第106話 長谷川真昼、V9戦士たちの咆哮を聞く
越後国、春日山城。
軍神・上杉謙信の居城は、音もなく降り積もる深い雪に閉ざされていた。
張り詰めた冷気が支配する毘沙門堂で、謙信は無の境地で数珠を握りしめ一本足打法をしていたが、静寂は急使の足音によって乱暴に破られた。
「申し上げます! 相模の北条氏政殿より、急使! 先代・氏康公の死去に伴い、当家との外交方針を一新するとのこと!」
謙信は目を見開き、一本足打法を止めた。
届けられた書状を開くと、そこに記されていたのは謙信が最も重んじる義を、泥で踏みにじるような内容だった。
『父・氏康の遺言、および当家の総意により、上杉家との越相同盟を破棄する。我らは甲斐の武田信玄公と再び手を結び、甲相同盟を復活させる』
――バァン!
謙信が拳を床に叩きつけると堂内の蝋燭が一斉に揺らめき、数珠が散らばる。
「おのれ……おのれ氏政! 代替わり早々、父が結んだ信義の盟約を反故にするか! 恥を知れ、恥を!」
謙信の怒りは、単なる裏切りへの憤りだけではない。
北条が武田と結ぶということは、関東の抑えとして機能していた北条家が、一転して上杉の敵に回ることを意味する。
この越相同盟は信長が仲介役として心血を注ぎ、幾通もの書状を交わして成立させた、対武田の生命線であった。
岐阜の信長、浜松の家康も、今頃は北条が送った同盟破棄の書状に顔面蒼白となって震えているに違いない。
そして何より、このタイミングでの変心。
背後で糸を引いているのは、あの男しかいない。
「信玄……! 貴殿は北条の代替わりすら、己の駒として利用するか!」
謙信の懐で、黄金のオーラを放つ英霊ボール『ワンチャン』が悲哀の色を帯びて明滅した。
その光に呼応するように、謙信の側近たちが持つボール――直江景綱の『モトシ』と柿崎景家の『タカダ』もまた、戦慄するように震えだす。
『……一本足の構えが、乱れるわ』
ワンチャンの重厚な声が謙信の脳裏に響く。
それは求道者の如き、孤高にして絶対的な王者の響き。
『謙信よ。相模の風が変わった。……あの冷徹な勝負勘、管理された勝利の方程式。間違いない、『テツハル』監督じゃ』
「テツハル……?」
謙信は眉をひそめる。
ワンチャンは、かつて共に一時代を築いた師の気配を、遥か相模の彼方に感じ取っていた。
『氏政に憑いたのは、我らを率いて9年連続の栄冠を掴んだ指揮官。……情を排し、勝利のみを追求する鬼。まさか、あの人がここで動くとは』
さらにワンチャンは、甲斐の方角――武田信玄のいる南西の空を見つめるように回転した。
『それに甲斐には『シゲオ』さんがいる。……我が盟友にして、永遠のライバル。天性の野生とひらめきで、戦場を支配する太陽』
直江景綱が持つ『モトシ』が、青ざめた光を放つ。
『なんてことだ……。シゲオさんだけでも強敵だというのに、テツハル監督と戦うことになるなんて……!』
『タカダ』もまた、激しく明滅する。
『あの人たちは妥協を知らない。敵に回れば、完膚なきまでに叩き潰しに来るぞ!』
謙信はボールたちの会話の意味を、武人の直感で理解した。
かつて一つの巨大な常勝軍団を形成していた魂たちが、今や敵味方に分かれ、天下を賭けた殺し合いを演じようとしているのだ。
「……クッ、氏政め。父から奪った『ヒガシオ』や『イトウ』『ナベキュー』といった獅子たちに加え、ワンチャンらを怯えさせる悪魔の化身『テツハル』を手に入れたのか」
謙信は唇を噛み締めた。
氏政は、父・氏康の民を思う温情を捨て去り、テツハルの勝利至上主義に染まったのだ。
関東でも佐竹義重らが、この裏切りに猛反発して殺気立っている。
氏政がこの道を選んだのは、単なる野心ではないだろう。
佐竹や上杉、さらに他の一族に挟み撃ちにされる恐怖から逃れるため、テツハルの冷徹な実利判断によって選ばれた、北条家生き残りを賭けた背水の陣なのだ。
関東方面の上杉の平和は潰えた。
それどころか機械のように正確で隙のない北条軍が、上野国から越後を脅かし始めている。
さらに事態は、謙信の神経を逆撫でする状況となる。
***
越後の西に位置する越中は降りしきる雪と、それ以上に冷たい殺気に包まれていた。
「……計算通りですね。降雪量、気温、そして謙信の心理状態。すべての情報が動けないと示しています」
雪深い村を見下ろす峠で、眼鏡の男が冷ややかに呟いた。
「信玄公、本願寺に多大な寄付、ありがとうございます。お礼として、越中は我らにお任せを」
本願寺から派遣された、本多正信である。
彼の手には青白く知的な光を放つ英霊ボール『ノビタ』が握られている。
『ええ。北条の裏切りで謙信の意識が南に向いた今がベストタイミングです。……さあ、正信さん。サインは出しましたよ』
ノビタの言葉に従い、正信は懐から無数の檄文を取り出し、風に乗せた。
『上杉謙信は仏敵・信長の盟友なり! 門徒たちよ、立ち上がれ! 雪の壁となりて、軍神の足を封じるのだ!』
檄文は、瞬く間に越中一向一揆の炎を燃え上がらせた。
さらに恐るべきは、現地国衆の神保氏や椎名氏までもが、信玄によって調略され、上杉を捨てて一斉に寝返ったことだ。
数万の門徒たちが武装蜂起し、越後から西へ抜ける街道を完全に封鎖したのである。
「フフフ、ハーッハッハッハ! 動け信玄! 動いて俺の憎き家康をぶっ殺してくれ! ざまぁみろ! 家康! 滅べ三河! 本願寺のものにならないなら消え去ってしまえ!」
『やれやれ、正信の家康嫌いは相変わらずだねえ。ま、でもこれでノムサンも終わりだろうね。僕としても、師を超えた証が手に入るのは嬉しいからいいけどね』
正信とノビタの笑い声が、越中の空に響いていった。
***
春日山城に、絶望的な報告が次々と飛び込んでくる。
「申し上げます! 上野国境にて北条軍が増強! 侵攻の構えを見せております!」
「西の越中にて一向一揆が蜂起! 街道が完全に寸断されました! 加賀や能登の門徒も合流し、その数およそ5万!」
謙信は天を仰いだ。
南から組織化された北条軍の圧力。
西から国衆の離反と狂信的な一向一揆の泥壁。
そして空から全てを凍てつかせる豪雪。
全てが後手に回った。
軍神と呼ばれたこの上杉謙信が、一戦交える前に完全に封じ込められた。
これはただの包囲ではない。
武田信玄による、緻密にして壮大な詰将棋だ。
上杉謙信という最強の抑止力を盤上から除外するための、完璧な一手だった。
「……信玄ンンンッ!」
謙信は雪の彼方にある甲斐の山々を睨みつけた。
そこに背後を脅かす者を排除し、悠々と爪を研ぐ虎の気配があった。
ワンチャンが、悲しげに明滅する。
『……シゲオさんは行く気だ。テツハルさんの援護を受けて、天下というホームランを狙いに』
謙信は血を吐くような声で唸った。
「義を捨て、友を売り、神仏すら欺いて……そこまでして天下が欲しいか、信玄! 貴様の言う王道とは、これほどまでに血に塗れたものなのか!」
謙信の絶叫は冷酷な吹雪に吸い込まれて消えた。
武田を阻む最大の防波堤、上杉謙信はここに沈黙した。
織田信長、徳川家康。そして長谷川真昼。
彼らを守る壁は、もうどこにもない。
戦国最強の武将、甲斐の虎・武田信玄の足に絡みついていた枷は消滅したのだ。




