第二十一話 幸せな時間
夜明け前の時間は、不思議なものです。
まだ街は眠っていて、音も少なく、いつもの景色さえ少し違って見えることがあります。
そんな静かな時間に、もし自分の身体に「何かがおかしい」と感じる時間があったら。
それが気のせいなのか、それともーー。
今回のお話は、そんな小さな違和感から始まります。
どうか、夜明け前の静けさの中で、最後までお付き合いください。
まだ夜明けには早かった。
それでも、俺は目を覚ました。
隣では妻が眠っている。
起こすには早すぎる。
店の掃除でもするか。
そう考えて、布団から身を起こした。
足を畳へ下ろす。
その瞬間、妙な感覚があった。
——何かがおかしい。
畳を踏んでいる。
いや。
——掴んでいる。
足元を見る。
足の指が、畳を掴むように曲がっていた。
指先に力を入れた覚えはない。
それなのに、畳の目を一本ずつ拾うように、足の指が動いている。
爪も、いつもより長く伸びているように見えた。
瞬きをして、もう一度見る。
いつもの足だった。
「……疲れてるだけか。」
そう呟いても、違和感は消えない。
足を動かしてみる。
今度は、自分の意思で動いた。
少しだけ、ほっとする。
隣では、妻が静かな寝息を立てている。
布団が肩から落ちていた。
拾い上げ、そっと掛け直す。
「風邪ひくぞ。」
妻は身じろぎしただけで、目を覚まさない。
その寝顔を見ていると、不思議なくらい気持ちが落ち着いた。
さっきまでの違和感も、少しずつ薄れていく。
「……この人と一緒にいられて、よかった。」
その言葉に反応するように、妻が寝言を漏らした。
「……翔ちゃん。」
すぐに、また静かな寝息へ戻る。
俺はしばらく妻を見つめ、それから寝室を出た。
窓の外は、まだ薄暗い。
店先に置いた回収箱が、ぼんやりと見えた。
——箱。
見た瞬間、胸の奥が重く沈む。
目を逸らしたい。
そう思った。
なのに、気づけば玄関の扉を開けていた。
「……?」
扉を開けた記憶がない。
一歩、外へ出る。
——止まれ。
そう命じた。
それでも、足は進んだ。
足裏ではなく、足の指先で地面を確かめるような感覚がある。
一歩進むたび、地面の凹凸が妙にはっきり伝わってくる。
「……やめろ。」
声に出しても、足は止まらない。
むしろ、何かを探すように足先が地面を捉えていく。
気づけば、俺は回収箱の前に立っていた。
手を伸ばす。
指先に、ひんやりとした箱の感触が伝わった。
その感触を知っている。
いや。
知っているなんてものじゃない。
——待っていた。
そんな感覚だった。
俺が箱を開けるのを。
ずっと。
「……俺を、呼んでるのか?」
答える声はない。
それでも、手は蓋から離れなかった。
指が、錆びた縁を確かめるようにゆっくり動く。
その動きが、自分の意思なのか分からない。
一瞬だけためらう。
それでも俺は、箱を開けた。
今回は、静かな夜明け前から始まるお話でした。
大きな音も、突然の出来事もない。
それなのに、少しずつ何かがおかしくなっていく。
そんな強さを感じていただけたら嬉しいです。
そして、最後まで読んだあとに、もし自分の足元や手先が少し気になったならーー。
そのときは、どうか気にしないでください。
…たぶん。
次のお話も、ぜひお付き合いください。




