第二十二話 食べ物
人は、自分の知らないものを見たとき、どう感じるのでしょうか。
初めて見るもの。
嗅いだことのない匂い。
触れたことのない感触。
そう思っていたはずなのに、なぜか懐かしさを覚えることがあります。
記憶にはないのに、身体だけが知っている。
もしそんなことが起きたら、その感覚を信じられるでしょうか。
第二十二話「食べ物」
どうぞ、最後までお楽しみください。
蓋を開けた瞬間、鼻をつく生臭い匂いが広がった。
箱の中を覗き込む。
暗がりに、何かが見える。
朝露に濡れた毛。
その奥から、閉じた瞼と潰れた鼻先が浮かび上がる。
そして——耳。
付け根が裂けていた。
朝日が差し込み、全体が見えた。
——熊の頭だった。
「……熊」
診療所で見た光景が蘇る。
あの毛。
あの身体。
そして、あの札。
あのとき、熊の頭はまだ身体についていたはずだ。
なのに、今は——。
俺は箱の中を見つめた。
いつ、切り離された?
誰が、ここまで運んできた?
診療所から箱まで、誰かが運ぶところを見た覚えはない。
そもそも、いつからここにあったのかさえ分からなかった。
「……なんなんだよ」
死んだ獣の頭だ。
触れるのもためらうはずなのに、腹が鳴った。
口の中に唾液が溜まる。
生臭い匂いが、妙に心地よく感じられた。
「……なんだよ、これ」
目を逸らしても、匂いは追ってくる。
鼻先が、無意識に匂いを探るように動いた。
腹の奥が熱い。
喉が鳴る。
——食べたい。
その言葉が浮かび、背筋が凍った。
「これは熊だ」
自分に言い聞かせる。
それなのに、指が箱の縁を掴んだ。
もう一方の手が、熊の頭へ伸びていく。
「……やめろ」
手は止まらなかった。
毛先に触れる。
ざらりとした感触が指の間を滑った。
その瞬間、身体の奥から妙な安心感が込み上げてきた。
——知っている。
この感触を。
この匂いを。
この重さを。
「……知ってる?」
自分の声が震える。
記憶にはない。
なのに、熊を前にすると、身体の奥から別の感覚が湧いてくる。
熊の頭を見つめているうちに、言葉が漏れた。
「……食べ物」
言った瞬間、自分自身が一番恐ろしくなった。
第二十二話を読んでくださって、ありがとうございます。
今回のお話では、「知っているはずのないもの」に対する感覚を書きました。
記憶にないのに、懐かしい。
理解しているのに、納得できない。
そんな相反する感覚が、少しずつ日常を変えていくことがあります。
「回収箱」では、こうした小さな違和感を積み重ねながら、物語を進めています。
ここまで読み進めてくださった皆さまに、心から感謝いたします。
これから翔平が何を知り、何を思い出していくのか。
引き続き、見届けていただけたら嬉しいです。




