第三十二話 喉
ここまで「回収箱」を読んでくださって、本当にありがとうございます。
第三十二話では、診療所での出来事をきっかけに、翔平と瓜の間にある長い付き合いが、少しだけ違った形で見えてきます。
昔から変わらない関係。
何気ない会話。
そして、ふとした瞬間に感じる小さな違和感。
普段なら気にも留めないようなものが、なぜか心に残ることがあります。
第三十二話「喉」
今回も最後まで、どうぞお楽しみください。
ナースステーションへ戻ると、妻の声が響いた。
「あなた!患者さんの前では、顔に出しちゃ駄目。あの子、怖かったはずよ」
妻は腕を組み、俺を叱った。
「——すみません」
「もう。気をつけてね」
その横で、瓜が苦笑した。
「昔から変わらんな」
「え?」
「いや。何でもない」
瓜は笑ったが、その目は笑っていなかった。
「瓜先生も、ちゃんと言ってやって」
妻に促され、瓜は少し間を置いて答えた。
「まあ……こいつは考え込むと周りが見えなくなるからな」
「……そうね」
妻はそれだけ言うと、ナースステーションを出ていった。
俺はその背中を見送った。
「なんであんな風に言われなきゃいけないんだ」
「ん?」
「……今、妻が——」
そこまで言って、口を閉じた。
瓜は何も聞かず、俺の顔をじっと見た。
「……翔。無理に話さなくていい。お前が話したくなったら、そのとき聞く」
「……変な奴だな」
「今さらだろ」
瓜が笑う。
その笑顔は、少しだけ昔の瓜に戻っていた。
けれど——。
瓜の喉が動いた。
ごくり。
少し間を置いて、もう一度。
その動きが妙に規則正しく見えた。
俺の視線は、そこから離れなかった。
「——翔?」
返事ができない。
ただ、瓜の喉を目で追っていた。
「……喉が気になるのか?」
瓜が自分の喉に手を当てた。
「……分からない」
瓜は一瞬だけ医者の顔になったが、それ以上は聞かなかった。
「——翔」
もう一度呼ばれ、ようやく我に返った。
「今日はもう帰れ」
「——なんでだよ。まだ手伝える」
「駄目だ」
思ったより強い声だった。
瓜は少し黙ってから、声を落とした。
「……悪い。でも、お前の身体の方が心配なんだよ」
「俺の?」
「ああ。昔から、お前は自分のことになると鈍いからな」
「お前だって人のこと言えないだろ」
「俺は医者だからな」
「それ、便利な言い訳だな」
「今さらだろ」
二人で少しだけ笑った。
けれど、瓜の笑顔は長く続かなかった。
もう一度、喉が動く。
ごくり。
腹の奥が、わずかに反応した。
「……お前」
言葉が出かかったが、何を聞けばいいのか分からない。
喉が動くたび、腹の奥が反応する。
俺は思わず、自分の腹に手を当てた。
何も起きていない。
なのに——。
身体だけが、何かを待っているようだった。
瓜は俺の様子を見ていた。
このまま家へ帰れば、また妻と顔を合わせる。
なぜか、今はそれが怖かった。
妻が怖いのか。
それとも——。
自分の身体が怖いのか。
俺には、まだ分からなかった。
第三十二話まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
今回は、翔平と瓜のやり取りを通して、二人の長い付き合いが少しだけ垣間見えるお話になりました。
昔から知っている相手だからこそ、言葉にしなくても分かることがあります。
その一方で、長く一緒にいるからこそ、言葉にできないこともあるのかもしれません。
何気ない仕草や会話の中にも、これからの物語につながるものが隠れているかもしれません。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。




