第九話 心配
疑いたくない人ほど、疑う理由を見つけたくなくなる。
だから人は、ときに真実よりも「信じたいもの」を選んでしまう。
もし、目の前に小さな違和感が積み重なっていたとしても。
それでも、あなたは大切な人を信じられるだろうか。
俺が診療所の外へ出ると、魚住が軒先に立っていた。
この村で魚屋を営む、俺や瓜より十ほど年下の男だ。
「魚住」
「——鳥居先輩」
魚住は帽子のつばを握り、病室を見ていた。
「熊谷さん、大丈夫ですかね」
「まだ分からん」
「……熊谷さんには、ずいぶん世話になったんです。店を始めた頃、仕入れで失敗したときに、何も聞かず肉を分けてくれて」
「熊谷らしいな」
「代金を払おうとしたら、怒られました。『困ったときはお互いさまだ』って」
魚住は少し笑ったが、すぐに病室へ目を戻した。
「……だから、心配なんです」
俺も病室へ目を向けた。
熊谷の傷が、頭から離れなかった。
前にも見たことがある気がする。
でも、いつ、どこで見たのか思い出せない。
「……なあ、魚住」
「はい?」
「あの傷、どこかで見たことがある気がするんだ。お前は何か知らないか?」
魚住は少し考えたあと、首を横に振った。
「……すみません。俺には分からないです」
「そうか……」
魚住は病室へ目を向けたまま、ぽつりと言った。
「山で、何かに襲われたんじゃないかって話があります」
「熊か?」
「まだ分かりません。噂だけで決めつけたくないんです」
魚住は病室を見つめた。
「熊谷さんは山に詳しいし、獣の足跡だって見分ける。山に入るときも用心してる。そんな人が、あんな傷を負うなんて……」
言葉が途切れた。
「熊の仕業——だといいんですが」
その瞬間、腹の奥が熱くなった。
「……熊谷さんの奥さん、最近どうしてる?」
魚住は少し考えた。
「薬を飲み始めてから、少し変わったらしいです。近所の人から聞いただけですけど」
妻の顔が浮かんだ。
「——うちの妻とは関係ない」
気づけば、そう口にしていた。
「……まだ、何も言ってませんよ」
「分かってる」
なぜ、あんなに早く否定したのか、自分でも分からなかった。
ただ——妻だけは疑いたくなかった。
「……どんな薬なんだ?」
そう尋ねながら、俺はポケットへ手を入れた。
熊谷の妻が飲んでいる薬とは別に、俺も気になっていた薬があった。
昨日、ポケットに入れた薬袋だ。
瓜に聞こうと思っていたはずなのに、すっかり忘れていた。
「……俺、また忘れてたのか」
拳に力が入る。
そのとき、ポケットの中が空なのに気づいた。
「……え?」
反対側も探る。
ない。
薬袋を持っていた感触すら、もう残っていなかった。
それなのに——。
喉の奥だけが、ひどく気持ち悪かった。
まるで、何かを飲み込んだあとのように。
翔平は、何も聞かれていないのに妻を庇ってしまいます。
なぜ、そこまで妻を信じているのか。
その理由は、翔平自身にも分かっていません。
ただ一つ。
彼の記憶には、まだ小さな穴が開いていました。




