシが現役時代、何度あんたにそこをスタンドに運ばれたと思っとる! 悔しくて悔しくて、夢に見るほど研究したわ! あんたが気持ちよく振る時、打球がどこへ飛ぶかをな!』
天才の行動を執念の凡人が読み切り、真正面から受け止めた。
そこに、ヒロオカが静かに降りてくる。
『……そういうことだ。シゲオは天才ゆえに、自分の型に溺れる。センイチは凡人ゆえに、天才を殺す術を考え抜く。……この勝負、データが本能を上回った。それだけのことだ』
ヒロオカの言葉は辛辣だけど、どこか「よくやった」という響きを含んでいた気がした。
「……ゴホッ! ゴホッ……!」
緊張の糸が切れた瞬間、信玄が激しく咳き込み、大量の血を雪の上に吐き出した。
ドサリと、巨体が崩れ落ちる。
「信玄!」
信長様が駆け寄り、信玄の身体を支える。
もはや信玄に、先程までの鬼神のような覇気は残っていなかった。
あるのは死期を悟った英雄の穏やかな瞳だけ。
「……信長よ。……楽しかったぞ。最後の最後で、こんなメイク・ドラマが待っているとはな」
信玄は震える手で懐を探り、黄金のシゲオボールを取り出した。
そして、私の方を見る。
「……小娘。受け取れ。こいつは、わしらのような古き者には眩しすぎる。……新しい時代へ連れて行ってやってくれ」
「……はい」
私は信玄の手から、温かい、太陽のようなボールを受け取った。
ずしりと重い。
これが戦国最強と呼ばれた男と、球界の太陽と呼ばれた男の魂の重さ。
『信玄ちゃん……ありがとう。君との王道、楽しかったよ』
シゲオの声が、優しく響く。
「……ああ。……さらばだ、永遠の背番号3よ」
「『我が武田信玄の魂は永久に不滅……』」
シゲオと信玄が囁いた刹那、周囲の空気がバリバリと音を立てて砕け散った。
ヒロオカの結界が解けたのだ。
一瞬にして、外の吹雪と騒音が戻ってくる。
『……長いは無用。去るぞ』
ヒロオカの冷徹無慈悲な声に、走り出す私たちだったけど、信長様が振り返り、ひと言だけ信玄に告げる。
「永久欠番の背番号3か。……3年は、あんたのいなくなった武田に攻め込まないと約束してやるよ」
そんな信長様に、信玄は乾いた笑い声を出す。
「ほざけ信長。3年は武田を攻める余裕がないの間違いだろ」
「ハハハ……あんたが同年代なら、もっと楽しかっただろうな」
こうして私と信長様による、最初で最期の武田信玄との勝負は幕を閉じた。
――私たちが去った直後。
「御館様ッ!」
「血が! ……御館様ああああああ!」
結界が消えたことで、異変に気づいた山県昌景や馬場信春たちが、血相を変えて陣幕に雪崩れ込んできた。
信玄は最期の力を振り絞り、カッと目を見開いて一喝した。
「控えろッ!」
その声の威力に、昌景たちがたじろぐ。
「最期よ。しんみり逝かせよ」
「お、御館様……最期、とは……」
馬場信春が崩れ落ちる。
信玄は虚空を見つめ、遺言を紡ぐ。
「……わしの死を、3年の間秘せ。兵を甲斐へ戻せ。……勝頼には、時が来るまで動くなと伝えよ。……山よ、動くなと」
信玄の視線が虚空を漂う。
「……信長。天下を……頼んだぞ。……シゲオの言う、クリーン・ベースボールとやらを……この血塗られた日の本で……」
信玄の手が、ガクリと落ちた。
瞳から光が消え、偉大なる巨星が、三河の雪の中で静かに堕ちた。
「御館様ァァァァァァッ!」
武田軍の慟哭が、夜空に響き渡った。
***
私たちは武田軍から無事に脱出した。
誰も追ってはこなかった。
彼らは偉大な指導者を失った悲しみで、戦う気力を喪失していたからだ。
帰り道、雪道を歩きながら、私は手の中にあるシゲオボールを見つめていると、ヒロオカが囁いてくる。
『……信玄は死んだ。約束通り、シゲオは貰い受ける』
「わかってるって。ちゃんとこっちが預けた英霊ボールたちも返してよ」
『当然だ。約束を護らぬ者に未来はない』
「いやいや、和睦した相手と抱き合って殺すような、殺戮マシーンのボールに言われても説得力ないよ」
そんな私の呟きに、攪乱作戦を終えたワカマツがヒロオカの横に並ぶ。
『織田の皆様、本当におめでとうございます!』
「えっと、ありがとう。……いや、それ、こっちが言うセリフじゃね? シゲオを受け取るの、そっちだし。直家さんに伝えてよ? シゲオを悪いことに使うなって」
『あはは。小娘、直家はヒロオカさんと同じなのさ。鉄面皮に見えるが、誰よりも情深く、誰よりも選手たちに勝利を与えてやりたいだけ。まあ、これに気づいたのは、スワローズの僕と、ライオンズのタブチさんぐらいだけどね』
へえ? それって感情の有無の差ぐらいで信長様とセンイチと同じじゃ?
『僕なんか酷いもんだよ。いっつも叱られていた。褒められたことなんて一度もないんだ。試合中、何度もぶっ殺してやろうと思ったよ。……でも、ヒロオカさんに厳しくされたから、その後の僕があるんだ。僕が監督になった時に心配して電話まで……』
『ワカマツ。余計なことを言うな』
ヒロオカの呟きが、少しだけ優しく聞こえた。
「って! 騙されないよ! 暗殺はもう辞めるように直家さんに言うように! わかった? ヒロオカさんにワカマツさん!」
『『……』』
「そこ、沈黙しないでえええええええ!」
私の絶叫が木霊する中、信長様が苦笑する。
「行くぞ、真昼。東の脅威は去った。……次は、こっちが反撃する番だ」
「……そうだね」
『信長、一つ訊きたい。貴様が動かんでも、信玄は寿命で死んでいた。それについてはどう思っている?』
ヒロオカに問われ、信長様は即答する。
「動かなきゃ、英霊ボールは回収できんだろ? それに、信玄と勝負できて俺は満足したぜ」
「だよね! 最初はどうなることかと思ったけど、信玄さんとシゲオとわかり会えた気がするよ。当然、ヒロオカさんとワカマツさんともね!」
信長様と私の言葉に、ヒロオカは苦笑した。
嫌味とは違う、温かみのある音色で。
最大の強敵・武田信玄は倒れた。
でも、乱世はまだ終わらない。
英霊ボールたちの回収も道半ば。
今回は味方になってくれたヒロオカたちとも、いずれ戦う時が来るだろう。
私は気を引き締めながら、信長様の横に立った。
――【織田家存亡の危機、武田信玄上洛編】完
【反撃開始、お市ちゃんの野望瓦解編】に続く




