第100話 長谷川真昼、課金ゲーの威力を知る
比叡山を包囲して数ヶ月。季節は巡り、山肌にはうっすらと雪が積もり始めていた。
寒い。とにかく寒い。
私は白い息を吐きながら、本陣の焚き火に手をかざしていた。
「はっくしょん! うう……長期戦にも程があるよ。これじゃあ根比べじゃなくて、氷漬け我慢大会だよ」
膠着状態の戦場。誰もが疲弊しきっている中、信長様だけは涼しい顔で、京から届いたばかりの書状を読んでいた。
「……フン、届いたか」
信長様が立ち上がり、全軍に向かって高らかに宣言した。
「者共、武器を収めよ! 撤退だ!」
「えっ⁉ 撤退⁉」
私が驚いて振り返ると、信長様の手には煌びやかな布に包まれた書状――帝からの勅命が握られていた。
「帝より『講和せよ』との勅命が下った。これには比叡山の荒法師も、朝倉も浅井も逆らえまい」
「ちょ、ちょっと待って信長様。帝を動かすって……どうやったの?」
私が恐る恐る尋ねると、信長様は懐からこぼれ落ちそうなほどの銭が入った袋をジャラリと鳴らして、ニヤリと笑った。
「堺で巻き上げた金を、朝廷の修繕費として惜しげもなく寄進した。……この世の審判を味方につけるには、誠意という名の黄金が一番効くのさ」
「……うわぁ。夢も希望もない、大人の解決方法だ……」
私がドン引きしていると、センイチが感心したように呟いた。
『コミッショナーへのロビー活動か。……まあ、ルールブックを書き換えるには、それだけの力が必要ということじゃな』
「光秀殿と貞勝殿、それに藤孝殿と惟政殿も協力してくれたおかげで、公家との交渉は予想より早く済みました。吉家も長政も、これには逆らえますまい」
半兵衛君が右手人差し指でモリミチボールを回す。機嫌がいい証拠だ。
ふう……ようやく危機を脱したんだ。
これで久しぶりに、岐阜城でのんびりできそうだよ。
***
比叡山の山頂に陣取る朝倉軍の本陣で、降り始めた雪を見つめながら山崎吉家は唇を噛み締めた。
「……おのれ信長。帝を動かすとは……!」
吉家の手元に、朝廷からの勅使が届けた講和命令がある。
これを拒否すれば朝倉家は朝敵となり、天下の逆賊として討伐対象になってしまう。
それに、この雪だ。
「越前からの峠が雪で閉ざされれば、兵站が断たれる。……補給なき籠城は敗北と同じ。ここは引くしかあるまい」
吉家は悔しげに拳を震わせた。
「武家の慣習も、名門の誇りも無視し、金と政治力だけで盤面をひっくり返す……。あやつ、平清盛の再来か。常識の通じぬ男よ!」
吉家の懐で、マツキボールも苦々しく明滅する。
『ゲームセットじゃ。……今回は敗北を回避しただけマシと思うしかないのう』
朝倉軍は勅命を受け入れ、雪の敦賀峠を越えて撤退を開始した。
***
朝倉軍撤退の報を受け、浅井長政もまた、小谷城への撤退を余儀なくされていた。
彼は去りゆく織田軍の背中を見つめ、深く嘆息した。
「……義兄上をこの比叡山に釘付けにし、完全に足を止めしたはずだった。なのに、なぜ京は落ちなかったのだ?」
長政の脳裏に、この数ヶ月の戦況報告が走馬灯のように駆け巡る。
この包囲網戦で、織田軍は森可成、坂井政尚という猛将2名と、信長の弟、信治と信興ら多くの将を失った。
それでも織田軍は瓦解しなかった。
伊勢長島の一向一揆は、滝川一益と九鬼嘉隆が水陸両面から封鎖した。
南近江の六角残党は、丹羽長秀と木下秀吉・秀長兄弟が神出鬼没の機動力で制圧した。
摂津の石山本願寺と龍興は、佐久間信盛、松永久秀、荒木村重が老獪かつ冷徹に抑え込んだ。
京の都は、明智光秀と村井貞勝が鉄壁の守備で守り抜いた。
信長の本国美濃は斎藤利治が守りを固め、さらに東の武田信玄が動けなかったのは、徳川家康が北条家と同盟を結び、北条氏康を信長派に転じさせ、武田の背後を脅かし続けたからだ。
そして本陣には義兄・織田信長に加え、稀代の軍師・竹中半兵衛、猛将・柴田勝家、信長の恋女房である長谷川真昼が控えていた。
「……悔しいが認めざるを得ない。義兄上の周りには綺羅星の如く人材が揃っている。……今の浅井・朝倉には、あの厚い選手層を突破する力がないのか……!」
長政は槍を握りしめ、無念の撤退を命じた。
***
京の二条御所で事後報告を受けた将軍・足利義昭は、顔を真っ赤にして激昂していた。
「な、なんじゃとぉぉぉ! 信長め、余に相談もなく帝に奏上したじゃと⁉」
義昭の手にした扇子が床を叩きつける。
「余は征夷大将軍ぞ! 武家の棟梁ぞ! 講和の命令を下すのは余の役目であろうが! 頭越しに帝を使うなど、余を軽んじている証拠! ……許さぬ、許さぬぞ信長ぁぁぁ!」
側近の細川藤孝が「上様、どうかご自重を」と諫めるが、義昭のプライドに入った亀裂は修復不可能なほど深くなっていった。
***
北近江、小谷城に撤退してきた長政を待っていたのは、怒りではなく、冷徹なまでの静けさを纏ったお市だった。
「お帰りなさいませ、長政様。……残念でしたわね。あと一歩で真昼を手に入れられたのに」
お市は茶々とお初をあやしながら、美しい顔で微笑む。
長政と久政が申し訳なさそうに頭を下げるが、お市は気にした風でもなく、卓上の地図に指を這わせた。
「敗因は明確ですわ。……武田信玄。甲斐の虎が動かなかったことです」
「そ、それは……織田と徳川が北条と上杉と結び、武田の背後を牽制していたからで……」
長政の弁明を、お市は遮った。
「ええ。ならば話は簡単、北条をこちら側に引き込めばよろしいのです」
お市の指が、関東の北条領をトントンと叩く。
「北条が信長包囲網に加われば、謙信は北条を相手せざるを得なくなり、武田信玄は後顧の憂いなく西へ進軍できます。同時に、生意気な徳川家康は東の北条と北の武田から挟み撃ちとなり、三河は瞬く間に崩壊するでしょう」
お市の瞳が妖しく光る。
「徳川が潰れれば、武田の騎馬軍団が織田領へ雪崩れ込みます。……そうなれば、さしものお兄様も支えきれますまい」
お市の壮大な構想に、久政がゴクリと唾を飲み込んだ。
「し、しかし……関東の覇者・北条を説得するなど、容易なことでは……」
「私が参りましょう」
広間の闇の中から、ぬるりと巨体が現れた。
ボロボロの鎧を纏い、顔をマスクで覆った男。
かつて今川家に仕え、今は流浪の復讐者となった朝比奈泰朝だ。
「……泰朝殿?」
「今川家を滅ぼされ、主君氏真様を追放された恨み。……北条と武田の同盟、かつて今川が結んでいた三国同盟の再現……この泰朝がまとめてみせましょう」
泰朝の瞳に、決して消えることのない復讐の炎が燃えていた。
「良いでしょう。任せましたわ、泰朝」
お市の許可を得て、泰朝は一礼し、東の空を見上げた。
「……待っていろ、信長。長谷川真昼。……甲斐の虎を、俺が解き放ってやる」
泰朝は単身、関東へと旅立った。
最強にして最大の脅威、武田信玄が動くその日へ向けて。




