第三十一話 目つき
ここまで「回収箱」を読んでくださって、本当にありがとうございます。
第三十一話では、翔平が目の前にあるものを見つめる中で、これまでとは少し違った感覚に触れていきます。
自分では気づいていない変化。
何気ない視線。
そして、周囲から見た翔平の姿。
同じ場所にいても、人によって見えているものは違うのかもしれません。
第三十一話「目つき」。
今回も最後まで、どうぞお楽しみください。
俺も後を追おうとした。
だが、足が床に張りついたように動かない。
目を逸らしたはずなのに、意識はまた、白く露出した右腕へ引き戻されていた。
柔らかそうだ。
そんな考えが浮かび、自分でもぞっとした。
目を逸らさなければ。
そう思うのに、視線が離れない。
肉の色。
傷口の形。
どこからなら噛みつきやすいのか。
そんなことまで考えていた。
「——っ」
自分で自分に驚いた。
何を考えている。
視線を逸らす。
けれど、また腕へ戻ってしまう。
「おじさんのおめめ——こわい。」
少女が泣き出した。
「え?」
俺は思わず目元に触れた。
何も変わっていない。
——本当に?
背中が冷たくなる。
俺は、何を見ていた?
少女の腕か。
それとも——。
食べ物を見るような目で、見ていたんじゃないか。
視線を落とす。
自分の手が、わずかに震えていた。
どこかで、この光景を見たことがある。
そんな感覚だけが残っていた。
「ご、ごめんね。」
「初めて見る症状で——びっくりしちゃって。」
そう謝っていると、後ろから聞き覚えのある声がした。
「ごめんね、朋美ちゃん。」
「おじさん、怖かったよね。」
「おばさんが悪いやつ、やっつけるから。」
妻だった。
いつもの声。
いつもの笑顔。
妻はそう言って、俺の足を軽く踏んだ。
「——痛っ。」
「もう。」
妻が小さく笑う。
その瞬間、さっきまで腕から離れなかった視線が、ようやく外れた。
服の裾が、くいっと引かれた。
「行こう。」
俺は妻に連れられるように、病室を出ようとした。
そのとき。
「——翔。」
後ろから、瓜の声がした。
振り返る。
瓜は、俺を見ていた。
いや。
正確には——。
俺の隣を見ていた。
その目は、何かを確かめるようだった。
「……どうした?」
瓜は答えなかった。
ただ、俺の隣から目を逸らさない。
その顔には、さっきまでの医者としての落ち着きがなかった。
何かを見ている。
いや。
何かが、見えているのかもしれない。
「瓜?」
もう一度呼ぶ。
瓜はようやく俺を見る。
「……何でもない。」
「何でもない顔じゃないだろ。」
「そうか?」
瓜は無理に笑った。
けれど、目だけは笑っていなかった。
「……今日はもう帰れ。」
「え?」
「疲れてるんだろ。」
「でも、まだ——。」
「いいから。」
いつもの瓜なら、もっと軽く言う。
冗談の一つでも言って、俺を帰らせる。
なのに今は、妙に真剣だった。
「……分かった。」
俺が頷くと、瓜は小さく息を吐いた。
それから、もう一度だけ俺の隣を見る。
妻が、俺の袖を引いた。
「行きましょう。」
「……ああ。」
俺は瓜を見た。
それから、隣にいる妻を見る。
妻は、いつものように笑っていた。
第三十一話まで読んでくださって、本当にありがとうございます。
今回は、翔平自身が感じていることと、周囲から見えている翔平の姿との間に、少しずつ違いが生まれていくお話になりました。
本人にとっては何気ないことでも、誰かの目には違って映る。
そんな小さなずれが積み重なることで、日常の景色も少しずつ変わっていくのかもしれません。
これまでのお話の中にも、翔平が見落としているものがあったのか。
そう考えながら読み返していただくのも、楽しんでいただけると思います。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。




