第114話 長谷川真昼、三方ヶ原に燕を放つ
遠江国、浜松城の櫓から見える光景に、徳川家康は我が目を疑い、そして全身の血が逆流するほどの屈辱に震えていた。
眼下の街道を、武田信玄率いる2万5千の大軍が悠然と行軍していく。
城を攻める気配など微塵もない。
完全に、無視しているのだ。
「……お、おい。信玄め、どこへ行く気じゃ? ここに徳川家康がおるんじゃぞ? 素通りか? 儂は道端の地蔵か? それとも空気か?」
家康が手すりをバンバン叩く。
武田軍の中央、信玄の懐で黄金の光を放つ英霊ボール『シゲオ』が、楽しげに明滅しているのが見えた気がした。
『ウ〜ン、見向きもしない。これぞスターの貫禄、いわゆる一つの王道ですね。月見草なんて雑草の雑音には耳を貸さず、ただ前へ! ビュンと行って、サッと京へ入るぞー!』
「な、なんじゃあの態度はぁぁぁ! 儂の庭を土足で踏み荒らして挨拶なしか!」
家康の激昂に対し、懐の英霊ボール『ノムサン』が青ざめた光を放って諌める。
『家康、待て。落ち着け。これは罠じゃ。挑発に乗って飛び出せば、平坦な台地で騎馬軍団の餌食になる。データが言うとる、勝率ゼロや。ここはじっと耐えて、奴らの補給線が伸びるのを待つんじゃ』
「じゃがノムサン! ここで出ねば武門の恥! 旭殿に合わせる顔がないわ!」
そこへ織田軍からの援軍、佐久間信盛と平手汎秀が進み出る。
信盛は冷静に「信長様の命令通り籠城を」と進言したが、若き平手汎秀は唇を噛み締め、家康に同調してしまった。
「徳川殿の申される通り! 敵に背を向けられて黙っているのは武士の恥! 織田の援軍が臆病風に吹かれたと言われては、祖父・政秀の名が廃りまする!」
「おお、汎秀殿! その意気や良し! それにこのまま籠城しておったら、遠江の国人衆全員武田に裏切るわ!」
勝算もある。このまま背後を突けば、武田といえども確実に屠れる。
ここは遠江国。家康の本拠地なのだ。
「出陣じゃあ! 三河武士の意地を見せてくれるわ!」
***
家康が浜松城を出て三方ヶ原の台地に到着した時、そこで待っていたのは背後を突かれる慌てた敵ではなかった。
夕闇と雪が舞い散る中、武田軍は既に完璧な魚鱗の陣を敷き、獲物が罠にかかるのを待っていたのだ。
信玄が軍配を振り、ニヤリと笑う。
「ようこそ、徳川の諸君。ここが君たちの墓場、いわゆる一つの閉幕式だ!」
武田軍から無数の礫が一斉に投げつけられる。子供騙しの挑発だが、極限状態の徳川軍には効果てきめんだった。
浮き足立った徳川軍へ、地響きと共に赤い壁が迫る。
「どけぇ雑魚ども! 俺の突撃は誰にも止められねえ!」
先陣を切るのは山県昌景。
彼が持つ英霊ボール『アクタロウ』が、毒々しい赤色の魔球のような軌道を描き、徳川軍の鶴翼の陣を中央から粉砕した。
速い。重い。そして荒々しい。
悪童と呼ばれた天才投手の魂が乗り移った赤備えは、触れるもの全てを弾き飛ばしていく。
「ひ、ひいいっ! 支えきれん!」
「逃げろ! 殺されるぞ!」
徳川軍は瞬く間に崩壊した。
逃げようとする兵を、今度は馬場信春の部隊が確実に狩り取る。
ここで夏目広次、本多忠真ら多くの名のある徳川武士や兵たちが餌食となった。
「……逃げ道はない。確実に詰める」
英霊ボール『タナベ』の堅実な守備範囲が退路を塞ぎ、戦場は一方的な殺戮ショーと化す。
織田の援軍を率いる佐久間信盛は、戦況を見るなり即断した。
「駄目だ、勝負にならん! 想定通りの負け戦だ、引くぞ! 家康殿に付き合って全滅する必要はない!」
信盛は手勢をまとめ、素早く撤退を開始するが、若き平手汎秀は違った。
「逃げるな! ここで引けば織田の名折れ! 我だけでも食い止める!」
汎秀は手勢を率いて、押し寄せる武田の赤備えに特攻をかけた。
しかし、それは巨大な岩に卵を投げるようなもの。
武田の猛将・内藤昌豊の部隊に取り囲まれ、汎秀の身体は無数の槍に貫かれた。
「ぐっ……無念……! 信長様……申し訳ありませぬ……!」
汎秀は岐阜の方角を見つめ、雪の中に崩れ落ちた。
「あ、あわわ……汎秀殿が……!」
目の前で援軍の将が討ち死にする様を見て、家康は顔面蒼白になる。
「ノムサン、データは⁉ 逆転の策は⁉」
『あるわけないやろ! コールド負けじゃ! ゲームセット! 逃げろ家康!』
家康は、わずか数名との供回りと雪の台地を逃走した。
だが、すぐに背後へ最強の死神が迫る。
「チェックメイトだ、家康! その首、俺の勝利投手インタビューのネタにしてやる!」
山県昌景がアクタロウの輝きと共に、必殺の槍を振りかぶる。
距離はゼロ。回避不可能。
「アカン、死ぬ!」
ノムサンが家康を庇おうと光を放つが、山県昌景の剛槍を止められない。
家康が死を覚悟し、目を閉じた刹那。
――ガギィィィン!
金属音が響き、昌景の槍が虚空へ弾かれた。
「……なっ⁉」
昌景が驚愕に目を見開く。
家康と昌景の間に割り込んだのは、燕のような素早さを感じさせる英霊ボールだった。
『……小さな身体を舐めるなよ。ミスタースワローズの打撃、見せてやる』
職人芸のような軌道が、アクタロウの豪腕をいなしていたのだ。
『ワ、ワカマツ⁉ なんでお前がこんなとこにおるんじゃ! お主はヒロオカのところにいると聞いていたぞ⁉』
ノムサンが現れた英霊ボールを見て絶叫する。
ワカマツは昌景の二撃目を紙一重で躱し、家康に語りかけた。
『……頼まれて土下座されて助っ人に来ただけ。でも、まあ、ノムサンにも恩義はありますしね。……行け! ノムさん、家康! ここは俺が食い止める!』
「ちっ、チョコマカと鬱陶しい!」
『おのれワカマツ! 毎度毎度俺の邪魔をしおってからに!』
昌景が激昂して槍を突き出し、アクタロウも負けじと反撃するが、ワカマツは燕のように身を翻し、雪煙を巻き上げて昌景の視界を塞いだ。
『アクタロウなんて引っ張らずに流し打てばいいだけ。さあ、早く!』
『ワカマツ! お前の打撃は見ていて腹が立つんじゃああ! ことごとくヒットにしやがってえええええ! 同級生対決、ここで決着つけてくれるわ!』
ビュンビュンと、ワカマツがアクタロウと武田軍を翻弄していく。
「か、かたじけない! 土下座って……まさか……!」
家康は涙目で叫び、全速力で馬を走らせた。
ワカマツは家康が射程圏外に逃げたのを確認すると、フッと笑い、風のように戦場から離脱していった。
「……チッ。逃げ足の速い奴だ」
『ゼエゼエ、ワカマツ、この借りは必ず返す』
取り逃がした山県昌景とアクタロウは、悔しげに舌打ちをした。
***
命からがら浜松城へ逃げ帰った家康だが、恐怖のあまり馬から転げ落ちていく。
「と、殿! そ、その……大丈夫でございまするか……」
忠次の指摘に、家康は震える声で叫んだ。
「こ、これは演技じゃ! 武田を油断させる策よ! 儂がクソを漏らしたと触れまわれ! そうすれば武田は油断する! ……はずじゃ」
強弁する家康の足はガクガクと震えている。
城内の兵は僅か。武田軍が追撃してくれば一溜まりもない。
家康は決死の覚悟で命令した。
「全ての城門を開け放て! 篝火を焚け! 小五郎(忠次)、太鼓を打ち鳴らせ!」
一か八かの賭けに空城の計に出た家康は、広間で膝を抱えて震えていた。
『……ワカマツ。あの小さな大打者……。助かったわい。……しかし家康、臭いぞ』
ノムサンのボヤきを聞きながら、家康は雪の降る浜松城で、生涯最大の屈辱と恐怖を噛み締めていた。
「ノムサン。ワカマツを土下座して助っ人として呼んだのって……」
『奴しかおらんやろ。……さらにワカマツからヒロオカの臭いも漂っていたわ。あいつ、儂のこと大嫌いやが、シゲオやテツハルはもっと大嫌いやから、来てくれたんか。……ふふっ。因果や』
「ヒロオカ……ワカマツ。今頃、どこに」
徳川軍は粉砕された。
最強の武田軍団は、徳川を踏み潰し、さらに西へ進んでいく。
***
『おい、小娘。儂のワカマツを、ようそんな遠慮一切無しで投げられたな』
武田軍の進軍を茂みの影で眺める2つの人影に、浮遊している英霊ボール『ヒロオカ』が私に向けて嘆息してくる。
「……結果オーライでしょ? 汎秀君とかも救いたかったけど……」
私が戦場の結果に無念を滲ませていると、センイチも浮遊してヒロオカへ向き合う。
『ヒロオカさん。助太刀、感謝します』
『センイチよ。儂は貴様を許した覚えはない。スワローズの初優勝がかかった試合、ドラゴンズ先発の貴様が棒球を投げ、ジャイアンツではなくスワローズを優勝させようと手心を加えたことをな』
『……なんのことやら、儂にはさっぱり』
そんな会話を聞いて、信長様がクスッと笑った。
「なんだセンイチよ。八百長したのか?」
『違うぞ信長! 儂はジャイアンツが優勝するぐらいなら、スワローズが優勝するほうがマシだと思っただけじゃ!』
センイチらしいなあ。ま、それだけジャイアンツが憎いってことか。
この、元ジャイアンツにして、究極のアンチジャイアンツであるこの英霊ボールも。
『まあよい信長、直家と儂に土下座したお前とセンイチと小娘に免じて、仕上げといこうぞ』
ヒロオカの機械のような声に、私たちは気合を入れた。




