第115話 長谷川真昼、ミスターの孤独を知る
三方ヶ原の台地は一面の雪と、無残に散った徳川兵の骸で埋め尽くされていた。
赤い鎧を纏った武田の騎馬隊が勝鬨を上げながら、獲物を食い散らかした獣のように息を荒げている。
武田信玄は床几に座り、じっと浜松城の方角を見つめていた。
「御館様! 今こそ追撃の好機! 浜松城へ雪崩れ込み、家康の首を獲りましょうぞ!」
山県昌景が返り血でさらに赤くなった顔で進言するが、信玄は首を横に振った。
「……ならん。これ以上の深追いは無用だ」
「な、なぜでございますか! 敵は壊滅状態、あと一押しで……」
「家康は死んだも同然。死体に鞭打つ趣味はない。……我らの目的は京だ。西へ向かう」
信玄の声は重々しく、神秘的な音色に包まれていた。
家臣たちが不満げに下がる中、信玄は懐の英霊ボールをそっと握りしめた。
黄金色に輝く太陽の魂、シゲオだ。
『……信玄ちゃん、それでいいの?』
シゲオの声が、信玄の脳裏に響く。
『徹底的にやらないと、後でひっくり返されるよ? 野球は9回裏ツーアウトからが怖いんだ。メイク・ドラマを起こされる側になっちゃうよ?』
「……いや、時間がないのだ、シゲオよ」
信玄が小さく咳き込むと、手巾に僅かに血が滲む。
脳裏に、かつて自らが追放した父・信虎の背中と、自害させた嫡男・義信の顔が浮かぶ。
「わしは父を追い出し、子を殺してまで甲斐の王となった。……天下を獲らねば、わしはただの極悪人よ。寄り道している暇はない」
最強の軍団を率いる男の背中は、凍てつく風の中でひどく小さく見えた。
それから武田軍は浜名湖の北岸、刑部という場所で越年する。
兵士たちは勝利の酒に酔いしれていたが、信玄の体調は悪化の一途をたどっていた。
湖面を見つめる信玄の元に、シゲオがふわりと浮かび上がる。
光は、いつもの太陽のようなオレンジ色ではなく、どこか翳りのある夕陽の色をしていた。
『……僕にもね、最高に輝いていた時代があったんだ』
シゲオがポツリと語り出す。
『V9……9年連続日本一。あの頃は、何をやっても上手くいった。バットを振ればヒットになり、勘で動けばファインプレーになった。神様がグラウンドに住んでいるみたいにね』
信玄は黙って聞いている。
シゲオの栄光は、連戦連勝の武田軍の姿そのものだ。
『でもね、引退して監督になった最初の年……僕はジャイアンツを最下位にさせちゃったんだ。球団創設以来、初の屈辱さ』
シゲオの光が揺らぐ。
『ファンは掌を返した。王道を期待した分、失望も大きかったようでね。自宅の電話は鳴りっぱなし。街を歩けば罵詈雑言を浴びたよ。何がクリーンベースボールだってね』
ワンチャンから言われた『シゲオさん……監督やらなきゃよかったのに』という悲しい音色が、ずっとシゲオの心に刻まれている。
『それでも僕は、メディアが作ったシゲオを演じ続けなきゃいけなかった。愛するジャイアンツの未来のために、僕は僕の夢だったクリーンベースボールを捨てた。……信玄ちゃん、君も同じだろ? 最強の騎馬軍団を率いて、もし上洛に失敗したら?』
「……武田家は終わる。わしの代で、全てが崩れ去るだろう」
信玄は呻くように答えた。
強すぎるがゆえの脆さ。カリスマだけで繋ぎ止めたこの軍団は、一度負ければ瓦解する。
『だからこそ、勝たなきゃいけないんだ! 泥にまみれても、どんな手を使ってでもメイク・ドラマを完結させるために!』
シゲオの叫びは、悲痛なまでの勝利への渇望だった。
信玄は深く頷き、重い腰を上げた。
「ああ、そうだ。……なりふり構わず行くぞ、シゲオ」
それから武田軍は三河国へ侵攻し、野田城を包囲した。
城主・菅沼定盈が守るこの城は、小規模ながら断崖絶壁に囲まれた天然の要害。
通常なら、武田麾下の猛将たちで一気に蹂躙するところだが、信玄が選んだ手は違った。
「……金山衆を呼べ」
甲斐の金山掘りの職人たちが夜陰に乗じて地下を掘り進み、城の生命線である井戸の水脈を断ち切る作戦に出たのだ。
華麗な騎馬軍団のイメージとは程遠い、地味で陰湿なモグラ戦法である。
そんな武田軍の様子を、遠く離れた丘の上から見つめる影がある。
武田軍の雑兵に変装し、敵陣に潜入している私と信長様だ。
「……なんか変だよ、信長様。武田軍って圧倒的に勝ってるのに、全然楽しそうじゃない」
私は武田信玄のいる陣幕を見ながら呟いた。
センイチも、複雑そうに明滅する。
『……栄光のジャイアンツの苦しみか。儂らはジャイアンツを倒せとギラついていたが、連中はいつも常勝の重圧と戦っていたのを思い出すわい。勝って当たり前、負ければ地獄。……キツイのう』
するとヒロオカも、冷ややかな声で割り込んだ。
『フン。あのカンピューター頼みのシゲオが、管理野球のような水攻めを始めるとはな』
ヒロオカの光は、哀れみと軽蔑が入り混じった色をしていた。
『らしくない野球をした時が、指揮官の死期よ。……シゲオはもう、自分の野球を見失っている。追い詰められている証拠だ』
信長様は腕を組み、じっと武田の本陣を見据えた。
鼻が、ピクリと動く。
「信玄、急いでおるな。まるで自らの寿命と競争しているようだ」
その後、水の手を断たれた野田城内は地獄と化し、ついに菅沼定盈は降伏・開城する。
勝利した武田軍だが、信玄の表情に笑顔はなかった。
夜、陥落した野田城を見上げる信玄の耳に、ふと、どこか悲しげな笛の音が届いた。
静まり返った戦場に響く音色は、哀切を帯びて、信玄の胸を締め付けた。
『……父上』
幻聴が聞こえた。
かつて自害させた息子・義信が、幼い頃に吹いていた笛の音に重なった。
信玄の視界が歪む。
『信玄ちゃん! いけない!』
シゲオの警告が響くが、信玄には別の音が聞こえていた。
――ウゥゥゥゥゥ……!
それは、試合終了を告げるサイレンの音。
照明が落ち、観客が去り、祭りの終わりを告げる音。
「……太郎(義信)か? わしを、呼んでいるのか?」
信玄がふらりと立ち上がり、音のする方へ歩き出す。
――パンッ!
乾いた音が、夜の静寂を切り裂いた。
どこからか放たれた銃声なのか、それとも信玄の中で何かが弾けた音なのだろうか。
「……ぐ、ふっ……!」
信玄の身体が大きく揺らぎ、口元から大量の鮮血が溢れ出した。
雪の上に、赤い花が咲く。
『しっかりしろ信玄ちゃん! まだだ! まだ試合終了じゃない! 京は目の前だよ!』
シゲオが絶叫し、必死に輝こうとするが、信玄の光は急速に失われ、深い闇へと沈んでいく。
太陽が、沈む。
――そこへ。
「まだ、最期の一勝負はできるだろ」
信玄の陣幕に、2つの人影と2つの英霊ボールが浮遊して入り、信長様の声が響き渡った。
『なっ……! 結界だと? アクタロウやワカダイショウは何を!』
雪の結晶が空中で静止し、シゲオが絶句する中、ヒロオカが冷徹に告げる。
『野田城で、ワカマツと追いかけっこをしておるわい。……久しいな、シゲオ』
『……ヒロさん。備前にいると聞いていたが、この全てを遮断する管理野球の真髄のような結界は、まさにヒロさんの真骨頂……それにセンちゃん……ということは君たちが……』
シゲオボールが明滅し、私たちを確認する。
「長谷川真昼です。私と信長様のバッテリー対、武田信玄さんとの一打席勝負を望みます」
私の決意を込めた呟きに、倒れている信玄がニイっと笑みを浮かべた。




