第六話 失われた時間
昨日のことを思い出せない。
それだけなら、疲れているせいだと思えるかもしれない。
けれど、自分が「今、何をしていたのか」さえ分からなくなったとしたら。
記憶から抜け落ちた時間には、一体何が残っているのだろう。
翌朝、俺は蔵へ向かった。
「ここも整理しなきゃな」
扉を開けると、埃が舞った。
蔵の奥まで進んだところで、足が止まる。
——箱があった。
「……こんなもん、あったか?」
昨日、見た気がする。
けれど、それ以上が思い出せない。
俺は箱に手を伸ばした。
ざらりとした冷たさが指先に残る。
錆の浮いた古い金属箱。
長い間、雨風にさらされていたようなのに、へこみ一つない。
周囲の古道具とは違い、そこだけが妙に目についた。
しばらく眺めていると、頭の端に何かが引っかかった。
昨日、ここで箱を見た。
それは覚えている。
なのに——。
そのあと、何をした?
考えようとした瞬間、思考が途切れた。
俺は箱に手を添えたまま、目を閉じた。
次に目を開けたとき、俺は外に立っていた。
手にはホース。
足元は濡れている。
箱にも水滴が張り付いていた。
「——なんだ?」
ホースの先から、水が滴っている。
俺は箱を見つめた。
蔵にあったはずだ。
——本当に?
「……俺が、動かしたのか?」
その問いだけが、妙に現実味を持っていた。
けれど、答えは出てこない。
指先がわずかに強張った。
背筋が冷たくなる。
「あなた?」
背後から妻の声がした。
振り返ると、妻が立っている。
「どうしたの?」
「——分からない」
妻は箱へ目を向け、それから俺を見る。
「疲れてるのよ」
その一言を聞くと、不思議と胸が落ち着いた。
「——そうだな」
妻に腕を引かれ、俺は家へ戻った。
途中で一度だけ振り返る。
箱は、そこにあった。
まるで——。
最初から、ずっとそこに置かれていたみたいに。
その後、店を開けて、いつも通り仕事をした。
けれど、その日のことを思い返そうとすると、箱に触れてから外に立つまでの記憶だけが、ぽっかりと抜け落ちていた。
今回は、翔平の記憶から初めて「時間そのもの」が抜け落ちました。
箱に触れた直後、彼は別の場所に立っていた。
その間に何があったのか。
翔平自身にも分かりません。
ただ、箱だけはそこに残っています。




