第七話 血の匂い
嫌いな匂いがある。
嗅いだだけで、身体が拒絶するような匂い。
ーーそれなのに。
もし、その匂いを嗅いだ瞬間、身体の奥が喜んでしまったら。
頭では嫌がっているのに、身体だけが別の答えを出していたとしたら。
夕方、店の電話が鳴った。
「もしもし、翔ちゃん?」
妻の声だった。
「私、今、診療所なの」
「診療所?」
「少し手を貸してほしいの。来てくれる?」
「ああ。分かった。すぐ行く」
電話を切り、俺は店を飛び出した。
診療所へ向かって走る。
風が頬をかすめ、道端の草が視界の端を流れていく。
その景色に、別の光景が重なった。
——夏の夕暮れ。
同じ道を、瓜と二人で走っていた。
「翔! 早くしろ」
「待てよ、瓜」
「また置いていくぞ」
「お前、足速すぎるんだよ」
「翔が遅いだけだろ」
何をしていたのかは思い出せない。
ただ、隣を走る瓜の笑い声だけが、妙にはっきり残っていた。
昔から、こいつはそうだった。
何も聞かずに隣にいて、失敗すれば笑い、最後には必ず助けてくれる。
——そういう奴だった。
記憶をたどろうとしたが、それ以上は何も浮かばなかった。
気づけば、俺は診療所の前に立っていた。
「……もう着いたのか」
息を整え、扉に手をかける。
そのとき、鼻先をかすかな鉄臭さがかすめた。
思わず息を止める。
嫌悪感より先に、口の中に唾液がにじんだ。
「……何を考えてるんだ、俺は」
自分の反応が気味悪かった。
俺は扉を開けた。
「遅いわよ」
妻が、いつもの調子で声をかけてきた。
「呼んだら、すぐ来てくれないと困るじゃない」
いつもの笑顔。
いつもの声。
なのに、俺はなぜか妻から目を逸らした。
隣にいた瓜が、俺を見る。
「翔、久しぶりだな」
「そうでもないだろ」
「最近は診療所で会うことも減ったからな」
瓜は笑った。
昔と変わらない笑い方だった。
けれど、その目だけは笑っていなかった。
「……どうした?」
「何が?」
「いや」
瓜は一瞬、俺の顔を見つめた。
それから、何でもないように視線を逸らした。
「相変わらず、走るとすぐ顔に出るな」
「昔からだろ」
「そうだったな」
「そうだ、瓜——」
「先生、急患が来ます!」
看護師の声が飛んできた。
瓜の表情が変わる。
幼なじみの顔が消え、医者の顔になった。
「翔、今から急患が来る。人手が足りないんだ。手伝ってくれ」
「ああ」
「頼む。昔みたいに、俺の言うことだけ聞いて動いてくれ」
「昔みたいにって何だよ」
「細かいことは後だ」
瓜が笑い、俺もつられて笑った。
「分かったよ」
遠くからエンジン音が響いてきた。
瓜が入口へ目を向ける。
「……来た」
次の瞬間、車が土煙を上げながら診療所の前へ滑り込んできた。
キキィィィ——!
止まったというより、突っ込んできたような勢いだった。
ここから、翔平の「記憶」だけではなく、「身体」にも小さな変化が現れ始めます。
血の匂いに反応した腹の奥の熱。
本人にも、その理由は分かりません。
そして診療所へ運ばれてくる患者。
次に何が起こるのか、少しだけ注意して読んでみてください。




