第107話 長谷川真昼、ヤクザの親分と対談する
地図が広げられた岐阜城軍議の間に、かつてない絶望的な静寂が満ちていた。
信長様は握りしめた北条氏政からの書状を、灰になるまで火鉢にくべていた。
「……氏政め。氏康公の葬儀も終わらぬうちに、信義を捨て、甲斐の虎と結びおったか」
信長様の声だけで、火鉢を必要としないぐらい部屋が暑くなる。
隣で地図を見つめる竹中半兵衛君の表情も、いつになく険しい。彼は扇子で越後と関東を指し示した。
「最悪の事態です。北条が武田に寝返ったことで、我らが心血を注いで構築した越相同盟は崩壊。さらに信玄が越中に一向一揆を扇動したことで、上杉謙信殿は完全に身動きが取れなくなりました。……東の防波堤が消えたのです」
「……つまり、信玄がいつでもこちらへ牙を剥けるということか」
「はい。このまま摂津で本願寺や三好と戦いを続けていれば、背中を戦国最強の騎馬軍団に蹴散らされることになります。……信長様、もはや猶予はありません。何としても、西の戦線を閉じねばなりません」
半兵衛君は苦渋に満ちた決断を口にした。
「……本願寺と和睦しましょう。屈辱的ではありますが、今は石山の親分たちに頭を下げ、東に備えるしかないのです」
「……フン、であるか」
「使者は僕ともう1人……」
あっ、半兵衛君が私を見てる。
すんごい嫌な予感がするぞ?
「真昼殿となら交渉は成就するでしょう」
あっ、やっぱり。
こうして私たちは無理を承知で、石山本願寺というヤクザ事務所へと足を踏み入れることになった。
***
摂津国、石山本願寺は信長包囲網の一角にして、巨大な宗教都市の中心地。
本堂の奥の間は線香の香りなど微塵もなく、ドス黒い殺気と昭和の任侠映画のような重苦しい空気が充満していた。
「……おうおう、よう来たのう。織田の若造に、小娘」
上座にドカリと座る本願寺顕如が、着ていた法衣の片肌を脱ぐ。
そこには背中一面に彫り込まれた阿弥陀如来の刺青が、まるで生きているかのように蠢いていた。
さらに顕如の横、最高級の緑色の座布団には、巨大な英霊ボール『ツルオカ』が鎮座し、親分特有の威圧感を放っている。
『……グラウンドに挨拶なしで土足とは、ええ度胸しとるのう。ワシのシマで戦する覚悟はできとるんか?』
ツルオカがドスの利いた低音で唸ると、周囲を囲む屈強な僧兵たちが一斉に床を鳴らした。
普通の女子高生なら、この時点で失禁して気絶するレベルの圧力だ。
でも、私はこのくらいヘーキヘーキ、逆に一歩前に踏み出してやる。
「話し合いの場なのに威圧してくるのは、追い詰められている証拠ってね。脅して有利な条件引き出そうとしても無駄。今回は英霊ボールの奪い合いもなし。さあ、始めましょうか!」
恫喝する相手に怯えの色も恐怖の色も見せちゃ駄目。
お父さんの口癖だ。
これでお父さんは、改造人間手術や臓器摘出されそうな危機を脱したことがあるそうな。
私が啖呵を切ると、センイチが真っ赤に発光して飛び出した。
『おうコラ! ツルオカ親分! 乱闘なら受けて立つぞ! 退場覚悟で全員ボコボコにしてやるわ!』
センイチの怒号が本堂をビリビリと震わせる。
本願寺の僧たちが全員刺青を見せてくる一触即発の空気の中、顕如は目を丸くした後、腹を抱えて笑い出した。
「フッフッフ! 肝が据わりすぎだろ、小娘。……気に入ったわ」
顕如がドスを効かせるも敵意のない笑みを出し、手のひらを向けてくる。
『カッカッカ! センイチ……あの時、貴様を指名していればな。逃がした魚は大きかったようだ』
ツルオカの声を合図に、今まで沈黙していた竹中半兵衛君が進み出た。
手の中の英霊ボール『モリミチ』が、華麗なハンドリングで回転している。
「お褒めいただき光栄です。……では、手打ちの話をしましょうか」
半兵衛君は扇子で地図の一点を指し示した。
「我々は本願寺や三好三人衆の神輿である京の管領家・細川昭元殿を保護しました。摂津における、反信長勢力の大義名分はこれにて消滅」
細川昭元さんって人は、平たく言えば将軍・義昭様の次に偉い人。
ずっと三好三人衆に拉致されていたけど、信長様が拉致し直……もとい、丁重に出迎えたのだ。
「……ほう」
「元より、信長様は本願寺と全面的に争うつもりはありません。……手打ちの条件は一つ。信長様への仏敵認定の取り消し。その代わりに我々は本願寺の信仰の自由を認め、寺領を安堵しましょう」
半兵衛君の提示した条件は、本願寺にとっても悪い話ではなかった。
比叡山が焼かれ、三好が崩れ、孤立しつつある現状での停戦は渡りに船。
『……よかろう。本拠地整備もできん奴に戦はできん。ここは一度、手打ちとしよか』
ツルオカの承認を得て、顕如は重々しく頷いた。
「よかろう。仏敵認定は取り消す。……帰って信長に伝えよ。『帝まで使いおって、俺以上に法衣が似合いそうだ』とな」
こうして、石山合戦は一時的な終結を迎えた。
***
本願寺を出て、私たちは安堵のため息をついた。
肩の荷が下りて、ヘナヘナと座り込みそうになるよ。
「うへえ……あのヤクザ軍団、タチ悪すぎるでしょ。ボールも僧侶も全員カタギに見えなかったし。令和のヤクザの数百倍迫力あったよ」
私は冷や汗を拭いながら、振り返って巨大な寺院を見上げた。
「でも、これで本願寺は安泰だね。話が通じてよかったよ」
「……真昼殿。あまり楽観視なさらぬよう」
半兵衛君が冷めた声で私の安堵を切り捨てた。
彼は扇子をパチンと閉じ、冷徹な瞳で本願寺を見据えている。
「これは両者とも時間稼ぎに過ぎません。どっちも相手を殲滅させる決め手に欠けているだけです。……機が熟せば、どうせすぐに本願寺は破棄してきますよ」
「えっ? マジで? あんなに笑って手打ちしたのに?」
「ええ。契約更改と同じです。条件が合わなくなれば、選手はまた暴れだす」
半兵衛君は淡々と言い放つ。
私はガックリと項垂れた。
「なにそれ……。結局、信じられるのは力だけってこと?」
「ですが」
半兵衛君は少しだけ表情を和らげ、私を見た。
「この乱世で本願寺の信仰心が、明日をも知れぬ人々の心の支えになっているのも事実。彼らを力だけで屈服させることは不可能です」
「じゃあどうすんの?」
「方法は一つ。……本願寺を信仰しなくても、平和で豊かな世だと人々に分からせることです。野球を楽しみ、明日の飯を心配しなくていい世の中になれば、人は過激な救済を求めなくなりますから」
半兵衛君の言葉に私はハッとした。
武力で倒すんじゃない。野球と平和で、その存在意義を上書きする。
……それこそが、私がこの時代に来た意味なのかもしれない。
「そっか……。道は長いね、半兵衛君」
「ええ。ですが、まずは目の前の敵を片付けねば」
半兵衛君の視線は、すでに次の戦場である北近江へと向いていた。
***
表向きの和議が成立し、静寂を取り戻した石山本願寺奥の院。
『……表層の和議。さて、どっちが先に破棄するか。それとも自然消滅か』
ツルオカが緑色の光を明滅させ、顕如が邪悪な笑みを浮かべた。
そんな彼らの前に、朝比奈泰朝からの使者が現れる。
「……申し上げます。関東において、北条と武田の同盟が成立しました」
その報告に、顕如は数珠を握りしめて歓喜した。
「でかした! これで甲斐の虎の後顧の憂いが消えた!」
「はい。武田信玄公は、すでに牙を剥いておられます。……これより西へ。織田・徳川を粉砕するために」
ツルオカが満足げに唸る。
『これで織田は終わったな。……顕如よ、信長と信玄が食い合う隙を突き、一気に巻き返すぞ!』
「ええ、大親分。勝った方と決戦をするために」
顕如の眼光の凄みが、一層増した。




