第102話 長谷川真昼、裏切りの連鎖に震える
石山本願寺の奥深くで、反信長の謀略が着々と進んでいた。
「……ふふふ、信長め。帝を抱き込んで、逃げ切ったつもりか」
闇の中で不気味に笑うのは、外交僧・下間仲孝だ。
懐に、センイチへのトラウマを抱えながらも、怪しく明滅する英霊ボール『アキヒロ』が収まっている。
仲孝が向かったのは摂津国。
そこでは村重によって追放された先代守護・池田勝正に代わり、池田知正が守護の座に就いていた。
仲孝は知正の耳元で、毒を流し込むように囁いていく。
「知正殿。信長は神仏の敵。いずれ必ず天罰が下ります。今こそ三好三人衆と手を結び、真の摂津の主となるのです」
『……これぞ予祝。貴殿が信長を討つ未来は、すでに確定しております』
アキヒロが放つ成功のイメージという名の精神干渉。
甘い言葉に屈した知正は、織田家からの離脱を表明した。
「……知正様がそう仰るなら、仕方がありませんな」
池田家の実力者、荒木村重が笑みを浮かべて頷く。
彼は知っていた。池田知正など、ただの操り人形に過ぎないことを。
信長包囲網という巨大な潮流に乗ることこそが、己の野望を叶える最短ルートだということを。
この摂津の離反により、信長側の松永久秀が石山戦線で完全に孤立。
三好三人衆と池田軍の牙が喉元に迫ってしまった。
***
岐阜城で地図を見つめていた竹中半兵衛君が、珍しく「チッ」と激しく舌打ちをした。
手の中の英霊ボール『モリミチ』が、危険を知らせるように激しく火花を散らしている。
「……後手に回りました。下間仲孝が、これほど早く摂津を切り崩すとは」
「半兵衛君、どうなってるの?」
私が不安げに尋ねると、半兵衛君は扇子で摂津の駒を弾き飛ばした。
「池田知正が三好側に寝返りました。荒木村重もそれに追従。摂津の防衛線は崩壊です。……さらに悪いことに、信長様が救援に向かわせる予備の軍勢が、どこにもありません」
伊勢長島、北近江、そして京の警護。
織田軍の選手層は、すでに限界まで引き伸ばされていた。
この窮地を好機と見た男が、京にいた。
室町幕府第15代将軍・足利義昭である。
「……フン。信長め、余を差し置いて帝に泣きつくからこういうことになるのだ。今こそ、将軍自らが采配を振るい、摂津を回復してみせる!」
義昭は信長への対抗心から暴走を始めた。
まず彼は、松永久秀の長年の宿敵である筒井順慶に幕府の重職を与え、大和一国の安堵を約束して三好三人衆討伐の総大将に任命した。
これを聞いた松永久秀は激怒した。
「……義昭、正気か。それがしに順慶の下に付けと言うのか!」
『久秀、義昭を義輝のように殺さなかったのが誤算だったな。まあよい、織田家の看板を下ろせばなんとかなるだろう』
息子の久通に預けている、英霊ボール『ブレイザー』も嘆息する。
「仕方があるまい。信長には念を入れて言い含めるしかないな」
久秀は即座に幕府からの離脱を表明した。
信長には「幕府とは縁を切るが、信長様を裏切る気はない。大和の問題はそれがしにお任せを」という使者を送って石山戦線から撤退する。
三好義継も久秀に同調して幕府から離脱した。
だが、久秀にさらなる誤算が生じる。
筒井順慶との戦いで、順慶についた謎の軍師木阿弥と、その人物が持つ英霊ボールによって大敗を喫し、竹内加兵衛ら多くの配下を失ったのだ。
進退窮まった久秀と義継は、生き残るため、皮肉にもかつての宿敵である三好三人衆に降伏せざるを得なくなってしまった。
混乱を極める中、義昭はさらなる采配を振るう。
和田惟政に対し、池田知正・荒木村重を討伐せよという出陣命令を下したのだ。
「惟政。お前は幕府の忠臣だ。将軍の旗印があれば敵はひれ伏す。行ってまいれ!」
和田惟政は悲壮な覚悟の表情で引き受けた。
***
「惟政様! 行ってはなりませぬ! これは死地へ向かうも同然ですぞ!」
二条御所の一角。細川藤孝が、必死に惟政の袖を掴んで引き止めていた。
明智光秀と村井貞勝も、険しい表情で立ち塞がっている。
「惟政殿。信長様は今、援軍を編成しております。それまで待つのです。将軍の功名心に付き合う必要はありませんぞ」
「信長様と上様を繋げるのは藤孝殿と貴殿だけ……惟政殿、どうか……民草のためにも……」
光秀と貞勝の説得に、さらに青い瞳の男が加わった。
宣教師、ルイス・フロイスだ。
「コレマサ様! 私ハ貴方ガ神ヲ受ケイレタ、ヨキ友人デアルコトヲ知ッテイマス。デモ、コノ戦イハ無謀デス! 将軍ニ従ウフリヲシテ、ノブナガ様ノモトヘ逃ゲナサイ!」
惟政は自分を案じる友人たちの顔を一人ずつ見つめ、申し訳なさそうに首を横に振った。
「……皆様、かたじけない。だが、私はかつて流浪の身であった義昭様を、この京へお連れした存在。上様が命令を下した以上、それが死への片道切符であろうと、背を向けることはできぬのだ」
惟政は、藤孝の手をそっと振り払った。
「義を捨てて生きることは、私にとって敗北と同じ。……さらばだ。私の魂は最後まで幕府の柱石として散るだろう」
摂津・白井河原で、和田惟政率いるわずか500の軍勢は、数倍の兵力を擁する荒木村重・中川清秀の連合軍と激突した。
そこで起きたのはただの虐殺。
村重の率いる鉄砲隊が放つ弾丸が、惟政の周囲の兵を次々と薙ぎ倒していく。
「……見事な忠義だが、時代遅れよ。惟政殿」
村重の冷徹な一言と共に、中川清秀の部隊が惟政を包囲。
惟政は満身創痍になりながらも、数人の敵を切り伏せたが、ついに力尽き、白井河原の土を赤く染めて倒れた。
***
岐阜城に届いた凶報に、信長様も私も唖然とした。
「……惟政さん、が? 嘘……そんな」
いつも藤孝さんの後ろで控えめに微笑んで、戦国の世とは思えない穏やかな顔を見せてくれていた、あの惟政さんが。
将軍の、あまりにも身勝手なプライドを守るために死地へ送られた。
光秀さんと一緒に小牧山城に来た日のことを思い出す。
ただ純粋に、足利幕府再興を夢見て働いていたのに。
「……無駄死にじゃねーか」
信長様の絞り出すような声が、冷たく響いた。
「将軍が撒いた種を刈り取るために、幕府の忠臣が何の意味もなく死んだ。……これが義昭の言う武家の棟梁のやり方か」
半兵衛君が感情を殺した声で告げる。
「……信長様。もはや猶予はありません。摂津の乱れ、本願寺の煽り、そして比叡山。これら全てを一度に断ち切らねば、織田家は内部から腐ります。久秀殿や義継殿のように、上様の暴走は味方が敵になるだけです」
『オーナーの鶴の一声でベテランを干して、お気に入りの若手を抜擢か。そりゃ、ベテランは出ていくわい』
センイチもため息をつく。
「現状、西の毛利、東の徳川や上杉らは織田家との約定を裏切らないでしょう。……ですが、それも織田家が弱体化すれば、涎を垂らした虎狼と変わります」
半兵衛君の言葉が終わると、信長様がゆっくりと立ち上がった。
背中から立ち昇る覇気は、もはや怒りを超え、絶対的な裁きのオーラを纏っていた。
「真昼。涙を拭け」
「……え?」
「神も仏も、将軍も、俺の邪魔をするというなら――俺がこの世から消し去ってやる」
信長様の視線の先に、霧に煙る比叡山延暦寺がある。
数多の兵を失い、大事な友を奪われ、ついに信長様の忍耐が限界を迎えたのだ。
「全軍、比叡山へ。……まずはあそこを叩き潰す」




