第三十五話 忘却
第三十五話では、翔平のいつもの日常の中に、少しずつ変化していく感覚が描かれます。
何気ない出来事。
いつもと変わらないはずの時間。
それなのに、ふとした瞬間に感じる小さな違和感。
翔平が何を感じ、何を信じようとしているのか。
これまでのお話とも重ねながら、ぜひその変化を感じ取っていただけたら嬉しいです。
第三十五話「電話」
今回も最後まで、どうぞお楽しみください。
「ただいま」
靴を脱ぎながら、いつものように声をかける。
「今日は寒かったな」
返事がない。
台所にも、人の気配はなかった。
ふと、冷蔵庫に貼られた勤務表へ目を向ける。
——妻の名前があった。
「そうだった。今日は診療所に泊まりだったか」
口にした瞬間、胸の奥がざわついた。
さっきまで、そのことを忘れていた。
いや。
忘れていたことさえ、気づいていなかった。
「……そういや、何か頼まれてたような」
俺は急須に湯を注いだ。
妻が淹れてくれる茶を思い浮かべ、一口飲む。
「やっぱり、自分で淹れると違うな」
誰もいない居間で、独り言がこぼれた。
テレビをつける。
いつもなら隣に座る妻の声が、今日はない。
テレビの音だけが、やけに大きく聞こえた。
しばらくすると、ジリリリリ——と電話が鳴った。
受話器を取る。
「もしもし」
「翔ちゃん?」
妻の元気な声に、少し肩の力が抜けた。
「どうした?」
「お弁当、届けてくれるんでしょ?」
「ああ。今から作るところだ」
「本当に?」
「本当だって」
「ふふ。じゃあ、忘れないでね」
「忘れるわけないだろ」
「この前、忘れたじゃない」
「……あれは忙しかったんだよ」
「はいはい」
妻が笑う。
「冷蔵庫の中に食材が入ってるから、適当に詰めて持ってきて」
「了解」
「あと、診療所の裏口。いつものように開けておくから」
「ああ」
「じゃあ、またあとでね」
「またあとで」
カチャン、と受話器を置いた。
「忘れてたなんて言ったら、また心配されるな」
台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。
鶏もも肉、玉ねぎ、卵が入っていた。
「親子丼くらいなら、すぐ作れるか」
鶏肉を取り出したところで、手が止まる。
魚住の話を聞いてから、妻が料理に振りかけていた白い粉が気になっていた。
瓶を手に取り、蓋を開ける。
鼻の奥をつく、独特な匂い。
「……こんな匂いだったか?」
頭の奥がズキリと痛む。
何かが引っかかった。
もう少しで思い出せそうだった。
けれど、その瞬間——。
頭の中から、何かがすっと抜け落ちた。
「……何だ、今の」
瓶の中では、白い粉が何事もなかったように残っている。
妻が俺に悪いものを食べさせるはずがない。
そう信じているのに、不安は消えなかった。
「……大丈夫だ」
自分に言い聞かせ、瓶を置く。
それでも、白い粉から目を離せなかった。
指先が、ほんの少しだけ瓶の縁をなぞる。
なぜそんなことをしたのか、自分でも分からない。
弁当を手に取り、俺は診療所へ向かった。
今回は、何気ない日常の中にある「小さな違和感」を中心に書きました。
いつも通りだと思っていたことが、ほんの少しだけ違って見える。
覚えているはずなのに、なぜか確信が持てない。
そんな感覚が積み重なることで、日常そのものが少しずつ揺らいでいくのかもしれません。
これまでのお話の中に出てきた出来事とも重ねながら、翔平の感じている変化を追っていただけたら嬉しいです。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。




