第103話 長谷川真昼、聖域の崩壊を目撃する
比叡山延暦寺。
ここは古くから皇城の鬼門を守る鎮護国家の道場であり、神仏の加護が宿るとされる絶対不可侵の聖域。
そんな巨大な山を、私たち織田軍は完全に包囲していた。
季節は秋。山肌を赤く染める紅葉が、これから流れる血の色を予感させて、私はブルッと震えた。
「……信長様、本当にやるの? ここ、お寺だよ? 世界遺産級の文化財だよ?」
坂本の陣中、私は信長様の背中に問いかける。
信長様は愛用の金属バットを地面に突き立て、冷ややかな瞳で山頂を見上げていた。
「神仏を敬わぬのは奴らの方だ。僧衣を鎧に変え、経典を捨てて槍を持つ。……あまつさえ、浅井・朝倉を匿い、俺の再三の退去勧告を無視しおった」
信長様の手元でセンイチが青白く、冷たく発光している。
「だが、筋は通した」
信長様の言葉通り、直前に行われた政治工作は完璧だった。
天台座主であり、帝の弟君でもある覚恕法親王に対し、「帝がお呼びです」という限りなく黒に近いグレーな政治力を使って、丁重に山から下ろして京へと送り出したのだ。
これで、皇族に弓引く逆賊という汚名は回避された。
残るは、武装した僧兵たちのみ。
「警告は終わりだ。……見ろ、あの様を」
信長様が顎でしゃくる。
見上げると、山門の方角で異変が起きていた。
包囲が狭まる中、山内では動揺が走っていたらしい。
武器を持たない学僧や、修行中の稚児、それに避難していた女子供たちが「もう降伏しよう」「助けてくれ」と門へ向かおうとしていた。
それを阻んだのは、あろうことか味方であるはずの武装僧兵たちだった。
「逃げる者は仏敵なり!」
「死して護国の鬼となれ! 下山は許さん!」
怒号と共に、薙刀が振るわれる。
逃げ惑う非戦闘員たちが、次々と背中から斬りつけられ、参道が赤く染まっていく。
「な……っ! 味方を殺してる⁉」
私は絶句した。
神仏の加護? 聖域?
目の前にあるのは、保身と狂信に支配された地獄絵図だけだ。
『……腐っとる。根元まで腐っとるわ』
センイチが、怒りを通り越して呆れ果てた声を出した。
『チームメイトを背後から撃つような奴らに、グラウンドに立つ資格なし。……信長、やれ』
信長様は静かにバットを構えた。
瞳にもう慈悲も迷いもない。あるのは、腐敗を焼き尽くす浄化の炎だけ。
「……見ろ。あれが聖域の正体だ。腐った肉は削ぎ落とさねばならん」
信長様が大きく息を吸い込み、全軍に響き渡る号令を下した。
「全軍突撃! 抵抗する者は僧侶だろうが神だろうが、全てあの世へ送れ! ……プレイボールだ!」
信長様の言葉を合図に、織田軍の総攻撃が始まった。
***
山は、紅蓮の炎に包まれた。
光秀さんの鉄砲隊が正確無比に僧兵を撃ち抜き、権六さんのフルスイングが門を粉砕していく。
私は耳を塞いでしゃがみ込んだ。
いくら敵対したとはいえ、一方的な蹂躙だ。
悲鳴と怒号、そして燃える建物の爆ぜる音が混じり合い、私の心を削っていく。
すると、誰かに腕を強く引かれた。
「真昼殿。泣いている暇はありませんよ」
「……半兵衛君?」
竹中半兵衛君だった。
戦場の赤々とした照り返しの中でも、彼は涼しい顔で扇子を開いている。
「僕たちには別の任務があります。……裏へ」
「裏?」
「ええ。信長様は『全てあの世へ送れ』と言いましたが……『全て殺せ』とは言っていませんからね」
半兵衛君はクスッと笑い、私を連れて獣道へと入っていった。
そこに、混乱に乗じて逃げ出してきたいくつもの影があった。
女の人、子供、武器を持たないお坊さんたち。
「こっちだよ! 殺さないから! 静かに!」
私たちは彼らに声をかけ、誘導を開始した。
半兵衛君の手引きで、織田軍の包囲網の一角が、わざと緩められている場所があったのだ。
震える避難民たちに、半兵衛君は懐から数通の書状を取り出して手渡した。
「これを甲斐の武田信玄に見せなさい」
「え? 武田信玄?」
私は目を丸くした。なんでここで敵の親玉の名前が出るの?
「書状に『信長が送った難民だ、保護してやれ』と書いてあります。名僧知識や女子供を保護すれば、信玄の名声は高まる。彼は慈悲深い武将として知られていますから、決して無碍にはしないでしょう」
「……信長様、信玄と繋がってるの⁉」
「まさか。……ですが、数千の難民が押し寄せれば、武田の兵糧は圧迫されます。戦の準備どころではなくなるでしょうね」
半兵衛君は美しく、そして残酷に微笑んだ。
「信長様は、慈悲と策略を同時に行ったのですよ。……さあ、行くのです! 生きて甲斐へ向かうのです!」
難民たちは涙を流して感謝し、闇の中へと消えていった。
私は呆然としつつ、難民たちの後ろ姿を見送った。
命を助けた。でも、それは敵を苦しめるための駒として。
信長様と半兵衛君の采配は、どこまでも合理的で、冷徹で、そして……少しだけ優しかった。
夜が明ける頃、比叡山は黒い燃えカスとなっていた。
僧兵勢力は壊滅。平安の昔から続いた巨大な権威は、一夜にして地上から消滅したのだ。
信長様は、まだ煙の上がる山を背にして光秀さんを呼んだ。
「十兵衛。お前はこの坂本に城を築き、湖水の守りとなれ」
「……はっ」
光秀さんは深々と頭を下げ、面を上げる。
「承知しました。この古き悪習を消し、信長様の覇業を支えましょう」
表情に破壊の虚しさと、新しい時代を築く決意が入り混じっていた。
***
比叡山炎上の報は、瞬く間に天下を駆け巡った。
「クックック……やりおったわ、信長」
摂津、石山本願寺で外交僧の下間仲孝は、報告書を片手にニヤリと笑った。
懐の英霊ボール『アキヒロ』が、予祝の光を放つ。
「使える。これは使えるぞ」
仲孝はすぐさま筆を執り、全国の門徒へ檄文を飛ばす。
『信長は無辜の民、女子供まで皆殺しにした! 神仏を恐れぬ第六天魔王なり! 仏敵信長を許すな!』
真実は隠蔽され、難民を逃した事実など闇に葬られ、信長の悪名だけが増幅される。
それはさらなる包囲網の結束を強めるための、格好の餌となって天下に拡散していくのだった。




