第116話 長谷川真昼、武田信玄と対峙する
雪の降る三河国、野田城近郊の武田本陣。
外の静寂とは裏腹に、陣幕の中は異様な熱気と濃厚な血の匂いに満ちていた。
「……信玄ちゃん! ダメだ、ベンチに下がって! これ以上はドクターストップだよ!」
黄金色に輝く英霊ボール『シゲオ』が、悲痛な叫び声を上げて激しく明滅する。
吐血し、雪崩のように崩れ落ちた武田信玄の身体は病魔に蝕まれ、もう指一本動かすのも不可能なはず。
――なのに。
「……ククッ」
信玄の喉の奥から、低く、地響きのような笑い声が漏れた。
口元を鮮血で赤く染めながら、信玄はゆらりと立ち上がったのだ。
表情に苦悶の色はない。あるのは獲物を見つけた猛獣のような、凶悪で、そして子供のように無邪気な笑み。
「……シゲオ、黙っていろ。目の前に最高の好敵手が、わざわざ首を差し出しに来たのだ。……これを振らずして、何が武田信玄だ」
ドォォォォォン……!
信玄の全身から目に見えないほどの覇気が立ち昇る。
それは死にゆく者の灯火なんかじゃない。全盛期、いやそれ以上のプレッシャーとなって、私と信長様を襲った。
「うぐっ……! なにこれ、重力がおかしい……!」
私は後ずさりしそうになった。
でも信長様は一歩も引かず、むしろ楽しそうに口角を上げている。
「一つ聞きたい」
信玄が血を拭いもせずに、ギラギラとした眼光で信長様を射抜く。
「あの猜疑心の塊である、備前の白面の野猪、宇喜多直家をどうやって動かした? 貴様の土下座や、英霊ボールの理屈だけで奴が動くはずがない。奴は損得でしか動かん男ぞ」
信玄の問いに、信長様はフッと不敵に笑い、懐から取り出したセンイチを握りしめて答えた。
「簡単なことよ。俺が持っているセンイチ以外の全ての英霊ボールを、直家に預けた」
「……は?」
信玄が素っ頓狂な声を上げる横で、信長様は涼しい顔で続ける。
「もし俺がここから生きて戻らねば、ボールは全て直家の物。俺が武田信玄から一つでも英霊ボールを奪えば、それも奴にやるとな。……ローリスク・ハイリターン。奴はそういう賭けが大好物だからな」
――岐阜を発った直後の京でのことだ。
黒田官兵衛さんに連れられて現れた宇喜多直家というオジサマ。
若い頃はさぞかし美少年だったろうと思わせる、妖艶な色気を纏ったイケオジだった。
一見すると、優しそうなロマンスグレーの紳士。
でも、官兵衛さんが読み上げる履歴書がエグすぎた。
『宇喜多直家殿は、妻の父である中山勝政を酒宴に招き毒殺して居城と領地を奪い、世に出た御仁。さらに和睦の宴席で抱擁しながら祖父の仇の島村盛貫を刺殺し、浦上家での地位を盤石にし、鉄砲を使って備中国主・三村家親を暗殺、娘婿の松田元賢を娘もろとも自害に追いやり、浦上家から独立した当代きっての極悪非道の御仁でございます』
『官兵衛殿、お褒めにあずかり光栄にございます』
私の顔、ドン引きしすぎて口元がへの字に変形したよ。
『話は官兵衛から聞いているな? 返答は如何に?』
『ここにいるのが証拠。それがしも官兵衛殿のように、信長様に賭けましょう。信玄の持つシゲオの天敵ヒロオカ、昌景の持つアクタロウの天敵ワカマツ、お貸しいたします』
『フフフ、本音を言え、白面の野猪』
『信長様と信玄が相討ちしてくれたら、まことめでたいですな』
『良い本音だ。気に入ったぞ、宇喜多直家』
うわあ……こんな歩く殺人マシーンみたいな人に、虎の子の英霊ボールを全部預けるなんて、信長様も半兵衛君も官兵衛さんも何を考えてるやら。
ちゃんと英霊ボールたち、戻ってくるか怪しすぎない?
お父さんもお母さんと出会って財布握られるまで、よく借りパクされてたっていうよ?
「クックック、ハッハッハ! 狂ってる! 全財産を担保に、俺の首一つを狙いに来たか! 鉄斎の言う以上のうつけよ!」
信玄が腹を抱えて豪快に笑い出した。
吐血しそうなのに、笑い声は陣幕を揺るがすほど力強い。
「鉄斎……俺の従兄弟の織田信清か。あいつ、犬山城を追い出して甲斐に逃げ込んでいたな。役に立ってるか?」
信長様が眉をひそめて尋ねると、信玄は呆れ果てたように吐き捨てた。
「全然よ。あの従兄弟といい、比叡山の難民といい、貴様は扱いに困る者ばかり送り込んできやがる。甲斐はゴミ捨て場ではないぞ」
「何を言う。貴重な漆とか茶器とか物はいっぱいやったろ? ……素直に甲斐の山奥で念仏でも唱えて隠居していれば、長生きできたものを」
「フン、余計なお世話だ」
敵同士で殺し合う間柄なのに、2人の間に常人には理解できない領域で通じ合う、奇妙な空気が流れていた。
信玄が笑うのをやめ、私の方へ右手を差し出した。
「さて、一打席勝負か。……そのバット、貸してもらおうか」
「……え、あ、はい」
私は震える手で、愛用の金属バットを信玄に渡した。
「……重いですよ。色んな人の魂が乗ってますから」
信玄はバットを受け取ると、愛おしそうにグリップを握りしめ、ゆっくりと構えた。
すると黄金のユニフォーム姿の幻影――スーパースターの背番号3の姿が重なって見えた気がした。
「シゲオ、頼めるか?」
信玄がボールに語りかけると、シゲオが力強く輝いた。
『……OK、信玄ちゃん。最後だ。思いっきり、メイク・ドラマしよう』
信長様もまた、マウンド代わりの場所に立つ。
手の中のセンイチが、赤く、激しく燃え上がった。
『シゲオさん……久しぶりです。現役時代、あなたは常に太陽で、儂はその影じゃった』
センイチの声に憧れと、それ以上の闘争心が宿っている。
『センちゃん……ユーと僕は戦うのがデスティニーなんだね。V10を阻止したのもユーだったっけ。……カモン!』
太陽の天才と影の闘将。
二つの魂が火花を散らす中、その場の空気を切り裂くように、無機質で冷徹な声が響いた。
『フン。感覚だけの天才と、感情だけの闘将。……反吐が出る組み合わせだ』
ヒロオカボールが信玄と信長の中間に浮遊し、青白い光を放つ。
『だが、この勝負、儂が審判をやってやる』
「ヒロさん……!」
『ストライク、ボール、判定に文句は言わせん。……悔いなく存分にやれ』
絶対公平なる管理野球の権化が場を支配する。
『いいの? ヒロさんは僕を倒したいんじゃないの? 監督として激突した1978のように。……ヒロさんが現役引退したの、僕のホームスチールのせいだし……』
あの日……1964.8.6。
スワローズの大エース、カネヤンの前に敗北寸前で優勝からも遠のいた日。
ついにカネヤンを打ち崩すチャンスがやってきた。
ワンナウト一塁三塁となりサードベースに到達したシゲオ……だったがベンチから出たサインに頷いて、走った。
結果はタッチアウト。当然だった。なんでこんなサインが出たのか理解不能だった。
この日が最初じゃない。2日前も走ってアウトになっていたのだ。……その日もバッターボックスはヒロさんだった。
バッターボックスの、いつも冷静なヒロさんの怒りに震えた表情と、ベンチのテツハル監督の無表情。
……全てを悟った。テツハル監督が普段から監督批判をするヒロさんを粛清するために、僕を走らせたのだと。
『俺が信用できないのか!』
ベンチで激昂してテツハル監督を睨むヒロさんの声。
走るべきではなかった。
結果、ヒロさんはジャイアンツを去った。以降ジャイアンツを叩き潰す執念のみの男となる原因を僕が作ってしまったのだ……!
『たしかに貴様の目立つサード守備のせいで、儂のショート守備機会が奪われた』
ヒロオカの声には、恨み節がこもっていた。
『勘違いするなよシゲオ。……儂は貴様を倒したいと思ったことは一度もない。儂が倒したいのはジャイアンツそのもの。貴様との勝負なんぞ、センイチで十分だ』
雪の降りしきる武田本陣。
外の喧騒が嘘のように静まり返った結界の中で、信長様がセンイチを持って大きく振りかぶった。
『プレイボール!』
歴史に残らない、最後の一打席勝負が始まる。




