第二十五話 いただきます
一口だけなら、何も変わらない。
そう思ってしまうことがあります。
けれど、一度口にしてしまったものを、もう止められなくなったら。
それは「食欲」と呼んでいいものなのでしょうか。
寝室から妻の寝息が聞こえる。
俺はその音を聞きながら、箸を取った。
目の前には、皿に並べられた肉。
一切れを口へ運ぶ。
——熱い。
舌が焼ける。
それでも、口は止まらなかった。
噛むたびに肉の繊維がほどけ、身体の奥へ何かが流れ込んでくる。
空っぽだった場所が、満たされていく。
「……うまい」
呟いた自分に、ぞっとした。
箸を置こうとした。
けれど、次の一切れを掴んでいた。
「やめろ」
声に出しても、手は止まらない。
口へ運び、噛み、飲み込む。
肉が一つずつ消えていく。
腹はとうに満たされている。
それなのに、まだ足りない。
もっと欲しい。
視界に入るものが、肉だけになっていく。
最後の一切れを掴んだ。
「……やめろ」
声が震えた。
それでも、肉は口の中へ消えていった。
皿には何も残っていなかった。
俺は空になった皿を見つめた。
聞こえるのは、妻の寝息だけ。
口元を拭う。
指先に残った脂が気持ち悪い。
吐きたい。
そう思った。
なのに、口の中に残った味が妙に恋しかった。
「……」
唇を舐める。
その動きに、自分でも嫌な感覚がした。
そして、信じられない言葉が漏れた。
「——美味しかった」
満腹なのに、まだ足りない。
頭では「やめろ」と叫んでいるのに、身体は食べ続ける。
今回の翔平は、自分自身の中にある何かに怯えています。
そして最後に残ったのは、空になった皿と、ひとつの言葉でした。
その言葉を、翔平自身が口にしたことが一番恐ろしいのかもしれません。




