第三十六話 視線
第三十六話では、翔平がいつもの場所へ向かう中で、何気ない日常の一場面が描かれます。
懐かしい記憶。
変わらないはずの時間。
そして、ふと感じる小さな違和感。
何気ない視線や言葉の中に隠れているものにも、注目していただけたら嬉しいです。
第三十六話「視線」
今回も最後まで、どうぞお楽しみください。
家を出ると、夜風に混じって魚を焼く香ばしい匂いが漂ってきた。
醤油の焦げる匂いに、腹が鳴る。
「……焼き魚か」
もっと近くで匂いを嗅ぎたい。
そんな考えが浮かび、自分でも驚いた。
「——腹減ったな」
俺は弁当を届けに診療所へ向かった。
裏口から入り、妻がいるはずのナースステーションへ向かう。
「翔ちゃん、こっちこっち」
妻の声がした。
「お弁当ありがとう。仕事を済ませてくるから、ここで待っててね」
妻はそう言って、ナースステーションを出ていった。
俺は空いている椅子に腰を下ろした。
カルテを書いていた瓜が顔を上げ、俺を見た。
それから、ペンを持つ手が一瞬止まった。
「——どうした?」
「いや」
瓜は小さく首を振り、再びカルテに目を落とした。
俺は気にせず、待合ホールへ目を向けた。
去年も、妻と一緒にここへ来た。
子どもたちが作った飾りを眺め、妻は笑っていた。
「これ、可愛いわね」
袖を引かれた感触まで、はっきりと覚えている。
妻と過ごした時間は、どれも温かかった。
十七年間。
そう思った瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
——何かがおかしい。
痛みはすぐに消えた。
けれど、妻との日々を思い返そうとすると、頭の奥で何かが引っかかる。
十七年間、一緒に過ごしてきたはずだ。
なのに、思い出そうとすると、どこかが曖昧になる。
何が引っかかっているのかさえ、分からなかった。
「翔!」
瓜に呼ばれ、顔を上げた。
「仕事が終わったら魚を焼くんだ。お前も食ってけよ」
「……ああ」
返事をした瞬間、腹の奥がまた鳴った。
今回は、翔平の日常の中にある懐かしい記憶と、そこに重なる小さな違和感を書きました。
普段なら気に留めないような視線や、何気ない会話。
そうした些細な出来事が、時には心に残り続けることがあります。
覚えていることと、実際に起きたこと。
その二つは、本当に同じなのでしょうか。
これまでのお話とも重ねながら、翔平の周りにある変化を感じ取っていただけたら嬉しいです。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。




