第101話 長谷川真昼、長島の泥沼に沈む
志賀の和睦によって、ようやく比叡山を包囲する冷たい風から解放された……と思ったのも束の間。戦国の世は、私を二度寝させるほど甘くはなかった。
信長様の動きは神速だった。朝倉勢が一乗谷へ、浅井勢が小谷へ撤退すると秀吉さんが越前から西へ抜ける陸路をピタリと封鎖し、長秀さんが北近江の佐和山城を包囲したのだ。
ここから半兵衛君と長秀さんによる佐和山孤立作戦と説得が始まった。
長秀さんは佐和山城の四方に深い堀を穿ち、蟻の這い出る隙間もない包囲網を築き、半兵衛君は連日、城内へ揺さぶりの使者を送る。
秀吉さんは横山城を拠点に浅井長政さんの動きを完全に封じ込め、佐和山への援軍をことごとく叩き伏せた。
「真昼殿、見ていてください。これが武力によらぬ攻城術です」
涼しい顔でそう言ったのは、竹中半兵衛君。
彼はかつて浅井家に仕えていた縁をフル活用した。
佐和山の守将は、姉川の戦いで信長様の本陣にまで肉薄した姉川の英雄、磯野員昌。
半兵衛君は長秀さんと協力し、員昌さんを執拗に説得し始めた。
「員昌殿、長政様は貴殿を見捨てた。救援に来ぬのがその証。孤立無援で死ぬのが武士の誉れですか?」
その言葉通り、救援に向かおうとした浅井軍は、秀吉さんによって塞がれたまま。
「お市様を信奉する気持ちを捨てろとは言いません。親衛隊なら、生き延びてお市様の行く末を案じるべきではないですか?」
長秀さんのトドメの一言に、ついに心が折れた員昌さんは開城、降伏した。
額にある『お市様=天女』がハラリと地面に落ち、北近江の防衛網は音を立てて崩れ去った。
「よし! この勢いで伊勢長島を一気に踏み潰す!」
信長様の宣言を、半兵衛君がすかさず反対の意を唱える。
「信長様、今はまだ時期尚早です。北近江の切り崩しを完璧にするのが先決。長島の門徒兵は死を恐れぬ狂徒、泥沼の戦いになります」
「案ずるな半兵衛。貴様はここに残り、五郎左(長秀)と秀吉と共に浅井への工作を続けよ。俺は久助(一益)と嘉隆を救いに行く! 彦七郎(信興)の仇も取らねばならん」
信長様は止まらなかった。
柴田勝家さん、佐久間信盛さん、西美濃三人衆の安藤守就さん、氏家直元さん、稲葉良通さん、九鬼嘉隆さんと仲がいい小六さんや小右衛門さんが志願。そして私を連れて、織田軍は伊勢へと進軍した。
***
伊勢長島。そこは人間がまともに歩ける場所ではなかった。
どこまでも続く湿地帯、網の目のように流れる河川。そして伊勢侵攻戦に続いて、またもや降りしきる雨。
長島の地形は織田軍にとって最悪だった。
大河が複雑に入り乱れ、至る所が底なしの泥濘となっており、馬も兵も一歩進むごとに体力を奪われていく。
「……何これ。ここ、戦場じゃなくてただの沼じゃん」
私が泥に足を捉われて泣き言を言っていると、前方から異様な熱気が押し寄せてきた。
長島の村々から、数万の門徒たちが湧き出してきたのだ。
しかも彼ら全員の手に火縄銃が握られていた。
「下間頼旦に本多正信……さらに、また現れたか」
信盛さんが絶句する。
敵の陣頭に立つのは、本願寺の下間頼旦と、眼鏡の奥で冷徹に戦況を分析する本多正信。
その2人と一緒にまたもや現れて狂ったように叫ぶあの男。
「ぜっこうちょおおおおおおお! 信長ァ! 今日こそお前の息の根を止めてやるぜ!」
龍興が英霊ボールキヨシの力を宿して火縄銃を構える。
正信と英霊ボール『ノビタ』の策略で武装化した住民たちは、物陰や屋根の上から全方位で一斉に発砲を開始した。
「ぐわっ……!」
悲鳴が上がった。
織田軍の最前線にいた西美濃三人衆の一人、氏家直元さんが、龍興の放った弾丸に胸を貫かれたのだ。
「ヒャーッハハハ! 見たか! 直元を仕留めたぞ! 斎藤を裏切った報いじゃ! 絶好調すぎて笑いが止まらねえぜ!」
龍興の歓喜の声が泥濘の戦場に響き渡り、門徒たちの士気を異常に跳ね上がらせた。
「直元殿!」
「直元さん!」
良通さんと私が駆け寄るが、直元さんはすでに息絶えていた。
直元さん……義龍の側にいた頃から知っていた人。
また1人、知ってる人がいなくなってしまった。
「ヒャーッハハハ! 次は守就と良通じゃあああ!」
龍興の高笑いが戦場に響き渡る。
かつての主君に同僚を殺された安藤さんたちが激昂するが、足場が泥沼では突撃すらままならない。
「兄者! 危ない!」
小六さんの前に立った蜂須賀七内さんの胸が赤く染まり、一瞬で骸と化す。
「七内! ちくしょう! 嘘だろ! 目を開けろよ! おい!」
「小六! 立ち止まるな! 七内の死を無駄にするな!」
小右衛門さんが七内さんの遺体を担ぎ、小六さんを励ますが、川並衆もここで大打撃を受けてしまう。
混乱する私たちの前に、さらに信じられない人物が立ちはだかった。
無数の銃口をこちらに向けた、雑賀衆の中心にいたのは。
「……孫一さん⁉ どうして……もう契約終了⁉」
私が叫ぶも、鈴木孫一さんは冷酷に火縄銃を向けた。
彼の脳裏に、信長たちを逃がした直後の出来事が去来していた。
――野田・福島で信長様を逃がした直後。
雑賀の里には本願寺の外交僧、下間仲孝が不気味な笑みを浮かべて現れていた。
彼はセンイチに追い払われた屈辱を晴らすべく、雑賀の他の氏族たちの本願寺への信仰心を狂信の域まで煽り立てたのだ。
仲孝が背後でニヤリとほくそ笑む中、雑賀の他の氏族たちが孫一さんを包囲したのだ。
彼らは孫一さんが得た織田家からの国友優待券をズタズタに破り捨て、冷たく告げた。
『鈴木一党だけで贅沢をするか。現状の、我らの頭領として本願寺の犬となるか。……選べ、孫一』
一族の命を人質に取られた彼は、誇りを捨てて泥を啜る道を選んだ。
『おい平次、左近。……いずれ後悔するぜ』
『何をだ? 国友優待券がか?』
『それとも、俺たち雑賀衆が負けるとでも?』
孫一は、土橋平次、太田左近ら雑賀衆幹部の嘲りにつばを吐いた。
目を見開いた孫一さんが私に囁く。
「裏切りは世の常ってな……。あばよ、真昼」
放たれた銃弾が、私の頬をかすめる。
「申し上げます! 滝川一益、九鬼嘉隆より報告! これ以上の進軍は全滅を招きます! ここは忍びと海賊の攪乱に任せ、信長様は一時撤退を!」
わずか4日。織田軍は壊滅的な打撃を受け、撤退を余儀なくされた。
逃げる私たちの背中に、本多正信のノビタの声が追いかけてくる。
『ギャハハ! 精神論だけで勝てる時代は終わったんですよ。名将センイチなんて旧時代の遺物、データの敵ではありませんな!』
私の懐で、センイチがこれまでに見たことがないほど真っ赤に発光した。
怒り、屈辱、センイチは何も言わず、ただただ、激しく震えていた。
「……撤退だ! 全軍、退けぇぇぇ!」
信長様の怒号が、伊勢の降り注ぐ雨に虚しくかき消された。
氏家直元さんの死。壊滅的な大打撃を受けた川並衆。孫一さんの裏切り。センイチの屈辱。
「長島の全住人が鉄砲を構えるか。……なら、遠慮する必要はないな」
信長様は屈辱に唇を噛み締めながら小さな声で呟いた。
近江の勝利の勢いを、長島の泥沼は完膚なきまでに叩き落としてきたのだった。




